終業日
担任のいない教室は、生徒たちの雑談で賑わっていた。体育館で一学期の終業式を終えて、先ほど教室に戻って来たばかりだ。
床に座って口を閉ざし続けたためか、同級生たちは開放感いっぱいに会話を楽しんでいる。明日から夏休みに入るということも、彼らの気分を高揚させていた。
ホームルームで担任よりプリントや宿題が配布されて、成績表を手渡されれば、後はもう家に帰るだけだ。
そんな中、康一は暗い顔をして自席にいた。
――やばい。
康一は激しい頭痛と全身のだるさに襲われて必死に耐えていた。今朝からその兆候があったが、今日で学校が終わるからと無理して登校した結果がこの有様だ。
呼吸が苦しく意識がもうろうとしてくる。助けを呼びたくても、頼りの友人は先生の手伝いで職員室に呼ばれたため、この場にいない。
「ちょっと、一上君、大丈夫!?」
近くにいた女子が康一の異変に気付いて声を掛けてくれたが、それは残念なことに一足遅かった。康一の身体はすでに床へ向かって傾いていた。
誰かの話し声で康一は目を覚ました。
視界に広がるのは、すでに見慣れてしまった保健室の天井だ。康一はベッドの上で横になっていた。
ベッドを仕切る白いカーテンの向こうで、弟の龍二が保健の先生と話している。先生との会話の内容と、聞き覚えのある声ですぐに分かった。
「龍二、そこにいるの?」
康一が声を掛けると、龍二が布の端からひょいっと顔と白いシャツを覗かせる。印象的な大きな目と視線が合う。誰しもが美形と称する顔が、康一の姿を捉えていた。
「兄貴起きた? 担任の先生から色々ともう預かっているし、起きたらそのまま帰っていいって言ってたよ」
「そうなんだ……、ごめん龍二。また迷惑かけて」
「兄貴、そんなことで謝らなくていいって。それより早く帰ろう?」
龍二は言いながらベッドの傍に近づく。整髪料でツンツンに固められた弟の短い髪は、移動の揺れにも微動だにしない。
「うん……」
返事をしながら康一は身体を動かそうとしたが、まだ体調が悪く力が入りにくい。それに気付いたのか、龍二がすぐに手を貸してくれた。康一は手伝ってもらいながら起き上がり、すでに教室から運んであった自分の鞄を手に取る。そして、おぼつかない足取りで出入り口に近づくと、背後から「ねぇ、一上君……」と先生に声を掛けられた。康一は振り返り、髪を一つに束ねた中年女性を見つめた。椅子に座っていた先生は、眼鏡の奥から心配そうな目つきで康一を見つめている。
「今度違う病院に行ってもう一度検査してもらったら? 前より酷くなってるでしょ?」
「ええ、そうなんですけど……」
先生の気遣いを嬉しく感じるものの、康一は返答に詰まる。最近病院で診てもらったばかりだったからだ。
康一は言葉を濁したままお世話になった礼を述べて、龍二と一緒に退室した。
龍二に時折支えてもらいながら、玄関付近の下駄箱へ向かう。すると、その前で屯っている女子の集団と鉢合う。彼女たちは龍二を見つけた途端に話しかけて来た。
見覚えのある彼女たちは、龍二と同級生だ。
康一は龍二たちの会話を邪魔しないようにと、龍二の助けの手をそっと自分から外して彼女たち距離を置く。
「龍二、一緒にカラオケ行こうよ!」
「ごめん、兄貴の具合が悪いからさ、今日は一緒に帰るんだ」
龍二の返事を聞いた女子たちから落胆の声が上がる。
「そうなんだ、それなら仕方がないね。それにしても、龍二のお兄さんっていつも具合が悪いよね。大丈夫なの?」
龍二と一人の女子が話している背後で、他の女子たちが康一の方をチラッと横目で見る。その彼女たちの「やっぱり似てないよね~」と小声の会話が聞こえて来る。
その好奇心丸出しの値踏みするような視線から、康一はいつも逃げ出したくなる。
「大丈夫だったら、わざわざ俺が付き添う必要はないと思うんだけど?」
皮肉を含んだ龍二の返答に対して、女生徒の一部が非難の目を当人ではなく、断る原因となった兄の康一へと向ける。気まずさを感じた康一は「あの、龍二」と思わず横から口を出してしまった。
「僕は一人で帰るから、彼女たちと一緒に行きなよ」
本当は立っているのが辛くて、壁に手を当てて支えている状態である。
不必要に恨みを買いたくないという理由もあったが、自分のせいで弟の時間を奪うことにも罪悪感があったからだ。
「何言っているんだよ、兄貴は。そんな酷い顔をして、放っておける訳ないじゃん!」
龍二はそう言うと、さっさと女生徒たちから離れる。
「あ、ちょっと龍二……!」
名残惜しそうな女子の声が背後から掛かるが、龍二は全く気にせず靴を履き替えると、康一と一緒にこの場から去った。
自宅への帰路の途中、人目が無い場所に到着してから、いつものように龍二は康一を背負って歩く。
龍二は康一より二歳下で、一年生の中でも身長は比較的大きめだ。そのため小柄な康一とは数センチしか差がなくて、難なく白い背中に康一を載せている。
「本当にいつもごめんな」
「いや、こちらこそごめん。兄貴を断る口実にしちゃって。本当は大して知らないあの子たちと遊ぶ気が無かっただけなんだよね」
龍二は笑いながら答える。
康一はその弟の優しい気遣いを嬉しく思う反面、最近漠然とした不安を常に感じていた。
いつまで続くんだろう、家族に迷惑をかけ続ける生活は。
いつか重荷になってしまったら、僕は――。