531.傷がないという罪 ◆
※一部、拷問めいた苦痛の描写があります。
可哀想なのを見ていられない方は、飛ばすか流し読みを推奨です。
読まなくても本編に支障はありません。
薄暗くて、冷たく、静か。
もうすっかり見慣れてしまった地下牢で、ベッドに仰向けになったエリはただ天井を見ていた。
こうなったのは自分のせいだと、そればかりが心を占める。
自分の選択をどれだけ悔やんでも、嘆いても、呪っても、過去には戻れない。
兄を捜してヴェンと共にツイーディア王国を訪れ、苦労して国王と面談にまで持ち込めた。
騎士団に探し人の張り紙を出して、兄からつれない返信が来たところまではよかったのだ。まだ、希望があった。
けれどそこから情報がないまま三年経ち、一度は君影国に戻ってもみたが、兄は帰っていない。
数年で倒れると神託がくだっていた次兄はまだ健在で、エリ達は許可を得てもう一度旅に出た。
そこからさらに一年以上の時が経つ。
焦りの中、もうアロイスは見つからないかもしれないと心が折れかけていた時だ。
アッシミーリ渓谷を進む二人の横を貴族の馬車が通りかかり、夜の山は危ないので泊まっていってはどうかと誘ってくれた。
優しそうな夫人だった。
喜んで頷いて、翌朝目覚めたら牢の中。
食事に睡眠薬が混ざっていたらしい。エリを人質に取られたヴェンが傅くのを見て、咄嗟に魔法を使おうとする。それもよくなかった。
相手の油断を利用して、魔法を使える事は隠しておくべきだったのだ。
魔法が使えるならと、エリには黒水晶の首輪が用意された。触れた際に身体が大人の姿に戻る。驚くヴェンとろくに話す事もできないまま、二人は引き離された。
『う……う゛う゛う』
掠れた呻き声が聞こえてきて、エリはぎゅっと目を閉じる。
向かいの牢で寝ていた娘が飛び起きて、同じ牢にいる寝たきりの兄に駆け寄った。見なくてもわかるほど、繰り返されてきた事だ。
彼女はエリを気遣ってできる限りの小声で話すが、静寂の中ではどうしても聞こえてしまう。
『お兄様。お兄様、痛みますか』
『う゛う、あ……』
『お小水でしょうか、それとも、』
『ううっ……いだい…いだいい…』
『…明日、また薬をもらいますね。今は、なくて……ごめんなさい……』
ここの主、ベレスフォード女伯は狂っていた。
外見が気に入った人間の肌を少しずつ、少しずつ削っている。治癒の魔法は最低限で、その拷問じみた行為に長く晒されたらしい彼の精神はとうに壊れていた。
自分が誰なのかも、どうしてこうなったのかも、隣にいるのが妹だという事さえも、わかっていない。
妹――キャサリンが来た時、兄は牢の中で死にかけていたそうだ。
伯爵は「もういらないが、面倒を見たいなら好きにしたらいい」と告げた。
キャサリンは牢番に頭を下げて何度も何度も謝って、下品な言葉を投げかけられ、屈辱的な事を言われ笑われながら、ようやく兄の包帯と僅かな傷薬をもらっている。
――失踪した兄を、ずっと探していました。
エリが来たばかりの頃、キャサリンが話してくれた。
兄の婚約者は次の相手も探さず、婚約を破棄せずに帰りを待ってくれているのだと。ベレスフォード伯爵は兄の情報があるかもと彼女をおびき寄せ、エリと同じように眠らせて黒水晶の首輪を嵌めた。
――あの方を信じたわたくしが、馬鹿だったのです。
伯爵は、キャサリンの肌には興味がないらしい。
捕えているのは裁判官である父親を脅す材料のためだそうだ。エリを人質にヴェンが使われているように、キャサリン達を人質にして父親が使われている。
『大丈夫です、明日は…』
『も゛う、いい』
人質を取られた彼らが、何をさせられているのか。
こちらが知る事はない。
『だえ、か…誰か……ごろしてくれ……殺して、殺じて……』
キャサリンが話す記憶の中の兄と、そこにいる死にかけの青年は、まるで違う人物のようだった。
思い出の彼は礼儀正しく丁寧で、誇り高く家族思いで。そんな人はここにいない。
常に高熱にうなされ、痛みと苦しみの中、記憶も人格もどこかへいってしまったのだろう。
『ころして、くれ』
黙ってそれを聞いているキャサリンが何を考えているのか、何を思っているのか。
エリはただ恐ろしかった。
かつての自分なら「やめぬか」と、「弱気な事を言うでない」と、叫んだだろうか。
そんな事を叫んで何になると言うのだろう。
救えないくせに、救えないくせに。
あまりに無責任ではないか。
『お兄様……』
翌朝そこにどんな結果があったとしても、キャサリンのせいではない。
涙が落ちる音を聞きながら、衣擦れの音を聞きながら、エリは布団の中に頭を埋める。
次の日。
牢番に報告したキャサリンは兄と共に連れて行かれ、傷だらけの身体で戻ってきた。
不揃いに切り落とされた金髪を掴んで彼女を引きずる男が、まるでよく晴れた日の散歩のように楽しそうな笑顔だったので、エリは衝撃のあまり声が出なかった。
続いて入ってきたベレスフォード伯爵とのやり取りを聞くに、どうもマグレガー侯爵を言いなりにしたかったのは伯爵ではなく、その男のようだった。
『なぁなぁ、実の兄を殺すのってどんな気持ちだった?オレ、それはまだやった事ないんだけど。楽しそうだよなっ!いつかやってみてー。』
人形を扱うようにキャサリンを床へ投げ捨て、男は彼女の頭を踏みつけた。
リズミカルに靴裏で軽く蹴るように踏んで、踏んで、踏んで――
『やめぬかっ!やめろ!おぬしなんて事を!!』
『誰?お前。』
咄嗟に叫んだエリは、ぐるりと首を回した男と目が合った瞬間にすくみ上がる。
好奇心と無邪気さが伝わってくる笑顔は、にやりと上がった口角は、あまりにおぞましくて。左右で異なる瞳の色が、男の存在をさらに異色に見せていた。
『ま、いいや。キャサリンだっけ。こうなるくらいなら、もうちょい早く殺しとけばよかったと思わねぇ?そんで自分もとっとと死んでさぁ。侯爵には、まだ生きてるって事にしとけばいいし。』
『っ……貴方、がたは』
『あっ喋んなくていーよ、興味ないから。』
キャサリンの口元をぐいと踏みつけ、それなのに男は朗らかに笑っている。
尋常ではない光景だった。なのに男の表情は日常的な平和の中にあるかのようで、この場には似つかわしくないもので。だからこそ大層、気味が悪い。
『頭ん中お花畑で生きてきたんかな?あはっ、ここでけっこー現実見ただろうにな!』
けらけら笑う男が後ろへ手を伸ばし、付き人がタオルを渡す。
適当に発動された水の魔法がそれを濡らし、流れのままキャサリンの傍にばちゃばちゃと水溜まりを作った。男は仰向けにした彼女の腹に座り、腕を足で踏みつける。
『さっき言った通りもう自殺禁止な。したら、未遂だろうが終わってようが父親は拷問刑ってことで。』
『はぁ、はぁ……うっ!』
びたりと、男は濡れたタオルを片手で彼女に押し付けた。
鼻と口を塞ぐ形で。
『あれ、息吸わねーの?ちゃあんと呼吸しないと死んじゃうぜ?もしかして自殺か?あーあ、駄目だろー、そんな事しちゃ。』
『や、やめよ!聞け、その者から手を離せっ!』
鉄格子を掴み、がたがたと揺すってエリは声を上げた。
誰もこちらを見ない。
『やったら父親は拷問って言ったじゃんか。あ、それとも実はしてほしいとか?…ふっ、あはははは!がんばれー、ほらもっと頑張ってもがけよ。爪からいくか歯からいくか、選ばせてあげよっか?』
『やめろ!このっ…やめぬか!!』
鉄格子の隙間からどんなに手を伸ばしても届かない。
肩に腕に頬に鉄格子がめり込んで、涙が滲んで。エリにはどうにもできない場所で、必死にもがくキャサリンを彼らは嘲笑っている。
『お、お~?もうちょいじゃね?がーんばれっ、がーんばれっ!』
『っう……ぷはっ!ゲホッ!ゲホッ…』
『おおお~!よーくできました、偉い偉い。ぷぷっ、あははははははは!』
『かひゅっ…ごほっ、ごほ…』
どうにか呼吸できたらしい事に安堵しながら、エリはどうしようもない無力感を味わっていた。
ずるりと座り込んで、肩が腕が頬が痛くて、けれどきっと、キャサリンの方が。
彼女の兄の方が、ずっと痛くて苦しい思いをしてきていて。
『それ、お気に召したのなら使われますか?私は興味がないのですよ。』
品よく扇を広げて口元を隠し、ベレスフォード伯爵が言う。
男は少年のように大げさな仕草で首を傾げた。
『えー、どうしよっかな。こいつって使用済み?オレ誰かが使ったやつ無理なんだよなー、ばっちいから。ていうか、ユーリヤ商会だっけ。あれもう潰したのか?』
『じきに終わりますわ。その娘の父親が、お飾りの刑場で死刑を宣告すれば。』
『わかってんだろうけど、やるならウィルフレッドがリラから戻る前にやんねーとさ。』
『勿論です。…でも、こちらの邪魔をしてきたんですもの。苦しめてからでもいいでしょう?』
伯爵の言葉に笑う男は、朗らかな顔をしていた。
エリの事など誰も見ていない。喚いていようが檻を叩いていようが、なんら脅威ではないからだ。
『じゃ、オレはもう行こっかな。』
『お気を付けて。』
一行はぞろぞろと牢部屋を出ていく。
最後に残った牢番がキャサリンを彼女の牢へ突き飛ばし、鍵を掛けて去っていった。
静けさが戻ってくる。
薄暗い牢の中、キャサリンは起き上がろうとしなかった。鉄格子にひたりと手をあて、エリは彼女を呼ぼうとして、けれど、何と声をかけるべきかわからずに口を閉じる。
『――…お兄様…お父様……』
小さな声は掠れていて、ひどく聞き取りにくい。
床に血の跡が点々と垂れている事に気付いて、エリは胸元の服を握り締めた。キャサリンもその兄も酷い目に遭ったというのに、ヴェンはどんな事をさせられているかわからないのに、自分だけは無傷のまま。
頭がすっと冷えて、首筋を汗が伝う。
傷がないという事に、罪悪感を覚えた。
同じように痛みを与えられた方がまだいいと、思ってしまった。
どうして貴女は無事なのと言われるのが怖くて、
貴女はいいわねと思われるのが怖くて、
声が出ない。
『………。』
牢部屋は薄暗くて、冷たく、静かだった。
続く沈黙がエリの思考を侵食する。
どうしてここまで、無力なのか。
ヴェンがいなければ何もできない、アロイスが居てくれなければ何もできない、ただの子供。
歳だけ重ねたところで、背が伸びたところで。
エリはただそこにいるだけの、どうしようもない役立たずだった。
鈴の音がする。
数日か数週間か、はたまた数か月か、どれくらい経ったかはわからない。
懐かしい猫面をつけた兄の姿を認めた時、エリは「これはきっと夢じゃ」と思った。ヴェンやアロイスが駆け付けて檻を壊し、救い出してくれる。
そんな夢は幾度も見て、目が覚める度につらくなった。
『……随分やつれているね。エリ』
『…兄様……』
『じきに騎士団が来てしまう、君影に帰ろう。ヴェンも連れて来ている』
今度はどこで目が覚めるだろうか。
そう思いながらもエリは頷いた。どうしたって壊れなかった檻は、兄がやったのだろう、簡単に切り捨てられている。キャサリンの檻も壊れていたが、彼女は中から出てこない。
『騎士達が来るなら、わたくしはそれを待ちます。…貴方がたは、もう行ってください。』
『エリ。彼女は…』
『構いませんわ。…話す事はありません』
答えたのはキャサリンだった。
じくりと胸が痛んで、エリは視線を落とす。何もしてやれなかった自分が、今更キャサリンに何を言えるのか。彼女が言う通り、黙って別れるべきなのだ。どうせ夢の中のこと。
一つ頷いたアロイスはエリを抱きかかえ、牢部屋の入口へ向かう。
『……わたくしは、人殺しですもの。』
聞こえてきた言葉に、エリは目を見開いた。
違う、話せなかったのはそんな理由ではない。心でそう思っても声にならなかった。鈍く感じていた五感がはっきりしてきて、これは夢ではなく現実なのだと知る。
キャサリンに「違う」と言いたかった。
沈黙が支配していたあの牢部屋で、エリは心の中でだって、彼女を人殺しだと恐れた事も、罵った事もないのに。
しかし、訂正するにはもう遅かった。
急ぐアロイスが足を止める事もなく、助けられた側にそれを止める権利もない。
『…エリ。その姿は……』
あまりにも、無力だった。
静かに涙を流しながら、エリはいつの間にか子供の姿になっている。黒水晶で封じられてからは随分と久し振りの、そして無自覚でのスキルの発動だった。
縮んでしまった妹を強く抱きかかえ、アロイスは屋敷の中を駆け抜ける。
『……遅くなってすまなかった。』
兄のせいではない。
涙をぽろぽろ落としながら、エリは首を横に振った。
用意された馬車の前で、ようやくヴェンと再会する。
ひどい怪我をしていたのだろう彼は包帯だらけで、それでも以前と変わらない力強さでエリを迎えてくれた。伯爵に何をやらされていたのか聞きたいが、恐らく聞かれたくはないだろう。
『エリ。ヴェンにはもう話したけれど、馬車には私の恩人も連れている。しばらく君影で休ませるつもりだ』
『…恩人……兄様の…?』
『ああ。ともかく今は乗ってくれ』
『わかった…』
足台に乗って、屋敷を振り返ろうかとほんの一瞬だけ悩む。
キャサリンとはきっと、二度と会う事はないだろう。振り返った先に彼女がいない事もわかっている。ならば振り返る意味はないのだと、エリは顔を上げて馬車に乗り込んだ。
そこにいたのは、二十歳手前くらいの女性だった。
薄茶色のウェーブがかった短髪、頬にはそばかすがあって、服は真新しく、朱色の瞳は――どこも見ていない。
馬車の扉が閉まった。
女性はキャサリンと同年代に見え、彼女よりは背が低そうで、けれど同じように痩せている。
『……大丈夫じゃ』
自分に言い聞かせたのか、あるいは彼女に言ったのだろうか。
わからないまま、エリは女性の斜向かいに腰掛けた。目は合わない。
『…大丈夫……』
後に残してきたキャサリンは、本当に大丈夫なのだろうか。
どうすればよかったのか。何か、言うべき事があったのではないか。
やる事もなくただ牢でじっとしていただけのくせに、エリの心身は疲労を訴えていた。
考えるべきこともやるべきことも全てを投げ捨て、深く深く沈んで眠ってしまいたい。
そんな甘えた考えの人間だから、何もできないのだ。
再び溢れた涙を拭う事もせず、エリは名も知らぬ女性と二人、ただ馬車に揺られていた。




