第13話:告白の練習
「…………」
「…………」
その場に、言いようのない気まずい沈黙が舞い降りた。
ベルティナは完全に呆然としていた。なぜなら彼女は今、目の前の男の顔に、あからさまな【恐怖】の色を見たからだ。
(おかしいわね……)
私は確かに「あなたが好き」と言ったはずだ。それなのに、この男のリアクションは、まるで「お前の家族を皆殺しにしてやる」とでも脅されたかのような怯え方ではないか。
ベルティナの脳内はパニックで大混乱に陥った。
彼女は慌てて手振りを交えながら、必死に弁明の言葉をまくし立てた。
「ち、違うの! 間違えたのよ! 今の言葉はね、私が本当に好きな人に伝えるためのセリフなんだけど、どうしても恥ずかしくて口に出せないから、あなたに練習の相手になってほしかっただけよ!!」
ベルティナはほとんど叫ぶようにして、一気にその言い訳を吐き出した。
言い終えるや否や、彼女は両手で顔を覆い隠した。指の隙間から覗く耳たぶは、トマトのように真っ赤に染まっている。
(終わったわ……! せっかくのデートが台無しよ! こんな下手くそな嘘、誰が信じるっていうのよ……!)
彼女が内心で頭を抱え、絶望していた――その次の瞬間だった。
「――ふぅ~! なんだ、焦ったぁ……! てっきり僕への告白かと思っちゃったよ。なんだ、ただの勘違いか! よかったぁ……!!」
「…………」
ベルティナの額に、ピキピキと青筋が浮かび上がった。
生まれてこの方、これほど男を殴りたいと思った衝動は初めてだった。
その時、タン・ピンが自分の顔をじっと見つめ、何かを考え込んでいることに気づいた。
「……っていうか君、なんか見覚えがあるな。どこかで会ったような……あ! さっきのドレスの美人さんか!?」
「び、美人!? 今、私のこと美人って言ったかしら!? ふふ、ふふふふ!」
タン・ピンからのストレートな賛辞に、ベルティナの心は一瞬にして歓喜の炎で満たされ、一人でハッピーな妄想の天国へと昇天していった。
彼女の耳には、早くもウェディングベルの幻聴が鳴り響いている!
「私はね――」
ビリッ!!!
嬉しさのあまり勢いよく立ち上がって自己紹介をしようとしたベルティナだったが、動きが大きすぎて、自分でドレスの裾を踏んづけてしまった。
結果、薄手の高級ドレスは膝のあたりから、太ももの付け根(大腿根部)に向かって一気に裂け開いた。
チラリと覗いた、その純白の布地は……。
ま、まさか、下着ではないだろうか!?
「きゃああああああああーーーっ!!」
ベルティナの悲鳴が響き渡る。
「嫌! 見ないで! 見ないで、見ないでぇええ!!」
慌てて隠そうと身をよじるが、その動作のせいで、布地は無慈悲にもさらに裂け広がっていく。
見かねたタン・ピンが、ついに動いた。
彼はまず、自分にすがりついていたベルティナを優しく引き離すと、すっと立ち上がり、自分の上着を脱いで彼女の腰へと丁寧に巻きつけた。
これで、彼女の無防備な下半身は完全にシャットアウトされた。
「ふぅ……あ、ありがとう……」
ベルティナが顔を赤くしながら小さく頭を下げると、タン・ピンはすぐに視線を逸らした。
理由は他でもない。これ以上見てしまうと、あの目の前に広がる大峡谷(豊かな胸元)の引力に魂まで吸い込まれ、二度と戻ってこられなくなりそうだったからだ。
何とか理性を保って視線を下に向けると、彼はこの美女が「裸足」であることに気づいた。
まるで精巧な芸術品のように透き通った美しい両足が、そのまま無骨なタイル張りの地面を踏みつけている。雪のように白かったはずの肌は、すでに土埃で薄汚れてしまっていた。
その光景に、タン・ピンの胸がわずかに痛んだ。
「君、靴はどうしたの?」
「……あれを着けて歩くのは不便だったから、脱いで途中に捨ててきちゃったわ」
「…………」
歩きにくいと分かっていて、なぜわざわざそんな戦闘力の低い靴を履いてきたんだ。
タン・ピンは心の中で激しくツッコミを入れつつも、回れ右をして、彼女が走ってきたルートへと戻り、途中に転がっていたハイヒールを拾い集めて戻ってきた。
「ここは立ち話をする場所じゃないな。とりあえず……君に合う靴を探しに行こう」
*
ショッピングモール内にある一軒のシューズショップ。ベルティナは柔らかいソファに腰掛け、好奇心に満ちた目でキョロキョロと周囲を見回していた。
その間にタン・ピンは、棚から真っ白なカジュアルサンダルを選び出し、さらに隣のレディースショップから一着のワンピースを見繕って、彼女の前へと差し出した。
「ひとまずこれを着てみて。サイズが合わなかったら別のを持ってくるから」
「ありがとう!」
ベルティナは純白のワンピースに着替え、新しいサンダルを履いた。
彼女がトントンと二、三歩歩いてみると、足の裏から返ってくる未知の弾力に、目をごちそうのように丸くして驚愕した。
「ふわふわしてる……! まるで、綿飴の上を歩いているみたい……!?」
「それはEVA(エチレン酢酸ビニル共重合樹脂)っていう素材だからね。クッション性が高くて柔らかいのは当然さ」
「いー……ぶい、えー……?」
ベルティナは小首を傾げた。その頭上には巨大な疑問符が浮かんでいる。
「ところで、君は一体誰なんだ? ジェナさんはどうしたの?」
タン・ピンはすでに自分がすっぽかされた(放り出された)ことを察していたが、念のため確認することにした。ちなみに、彼女がさっき言っていた「告白」だの「手助け」だのという不穏なワードは、全力でスルーすることに決めている。
すると、ベルティナはスッと背筋を伸ばし、完璧な宮廷の淑女の礼を決めてみせた。
「我が名はベルティナ・ブラウアー・フルス。ブラウアー帝国の第一皇女であり、今年で二十五歳……【独身】よ!」
なぜか、彼女は最後の二文字を特に強調した。
言い終えると、彼女は恥ずかしそうにタン・ピンをチラリと盗み見、すぐにぷいっと視線を逸らした。タン・ピンの気づかない足元では、彼女の白く可愛らしい足の指先が、緊張のあまりぎゅっと縮こまっていた。
「じゃあ、ジェナさんは君の……?」
「姪よ! ルナリアは私の姉で、私たちには8歳の年齢差がある!」
「なるほどね……」
タン・ピンは顎を撫でた。
確かに、よく見れば目の前の美女はジェナと顔立ちが酷似しているだけでなく、あの美しい砂金色の長髮もそっくりだ。ジェナがあと数年成長すれば、きっとこのような大人の色香を放つ女性になるのだろう。
タン・ピンは彼女を観察しながら、本題を切り出した。
「それで、さっき言ってた『告白』って何のこと? 正直、突っ込まれすぎてよく聞こえなかったんだ。簡単に説明してくれるかい?」
「ええ、いいわよ! 簡単に言うとね、私、敵国の……『王子様』を好きになっちゃったの! でも、告白してフラれるのが怖くて……だから、あなたに告白の練習台になってほしいのよ!」
「お、王子……? 誰それ、どんな奴(見た目)なんだ?」
タン・ピンの脳内に冷たい汗が流れた。彼は慌てて問い詰める。
その日、リアドだけが女と間違えられて残されたほか、残りの男たちは皆、彼によってトラックに放り込まれ、モニカによって郊外に運ばれて捨てられた。
もしこの王子が、たまたま魔獣に食べられてしまったら大変だ。
「彼はワイルド王国の王子であり、南大陸の第一美男子と謳われるお方よ。名を、ユリアン・ロレンツォというわ」
そう語るベルティナの瞳は、タン・ピンを見つめながら、期待と熱を帯びてキラキラと輝いていた。
「美男子……あ!」
タン・ピンは思い出した。
確かにそんな奴を運んだ記憶がある。やたらと顔の整った、生意気そうな金髪のイケメンだ。
タン・ピンは慌ててスマートフォンを取り出し、モニカの番号を呼び出した。
次の瞬間、即座に通話が繋がる。
「モニカ! 確かあいつらの体にもチップを仕込んであったよな? あのユリアンとかいう男、まだ生きてるか!?」
モニカは秒で答えた。
『名前がユリアンかどうかは知りませんが、あの連中の中で【一番顔がマシだった男】なら、確かにまだ生存信号が出ていますよ』
その言葉を聞いて、タン・ピンは心底ホッと胸をなでおろした。
彼はベルティナの方を振り返り、営業スマイルを浮かべて言った。
「あの……その王子殿下、どうやら無事に生きているみたいです。もし告白したいっていうなら、今すぐあそこまで送り届ける自動運転のタクシーを手配しますけど?」
その提案を聞いた瞬間、ベルティナの頬の筋肉がピクリと引き攣った。彼女の内心は、まるで熱湯をかけられた蟻のように大パニックに陥る。
「じゃあそういうことで! 僕、まだ他に仕事が山積みだから、これで失礼し――」
タン・ピンが言い終わる前に撤退を試みた、その次の瞬間だった。
グイッ、と彼の左腕が、あり得ないほどの力と柔らかさで強固に抱え込まれた。
「お待ちになって! 行くのは許しません! あなたはここに残って、私に付き合う義務があるわ!」
ベルティナはまるで獲物に絡みつく大蛇のように、全身でタン・ピンの腕にまとわりついてきた。
タン・ピンは引き離そうとしたが、うら若き乙女の柔らかな肢体に下手に触れるわけにもいかず、ただ必死に身悶えするしかない。
「放せ! 僕はこれでも最高執政官なんだぞ! こんな子供騙しの遊びに付き合ってる暇は――!」
しかし次の瞬間、タン・ピンの言葉は完全に喉に引っかかった。
目の前に突きつけられた「ある光景」が、彼の思考をフリーズさせたのだ。
「よくご覧なさい! あなたに拒否権なんてないのよ! 私がタノシ様と交わした【契約】に基づき、あなたは最低でも三日間、大人しく私のエスコートをしなければならないのだから!」
ベルティナは右手をご機嫌そうに、誇らしげに掲げてみせた。
彼女の手背――そこには人間の皮膚ではなく、気高く美しい、眩いほどに白い「鱗」が一面に並んでいた。そしてその中央には、不気味に明滅する深青色の紋様がくっきりと浮かび上がっている。
「……【水神印】?」
タン・ピンは呆然と呟いた。
「ええ、その通りよ。では……改めて自己紹介をさせていただきます。我が名はベルティナ。あなたと同じく、偉大なるタノシ様の契約者です」
「どうぞよろしくお見知り置きを、最高執政官――タン・ピン様?」
ベルティナは妖艶に微笑んだ。それは、どんな頑固な氷河をも一瞬で融解させてしまうほどに美しい笑みだった。
*
ショッピングモールの一角にあるファミリーレストラン。タン・ピンは半ば連行される形でベルティナをそこへ連れて行った。
彼はまずベルティナを席に着かせると、「注文してくる」と言い訳をして一人でカウンターに向かい、すかさずスマホをモニカへと繋いだ。
「モニカ、これ一体どういうことだ!? 新しい契約者だの告白の練習だの、僕は何も聞いてないぞ!」
『まずは落ち着きなさい、タン・ピン……』
「これが落ち着いていられるか!!」
あまりにも急すぎる急展開に、タン・ピンは完全に情緒不安定になっていた。
しかし、スマホの向こうのモニカは相変わらず淡々とした冷徹な声で告げた。
『その女性は相応の【代価】を支払い、タノシ様の信頼を勝ち取ったのです。簡単に言えば、ブラウアー皇室における、我が方にとって「唯一の身内」ということですよ』
「だけど……!」
『タノシ様はすでに報酬を受け取ってしまわれました。今更それを吐き出すはずがないでしょう。たったの三日間です、大人しく彼女のデート(告白の練習)に付き合いなさい。あれほどの美女で、しかも巨乳なのですから、あなたが損をすることなど何一つないはずです』
「……あの邪神、一体全体何を考えてやがるんだ」
タン・ピンはタノシの、底の知れない気まぐれな思考回路が本当に理解できなかった。
『――それはこちらの台詞です。あなたが先にタノシ様の利益を損なうような「小細工」を裏で仕込むから、あのお方はこういう形であなたを弄にしているのですよ』
モニカの痛烈な一言に、タン・ピンは完全に言葉を失った。
「……じゃあ、僕に選択の余地はないってことか?」
『最初からありませんよ』
「…………」
タン・ピンはアンドロイド(仿生人)の店員から料理の乗ったトレイを受け取り、ハイライトの消えた魚のような目でトボトボと席に戻った。
彼は注文した「サーロインステーキセット」の片方をベルティナの前へと押しやり、自分は現実逃避するように大きな落地窓(ガラス窓)の外へと視線を向けた。
ここは四階。眼下には青々と茂る公園の芝生が広がっている。
そこでは七、八人の子供たちが楽しそうに追いかけっこをしており、傍らではメイドたちが大きな木の下から温かい眼差しで彼らを見守っていた。
滑り台やブランコといった遊具だけでなく、少し離れた場所には二ヘクタールほどの人工湖と、立派な石造りの野外劇場まで見通せる。
美味しい食事に、美しい景色。――すべてが揃っているというのに、目の前の美女は自分の恋人ではない。
それどころか、自分はただのチェスの駒に過ぎないのだ。
「はぁ……」
タン・ピンは重いため息をついた。
彼がふと正面に向き直ると、そこにはちょうどナプキンで上品に口元を拭っているベルティナの姿があった。
「――ごちそうさまでした!」
「…………」
タン・ピンは我が目を疑った。
彼女の前の真っ白な皿の上からは、ジューシーな牛排も、ブロッコリーも、玉ねぎも、トマトも、そのすべての姿が綺麗さっぱり消失していた。
彼女に料理を渡してから、まだ三分と経っていないはずだ。
(……おい嘘だろ、異世界のプリンセスって、全員こんなフードファイター並みの大食いなのか!?)
タン・ピンの、引き攣った非難の視線に気づいた瞬間、ベルティナの顔は耳の根元まで真っ赤に染まった。
彼女はアワアワと両手を振りながら、必死に弁解を試みる。
「ち、違うの! 誤解しないで! 私、こんなに美味しい食べ物を食べたのが本当に久しぶりだったから、その、つい理性が飛んでしまって……! あああ! 皇室の威厳が、私のせいで完全に台無しに……っ!」
「…………」
(いや、君が『告白の練習』とかいう電波な言い訳をのたまわった時点で、威厳なんてとっくに消滅してるよ)
タン・ピンはそう喉まで出かかったが、これ以上彼女の精神を追い詰めるのも不憫に思い、何とかその言葉を飲み込んだ。
「ところで……君のお姉さんは、なんであんなに僕のことを嫌っているんだ?」
タン・ピンは肉をナイフで切り分けながら、世間話の体で尋ねた。
ふと見ると、ベルティナはタン・ピンの皿の上にあるステーキを、蛇に睨まれた蛙のようにじっと凝視し、ゴクリと激しく喉を鳴らしていた。
「……すまない、店員さん! 追加で『フィレステーキセット』をもう一つ!」
アンドロイドの店員はにこやかに一礼し、すぐさま調理に取り掛かった。
ベルティナは恥ずかしそうにへへっと笑い、ようやく質問に答えた。
「姉様はたぶんね……あなたが、私とジェナを【誘拐(お持ち帰り)】しようとしてるって勘違いしているのよ」
「……は?」
タン・ピンのナイフを動かす手が、完全にストップした。口の中にあった肉を咀嚼することすら忘れてしまう。
「タン・ピン様、お忘れですか? 私たち、以前にも一度お会いしているのですよ。それも、あなたがジェナに出会うよりも、もっとずっと前の話です」
「会ったこと……あったっけ……?」
タン・ピンが全く思い出せない様子を見て、ベルティナの頬が瞬時にプクッと、まるで威嚇するフグのように丸く膨らんだ。
そのあまりにも幼稚で愛らしい抗議行動に、タン・ピンは思わず吹き出しそうになる。
その時、彼は彼女の髪の毛に目を留めた。ジェナと同じ砂金色だが、ベルティナの髪は光の加減でさらに淡く、まるで神秘的なプラチナブロンド(白金色)のように輝いている。
(待てよ……この色、どこかで見たような……)
「――あ! 君、あの時、お城の門の前で兵士に斬られそうになってた、あの時の……っ!?」
タン・ピンはガタッと椅子を鳴らして驚愕した。
ベルティナは嬉しそうに、そして今度は深く、感謝を込めて一礼した。
「ええ。あの時、あなたが絶妙なタイミングで現れて私を救ってくださらなければ、私は今頃、あの場所で冷たい骸になっていましたわ」
ちょうどその時、アンドロイドの店員が、湯気を立てる二皿目のフィレステーキを運んできた。
ベルティナは「待ってました!」とばかりに、店員に満面の笑みでペコリと頭を下げた。
「私、あの後お城にこっそり戻ってから、姉様に今日のことを話したの。そうしたら姉様にめちゃくちゃ怒られて、『あの男は詐欺師に違いないわ』って……。その後に、あなたがジェナに親しくしているところを見ちゃったから、姉様の中であなたの不審者疑惑がさらに深まっちゃったみたい」
「あー……なるほどね。そりゃそうか……」
しかし……それも無理はない。
もし自分がルナリア女王の立場だったら、どこの馬の骨とも知れない男が、お城の外で妹を映画さながらに英雄の如く救ったかと思えば、今度は娘を映画に誘っているのだ。間違いなく「こいつ、我が皇族の女を片っ端から手籠めにしようとしている、頭の中がハレム脳のドクズ男だな……」と警戒するに決まっている。
(……って待て、僕は断じてクズ男じゃないからな!?)
思考の迷路から脱出したタン・ピンは、少し気になっていたことを尋ねた。
「ところで、ジェナさんは……僕のこと、嫌いになっちゃったのかな?」
「えっ?」
ベルティナは驚いたように目を丸くした。
「だって、そうでなきゃ今日の約束をすっぽかして、代わりに君を寄こしたりしないでしょ」
タン・ピンは自嘲気味に苦笑した。
メッセージの一通すら送ってこず、直接身内を、それも自分より年上の長輩を代理として差し向ける。そんな行動が意味することは、言わずもがなだ。
「違うの! ジェナはあなたのことを決して嫌ってなんていないわ! 皇族の名誉にかけて誓ってもいい、本当に!」
「彼女にはただ……その、どうしても口にできない大人の事情(難言之隱)があって、だから私が代わりに来たのよ……本当に! お願いだから私を信じて!」
ベルティナはひどく感情を高ぶらせていた。
彼女はバンッ!とテーブルを叩いて立ち上がり、今にも泣き出しそうな、必死な形相でタン・ピンを見つめている。
「分かった、分かったよ! 信じるからさ、とりあえず座って」
タン・ピンは彼女を優しくなだめて席に戻すと、気まずさを誤魔化すように笑いかけた。
「……ステーキ、もう一皿食べる?」
「えっ?」
ベルティナが視線を落とすと、いつの間にか目の前のフィレステーキの皿も綺麗に空っぽになっていた。
彼女は顔を真っ赤に染め、恥ずかしそうに人差し指を一本だけツンと立てた。
「じゃあ……あと、もう一分(一皿)だけ……!」
*
結局、タン・ピンは午後ずっとベルティナと一緒にレストランに留まり、他の場所へ移動することはなかった。
二人は窓の外に広がる素晴らしい景色を眺めながら、他愛のない世間話をぽつりぽつりと交わし続けた。
不思議なことに、タン・ピンの心に焦燥感や退屈さは一切なかった。
最初に会った時、ベルティナの全身から放たれていた、あの呼吸すら詰まるほどの圧倒的な支配者のオーラは、今や完全に霧散している。今の彼女はどう見ても清楚で、どこか抜けたところのある愛らしい女性にしか見えず、とてもあの「ドレスの美女」と同一人物だとは思えなかった。
「君、最初はなんであんなバリバリの格好をしてたんだい?」
タン・ピンがふとした疑問を口にすると、ベルティナはもじもじと指先をいじりながら、蚊の鳴くような声で言った。
「それは……その……。男の人には、自分の最高に素晴らしい姿を見せた方が、好感度(株)が上がるって本で読んだから……。まさか、あんなことになるなんて……」
そのあまりにも純情すぎる理由を聞いた瞬間、タン・ピンは思わず「ぶふっ」と吹き出してしまった。
「あはは! あれじゃデートっていうより、皇帝が地方の農村へ【お忍び視察】に来たみたいだったよ!」
「あああああ、もう! 恥ずかしすぎるわっ!!」
ベルティナは両手で完全に顔を覆い隠してしまった。
「ははは!」
タン・ピンは、今のこの穏やかな空気感がとても心地よかった。まるで、何年も前から知り合いだった古い親友と過ごしているかのように、自然体でいられるのだ。
これまでにこんな感覚を抱いた相手は、世界でたった一人しかいない。――タノシだ。
(本当に不思議だな……。タイプは全然違うはずなのに、なんでこの二人の傍にいると、こんなに心が落ち着くんだろう……)
午後いっぱい考えてもその答えは出なかったが、一つだけ確実なことがあった。
それは、ブラウアー皇室の面々の中で、彼が最も好感を抱いているのは、このベルティナだということだ。
(いや当然だけど、彼女の胸が一番大きいからとか、そういう下気心な理由じゃないぞ? 純粋に、人柄が良くて話しやすいからだ。うん、間違いない)
楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、外の景色は徐々に黄金色の黄昏へと染まっていった。
タン・ピンは自動運転のタクシーを手配し、ベルティナをお城へと送り届けることにした。
ベルティナは車に乗り込む直前、タン・ピンの衣服の袖をぎゅっと力強く握りしめ、潤んだ瞳で彼を見つめてきた。
「明日もちゃんと、ここに【告白の練習】に来てね! 約束よ!」
「分かった、分かったから……。まぁ、明日もし朝起きられたらね……」
タン・ピンは後頭部をポリポリと掻きながら、心底困ったような表情を作ってみせた。
彼女のことは人として大好きだが、彼女が本当に告白したい相手は自分ではない(イケメン王子だ)。そんな、どこか曖昧で奇妙な関係のまま付き合い続けるのは、彼の男のプライドが少しだけ割り切れないのだ。
それに、女の子とのデートは体力を激しく消耗する。できることなら、明日は家で冷房をガンガンに効かせ、スマホをいじってゴロゴロしていたいのが本音だった。
しかし、ベルティナは彼の「生返事」を、肯定の約束と受け取って激しく歓喜した。
彼女はいきなり背伸びをすると、不意打ちでタン・ピンの頬へと唇を寄せた。
焦りからか少し軸がぶれてしまい、その瑞々しい唇は、頬というよりも彼の【口角のすぐ近く】へとソフトに触れる。
「――約束だからね!」
彼女は顔を真っ赤に染めてそれだけ叫ぶと、脱兎の如くお城の中へと駆け込んでいった。
*
その日の夜、ブラウアー皇室の生き残りたちは、 dining room(食堂)に集まって晩餐の席についていた。
国王をはじめとする男性皇族が文字通り「一掃」された今、女性皇族たちが堂々と権力の中心へと君臨している。
特に最年長のキャサリンは、もはや一切の遠慮を投げ捨て、堂々と主位に収まっていた。彼女がナイフを入れない限り、誰も卓上の料理に手を触れることすら許されない。
平民出身のメイドたちが手際よく毒見を終え、安全が確認されてから、ようやく優雅な食事の時間が始まった。
この席において、ジェナはどこか上機嫌な様子で鼻歌を小さくフンフンと口ずさみながら、手慣れた手つきでステーキを小さくカットしていた。
その様子を正面の席からじっと観察していたルナリアは、たまらず好奇心から声をかけた。
「ジェナ、今日は随分とご機嫌のようね?」
「えっ? そうでしょうか? きっと、今日のこの和牛ステーキがとっても美味しいからだと思いますわ」
ジェナはフォークを掲げ、肉をゆっくりと口元へと運んだ。その一挙手一投足は、まるで教科書から抜け出してきた宮廷の模範のようにお淑やかで美しい。
彼女はそっと目を閉じ、高級和牛のジューシーな旨味が口いっぱいに広がる衝撃に身を委ね、無意識のうちに口角を幸せそうに綻ばせていた。
ルナリアが指先をわずかに上げると、傍らに控えていたリアドが静かに進み出て、彼女の口元へと耳を寄せた。
「――ジェナに、今日何があったの?」
女王は声を極限まで潜めて密かに尋ねた。
対するリアドは、隠しきれない無念さと困惑を滲ませた溜息混じりの声で囁き返した。
「……ジェナ様は本日、私の監視の目を盗んで、お城を密かに脱出されました。彼女はおそらく、あの男に会いに行ったのだろう。」
「……あら、そう」
ルナリアは合点がいったように小さく頷き、リアドに下がれと手を振った。
そして、目の前でこの上なく幸せそうな笑みを浮かべている愛娘の顔を見つめながら、ルナリアは慈愛に満ちた、どこか楽しげな微笑みをその唇に湛えた。
「――若いということは、本当にエネルギーに満ち溢れていて素晴らしいわね」




