夏の終わり
盆休みが終わり、再び塾に通い始める日々が始まる。
「行ってきます!」
塾に出かける康一を妖怪たちが見送ってくれる。
「早く帰ってくるんだぞ!」
毎回ミワは康一が見えなくなるまで手を振ってくれる。
家を出れば寂しそうにし、帰宅すれば喜んで歓迎される。その健気な姿に康一も悪い気がしない。まるで家族が一気に増えたみたいに屋敷が賑やかになった。
龍二は康一に隠し事をする必要がなくなり、色んな話を聞かせてくれたり、見せてくれたりするようになった。
「ねぇねぇ、これ見てよ」
休日の夜、康一が居間にいる時だ。龍二は蔵になった巻物を持ってきた。
「これって、お母さんが作ってくれたものなんだって」
龍二がそう言いながら巻物を広げる。以前見たものと同じように想像上の生物が水墨画で描かれていた。
「お母さんが巻物に書いた文字を小さい頃から何度も見ていたから、あの晩すぐに火って文字を見て、お母さんが書いたものだって気付いんだよ」
「そうだったんだ」
何度も何度も龍二は巻物を通じて、母の存在を感じていたのだ。弟の母への思慕の強さは、もしかしたら自分以上かもしれないと思わずにはいられなかった。
「それにね、お母さんの具現化の力は、すごいんだよ! 昔お父さんはお母さんにボコボコにされたことがあるんだって!」
龍二は嬉しそうな表情で、康一を仰天させるようなことを教えてくれた。
「ボコボコってすごいねぇ。でもさ、具現化の力って、一体なんなの?」
何も分からない康一に龍二は嬉しそうに反応する。
「この巻物なんだけど、生き物が描かれているでしょ? これがあの晩に現れた炎のように、絵が実際に現れるんだよ」
「ええ、本当!?」
康一がさらに目を丸くして驚くと、龍二は目をきらりと光らせてほくそ笑む。
「危ないからさ、お父さんがいる時に目の前でやってみせるよ!」
まるで自分の手柄のように龍二は得意げに話す。そんな楽しげな弟の様子につられて康一も同じような陽気な気分になった。
情報の共有が増える度に龍二との仲が深まっていく気がした。
そして、ミワとの関係も徐々に変化していった。あれからミワは父との約束通り、康一に大胆な接触はしてこなくなった。
早朝、治療のためにミワは連日康一のもとを訪れる。
生き物の活動が始まる頃、ガラス戸を開ける小さな音が聞こえて、康一は目が覚めるようになった。気配を殺すように廊下を慎重に歩き、ミワは近づいてくる。そして、開けっ放しの入り口から顔を覗かせる。康一と目が合うや否や、彼女は金色の目を輝かせながら笑みを浮かべる。
正体が完全に分かった現状、康一は彼女を恐れずに迎えていた。
身体を起こして「おはよう」と小さく挨拶すれば、彼女からも「康一、おはよう」と密やかな明るい声が返ってくる。
まずミワは康一の頬を両手で挟み、目を瞑る。事前に体調のチェックをしている。かなり調子が戻ってきた最近は、気の流れを調整しているらしい。
気の排出がうまく働かず、溜まるばかりで充満した気で自分自身を害していたと聞いていた。その余分な気を吸い出す治療のためにキスが必要らしい。
「そういえば……」
ミワは康一の顔から手を離し、横になるように促しながら、話しかけてきた。
「なに?」
康一が相槌を打つと、「以前、康一にいきなり襲いかかって契ろうとして申し訳なかったな」と突然謝ってきた。
「え、いきなりどうしたの?」
康一は昔のことを蒸し返すミワニ戸惑った。あのことは、父によって説教されて終わったことだと思っていたからだ。
「いや、男女の営みについて、昔と考え方が違うんだと、テレビのドラマを見て色々と学習したのだ。それで康一に悪いことをしたのだと、改めて気付いたのだ。すまなかったな」
ミワがひどくしょげた姿で康一の反応を待っている。その殊勝な態度に心が動かされない訳がなかった。
「謝ってくれたから、もういいよ。大丈夫、もう怒ってないから」
横になった康一を見下ろしながら、ミワは安心したように微笑んだ。それから、彼女は顔を康一に近づけてくる。「あっ」と思った瞬間、唇同士が重なり合う。柔らかい感触がした直後、何かが身体の中から吸い上げられる感覚に襲われて、康一は意識を手放した。
そして、康一が再び目が覚めて居間へ行けば、そこには龍二と楽しげに話すミワの姿がある。彼女は康一に気付いて嬉しそうに視線を向け、近づきたそうな素振りを見せる。しかし、その直後に思い止まって、物憂げに彼女は双眸を伏せる。不思議な色をした深緑の長い睫毛が目元に影を落とし、光沢を放ちながら彼女の長い髪は頬で揺れる。父の言いつけを守っている様子は健気だ。妖しいほどの美貌を目の前にして、康一の視線は自然と彼女に向けられることが多かった。
それからあっという間に日にちは過ぎ、夏休みの終わりまで一週間を切った。龍二は宿題と部屋の片付けに追われている。
「兄貴、助けて~!」
日曜日の朝から泣きつかれて、康一はいつものように手伝いに駆り出された。そして、ゴミと私物がごちゃまぜになった部屋を康一が無言で片付けていると、「あ、これ、読みかけだったやつだ」と背後から龍二の声がした。
その後、動く気配が聞こえなくなったので康一が振り返ると、漫画本に夢中になっている龍二の姿がそこにあった。
呆れかえると同時に、康一はそんな弟に対する反応を一瞬考えて口を開く。
「……龍二が片付け止めるなら、僕もう手伝わないよ?」
「えっ、あっ、ごめん! 片付けやるから助けて!」
龍二は慌てて漫画本を本棚に仕舞いこんで、片付けを再開し始める。その弱腰の態度に康一への反発は全くない。
あんなに注意するのを躊躇っていたのに、口に出してみたら言われた当人は何も気にせず、むしろ悪い点に気付いて反省してくれた。
――どうしてあんなに悩んでいたんだろう?
自分のことばかり気にしていたせいで、大事なことが全く見えていなかった。けれども、あの時に気付いたお陰で、自分の行動を省みる機会を得たのだと思う。
――自分も、そして龍二も少しずつ直していけばいいよね。
とりあえず、康一は目の前に広がる汚部屋の整理に尽力する。
その後、片付けの下手な龍二も真面目に働き、お昼前には部屋の畳が再び見えるようになった。
それから、今度は意外なことが起こった。五月陽菜から電話が掛かってきたのだ。
「康一君、だいぶ体調が良くなったらしいわね。おめでとう」
「うん、そうなんだ。お蔭さまで。……陽菜さん、わざわざありがとう」
突然の電話に康一が戸惑っていると、「突然私から電話が掛かってきて、びっくりしたでしょ?」と康一の心情を見透かしたことを陽菜が返してきた。
「う、うん……」
康一が正直に答えると、「実はね、康一君にずっと謝りたいと思っていたのよ。それで今日電話をしたの」と陽菜が切り出してきた。
「一体、何について……?」
心当たりがなかったため、康一が直球で尋ねると、「ええと、子供の頃、私の家に遊びに来ていた時のこと。あの時、康一君にひどいこと言ったでしょ?」と陽菜は気まずそうに説明してくれた。
「小さい頃、康一君には特殊な力を見せてはいけないって言われていたのよ。でも、龍二と異能者同士で一緒に対戦したかったのに、康一君もついて行きたいって言われて……。だからあの時、康一君に”来ないで”って酷いことを言ってしまって。後になって、すごい反省したんだけど、謝るにしても事情を話せなくて……。今までずっとごめんね」
康一は陽菜から話を聞きながら、ただ驚いていた。そんな経緯があったとは、今まで想像もしなかったからだ。
父は康一に異能の力を秘密にしていた。そのため、それは龍二だけでなく、陽菜の実家にまで影響を及ぼしていたのだ。
そんな面倒な事情を子供だった陽菜が、一時的にくみ取るのは難しいだろう。当時の彼女の気持ちが、全部とは言わないが康一には分かった気がした。
「うん、確かに……あの時は陽菜さん酷いなぁって思ったけど」
「こ、康一君!! 本当にごめんね!」
「でも、もういいよ。こうして謝ってくれたし。ずっと気に掛けてくれたことが分かったから、すごく嬉しかった」
「……うん」
電話口から鼻をすする音が聞こえた。
「良かったら今度、叔父さんたちと一緒に遊びに来てね。歓迎するわ」
「うん、ありがとう。考えておくね」
陽菜との電話はこうして終わった。長年のわだかまりが無くなり、康一は陽菜に対する見解が一瞬でがらりと変わるのを感じた。
そして夕方になり、外に干してあった洗濯物を片付けるために康一は外へ出る。ふと庭に視線を送ると、池の縁に座り込んで水の中に足を浸したミワがそこにいた。
彼女は眠そうに欠伸をしている最中で、康一に気付いた直後に立ち上がり、足早に近づいて来た。
「康一、なにか用か?」
ミワは康一のすぐ隣に並んで立つ。康一は彼女を少し見下ろし、自分を見上げる彼女の眼差しを真っ直ぐに受ける。
その金色の瞳は、夕陽に負けずに光彩を放って輝いている。そう、まるでこれから夜空を照らす月のように感じて、思わず康一は目を奪われた。
視線が絡み合い、見つめ合ったままの状態が続き、ミワは微笑む。
「ミワ」
康一が彼女の名を呼んだ直後、強い風が突然通り抜けて、木々のざわめきで周囲が騒然とする。涼を含んだ夜の風は、夏の終わりを静かに告げていた。
――本当なら、僕は苦しみながら早死にするはずだった。
けれども、康一は偶然にもミワと出会い、それは回避された。
妖怪について未知のことはまだまだ多い。恐らく、この体質のせいで厄介なことに巻き込まれることもあるかもしれない。
それでも、家族やミワがいれば、そんな自分の運命を康一は乗り越えられる気がした。
康一はミワに応えるように笑い返し、「洗濯物を取り込むの、手伝って」と明るく声を掛ける。すると、彼女は嬉しそうに頷いた。
-了-




