落雷
開いた窓から吹いてくる風が急に冷たくなり、康一は目が覚めた。
身体にだるさが残るのは、暑さのせいか。それともまだ体調が悪いせいなのか。汗を含んだ服がべったりと肌に張りついて気持ちが悪い。
康一は畳から上半身を起こし、やっとの思いで立ち上がり、自室をゆっくり歩いて窓際に近寄る。白いレースのカーテンをめくって、硝子越しに外の景色を眺めた。
辺りは薄暗くなっていて、寝ている間に時間がだいぶ経過していた。
目の前には手入れが行き届いた庭が広がっている。季節を彩る草花が植えられていて、見るたびに心を穏やかにしてくれる。
空を見上げれば、寝る前には快晴だった空模様は一変していて、暗い雲が分厚く一面を覆っていた。
いつも賑やかに鳴いている蝉の声が消え、代わりに木々のざわめきが聞こえる。強い風は湿り気を大いに含んでいて、肌にまとわりつくようだ。それは雨の訪れを予感させた。
ポツリと音を立てて、窓の硝子に一滴の雨粒が落ちて来た。それを合図に、天気は悪天候へと様変わりする。叩きつけるような土砂降りの雨が急に降り出してきた。
「窓を閉めないと……」
康一はそう呟くと、目の前の窓を手早く閉めた。それからだるい身体に鞭打って、家中の窓という窓を閉めて回る。広い平屋の自宅には現在康一しかいなかったため、家を守るのは自分の仕事だからだ。
今日は父が仕事で、龍二は用事があるからと、康一の見送りでそれぞれ外出中だ。
母は幼い頃に病死していて、父が康一と弟を育ててくれている。いわゆる父子家庭だ。
先祖代々この土地に古くから住んでいるため、康一の住まいは近所から旧家の扱いをされていた。山一帯の土地を所有し、その中腹に屋敷があったため、地元で”山の家”といえば自分の家を指していた。
家の敷地は他所の家と比べて無駄に広い。時代劇に出てくる武家のお屋敷のように、分厚い木の板でできた高い塀が敷地をぐるりと囲み、いつも開けっぱなしの閂つきの門がある。その中に敷地が広がっていて、康一と家族が住む母屋がある他、庭を挟んだ先に親戚一家が住む離れ屋、さらにそれらの脇には古い蔵が建っていた。そして建物が集まった場所から少し遠ざかり、竹林を通り抜けた先にあるのが、うちで代々祀られている一本の古木だ。
夏休みが始まってすぐの日曜日の今日、康一の塾の夏期講習は休みである。そのため用事がなかった康一は、朝から勉強をしていた。けれども、昼過ぎから激しい頭痛と吐き気に襲われて起きていられなくなり、先ほど目覚めるまでずっと自室の床で横たわっていた。
割れるような頭の痛みや、得体のしれない具合の悪さに襲われる度に、康一はこのまま母のように死んでしまうのではないかと恐怖するようになっていた。今日も苦しみに耐えきれなくなって意識を失い、調子が良くなってやっと動けるようになった状態だ。
康一は全ての窓を閉じ終えて居間に戻った後、ふと朝から出かけている家族の存在を思い出す。
廊下を経た先にある玄関を康一が覗くと、家族全員分の傘が置いてあった。
――傘が無くて困らなければいいけど。
父は車があるから平気だが、徒歩で出かけた龍二は帰宅する時に濡れて大変だろうと心配した。
晩ご飯の支度をそろそろ始めてもいい頃合いだったので、康一は居間の隣にある台所へ向かう。
父が不在の場合、康一の体調が良い時はいつも料理をしていた。簡単なことしかできないが、臨時の炊事当番としては問題ない。お米は既に研いであったので、炊飯器にお釜を入れてボタンを押す。
今日はカレーを作る予定だ。切った野菜と肉を炒めて水で煮るだけでよいため、康一がよく作るメニューの一つだ。
黙って調理にとりかかり、最後にルーを入れて煮る頃には、炊飯器から調理完了のメロディーが鳴り響いた。
一度は弱まっていた雨足だったが、料理をしている間にまた強まって大雨になり、さらに雷まで鳴り始めていた。雷光から雷鳴までの間隔がだんだん狭まっていく。雷雲が近づいて家の真上付近を通っているようだ。雷が鳴るたびに空気が振動して、康一の肌にまでそれが伝わっていた。
先ほどから怖くて、全く落ち着かない。
自宅には古木が一本生えている。この辺りで一番高い樹だったので、それに落ちなければよいけど――、と不安に思っていた。
と、その時だった。
耳を覆いたくなるような大きな雷鳴とともに、激しい地響きと振動が康一を襲う。
驚愕で身体が固まった瞬間、家の電気がすべて消えた。
一瞬で真っ暗になった家の中で、康一は息を凝らして身動きせず、夜目が利くまであたりの様子をひたすら窺う。
電化製品の電源がすべて切れたため、それらの振動音が全て止まっていた。
地面に降り注ぐ雨、家や木々を揺らす激しい風、未だに続く雷鳴。家の外から聞こえる様々な音が、康一の耳に入ってくる。
時間が経つにつれて目が慣れて、窓硝子から漏れる雷の明かりとガスコンロの火の明かりが、家の中の様子を辛うじて教えてくれる。
カレーを煮ていた火を消した後、玄関に向かう。
――家の近くで雷が落ちたのかもしれない。
それほど凄まじい衝撃だった。
康一は不安になり、離れ屋にいる坂井を頼ろうと考えた。
坂井は康一たちの遠い親戚で、現在一人きりで住んでいる。
康一は下駄箱の上に置いてある懐中電灯を手に取り、スイッチを入れて玄関を明るく照らす。
傘を手に自分のサンダルを履き、玄関から外に出た途端、強い風と雨粒が全身を襲う。風に運ばれてきた何か燃えたような不快な臭いが康一の鼻を刺激して、思わず顔を顰めた。
差した傘を飛ばされないように背を丸め、気を付けて歩いてゆく。坂井が管理している庭を横切り、母屋の向かいにある離れの屋敷に段々近づく。家の中は暗く、人の姿は見当たらない。
康一は離れ屋の玄関にやっとの思いで辿り着く。
ほんの少し外を歩いただけなのに、ハーフパンツから出ている膝下がずぶ濡れになって気持ち悪かった。
玄関の引き戸に手を掛けて開けようとしたが、戸はピクリとも動かない。坂井一家は在宅時には鍵をかけないので、開かないということは恐らく不在なのだろう。
現在自分が敷地内に一人きりだということが分かり、敷地内で落雷があったかどうか自分で確認しなければならないと判断する。
空気中の臭いは、落雷によって何か燃えた可能性があった。万が一、その火の気から延焼が引き起こされて、家屋にまで被害が出てしまっては一大事だ。
康一は敷地内の探索を始める。一番気がかりなのは、敷地内で一番背の高い古木だ。それは敷地の奥に生えているため、そこに向かうのは悪天候の中では難儀だ。
使命感を奮い立たせると、傘を握り締めて歩き出した。
途中何も異常はなかったが、何かが燃える臭いは一層強くなっている。
竹を伐採してできた細道を通ってゆき、やがて視界が開ける。心配していた木の変わり果てた姿が、康一の目に入り込んできた。枝や葉が茂っていた上部が黒く焦げて灰色の煙をあげている。さらに、幹は半分くらいまで縦に裂けて割れてしまっている。今にも木が折れて倒れそうだった。
――これはもう駄目かもしれない。
そこまで悲惨な様子だった。
懐中電灯を当てて周囲の様子をよく観察してみると、他に燃えているところがないので、想像通りこの木にだけ落雷していたと分かった。
父が帰ってきたらこの事を報告しようと思い、すぐにこの場を立ち去ろうと踵を返す。
その時、地面から突き上げるような激しい揺れが突然起こり、康一は体のバランスを失う。
よろけて地面に倒れそうになり、転倒する前に膝を曲げてしゃがみ込む。懐中電灯を握っていた右手が地面についた。
強い地震によって激しく足元が揺れ続けて、康一は身動きが取れない。後方で騒がしい音がしたので、嫌な予感がして振り返ると、落雷して裂けた木が激しく揺れて、根元から傾きそうだ。
この場から逃げなくては――、と康一は焦った。
自分の方に倒れてきたら確実に巻き込まれる距離だ。不意に来た強い風雨が顔を直撃して、思わず顔を背けて目をつむる。視界を失った瞬間、木が引き裂かれる激しい音が耳に届いた。
強風に耐えながらかろうじて見たのは、康一に向かって一直線に倒れてくる大きな影。反射的に自分の手の中にあった物を投げ出し、両腕で頭をかばったが、激しい衝撃が康一の体を襲う。




