第2話 全ての始まり:「お前、胸小さいな」
今夜の歌枠で一番に歌う曲。その曲名を知る人間など、この地上にただ一人しか存在しないのだ。
歌う本人——すなわち、この俺だけ。
つうっ、と。冷たい汗が一筋、背すじを伝い落ちていく。
半年以上、必死でひた隠しにしてきた俺の正体が。よりにもよって、こんな弁当を挟んだ昼下がりに。
カムロ様の中の人が、この神谷樹だと——あっさりバレるッ……!
「あの……神谷さん。もしかして、なんですけど」
柚木が、おそるおそる口を開いた。
その大きな瞳が、もう逃がさないとばかりに、まっすぐ俺を射抜いてくる。
——来る。間違いなく、訊かれる。
『どうして、発表もされていない曲名をご存じなんですか』と。
まずい。その問いにだけは、口が裂けても答えようがない。
ゴクリ、と。喉が、ひとりでに鳴った。
(落ち着け、俺。どうにかして、ごまかすんだ……!)
脳をフル回転させ、使えそうな言い訳を片端からかき集める。
いや、どう転んでも無理がある。万事休す、か。
そう腹をくくりかけた、まさにその時だった。
「神谷さんって……もしかして、カムロ様の隠れファンだったんですかッ!?」
…………。
……は?
隠れ、ファン。
俺が。カムロ様の。
危うく裏返りかけた声を、俺は寸前で喉の奥へと押し戻した。
——そう、か。そういう、ことか。
今しがたの俺の大失態は、柚木の頭の中で、こんなふうに翻訳されたわけだ。
『配信前の曲名まで言い当てるなんて、神谷さんはとんでもなく熱心な、カムロ様の隠れファンに違いない』——と。
ふっ。部下が大馬鹿で助かったぁーーーッ!!!
胃のあたりまでせり上がっていた冷や汗が、嘘のように引いていく。
俺は努めて何食わぬ顔を取り繕い、箸をそっと置いた。
「……まぁ、な。今まで黙っていたが、俺も一応、カムロ様は見ている。お前があんまり毎日毎日熱弁するものだからな。上司として、部下の趣味くらいは把握しておこうと思ってだな……」
「やっぱりっ!そうだったんですねっ!私が布教してきた甲斐があったってもんですよぉ!」
ガタッ、と。さっきまで石像のごとく固まっていた後輩が、勢いよく身を乗り出してくる。目を爛々と輝かせて。
「というか、どうして今まで隠してたんですかぁ!」
「別に隠していたわけではない。俺が何を見ていようが、いちいちお前に報告する義理はないだろう」
「たっ、確かに、そうですけど……。でも、自分の推しを誰かに勧めて、それをちゃんと見てもらえてたって、すっごく嬉しいことなんですよ? それに——今までだって、二人でいくらでも語り合えたじゃないですかっ!」
……だから、まさに今しがたみたいに、語る拍子に俺しか知らん情報をうっかり漏らさんよう、ずっと口をつぐんでいたんだっての。
……まぁ、もう盛大に漏らしてしまったわけだが。
「あっ、そうだ!神谷さん、どうして今夜の一曲目が『馬鹿なお前たちめッ!キュン死しろ☆』だって思ったんですか?実は私も、それじゃないかって予想してたんですよ……!」
すっかりオタクモードに入った柚木が、腕を組み、興味津々といった顔で俺を覗き込んでくる。
当然といえば、当然の質問だ。
ここで答えに詰まれば、かえって怪しまれる。
俺は“隠れファン”という設定を最大限に活かし、堂々と——百点満点の解答を披露してやることにした。
「告知イラストだ。今夜の歌枠に合わせて上がった、あの一枚。一見、いつも通り派手なだけのイラストだが……よく見ろ。カムロの片手には死神の鎌、もう一方で指ハートを作っていた。おまけに背景は、一面の星空だ。鎌、ハート、星——“キュン死”を絵で表す。つまり、今夜の一曲目は——」
「——それですっ!!」
柚木が、たまらずといった様子で声を弾ませた。
「おぉーーっ!さっすが神谷さん!私、まったく同じこと考えてたんですよぉ!カムロ様って、告知イラストに毎回ぜぇったい意味を仕込んでるんですよねっ。それをちゃんと読み解けるなんて……ほんと、さすが隠れファンですっ!」
……なるほどな。熱心なファンには、こちらが仕込んだ意味など、とうにお見通しというわけか。
ふむ。次の告知は、もう少し手の込んだ絵にしてみるのも一興かもしれん。イラストレーターさんにそれとなく伝えておこう。
「勉強になった」
「……?何がです?」
柚木が、きょとんと首を傾げる。
「もしかして……!今日の『重要な話』って、それだったんですかっ? 神谷さんが、こっそりカムロ様を見始めてたっていう……!」
……重要な話。
ああ、そうだった。そんな大層な口実をでっち上げてまで、こいつをこの休憩室に呼びつけたんだったな。
……YUIちゃんのアーカイブが尊すぎて、肝心の本題が、すっかり頭から抜け落ちていた。
「いや。それは——また、別件だ」
*柚木愛視点
隠れファン。神谷さんが、カムロ様の。
……ほへぇ。
あまりに予想外の告白を前に、私はしばし、間の抜けた声を漏らしたまま固まってしまった。
だってそうでしょう。あの神谷さんが、ですよ。
毎日毎日、私の隣で「YUIちゃーん!」と発狂して、部長に睨まれても「YUIちゃんの尊さの前では小言など春風のごとし」なんて言ってのける。あんなにも、YUI一筋みたいな顔をしておきながら。
その裏でこっそり、カムロ様のことまで推していただなんて。
ことり、と。胸の奥のほうで、何かが小さく音を立てた気がした。
夜の私を推してくれているだけじゃなくて、私が焦がれているカムロ様のことまで、ちゃんと見てくれている。それって、なんだか——。
——この人、もしかして。私のこと、好きなの!?
……いや。いやいや。
何を考えているんだ、私は。ぶんぶん、と首を横に振る。
大体、私がYUIちゃんだってことは、向こうは知らないわけだし!
好きも何も、あったものじゃない。
……そう。あくまで上司として、部下の推しがどんなものか、見てくれていただけ。
うん。それだけ、のはず。
——って、改めて言葉にすると。なんだかちょっと、おかしくない……?
そんな私をよそに、神谷さんはようやく本題を思い出したらしい。
ついさっきまでYUIちゃんを熱く語り倒していたのが嘘みたいに、すっと声の温度を切り替えて、何やら仕事の話を始めていた。
……全く。
抜けているところは数え切れないし、口を開けばセクハラだし、デリカシーなんて絶滅危惧種。
そのくせ仕事はできるし、やる時はちゃんとやってのける。
ほんと、調子が狂うな。この人は……。
「おい。聞いてるのか、柚木」
「はっ、はい!聞いてますっ!」
「全く。……それでだな——」
うっ。ちょっと上の空だったの、しっかりバレてる。
いけない、いけない。集中、集中。
……でも。
神谷さんが、カムロ様の隠れファンだったってこと。
それはやっぱり——うん。素直に、嬉しい。
入社したての頃の私が知ったら、きっと信じないだろうなぁ。
こんなセクハラ先輩と、肩を並べてお昼を食べて。
あまつさえ、オタク話で盛り上がっているだなんて。
——思えば。
この人との出会いは。控えめに言っても、最悪だった。
……
一年前、入社初日。
オフィスの中央に、私を含めた新卒たちが横一列に並び、端から順に挨拶していく。
そして、その最後の一人が——私だった。
「本日からお世話になります!柚木愛と申しますっ!精一杯がんばりますので、どっ、どうぞ、よろしくお願いいたしますっ!」
「おう!こちらこそ、よろしく頼むぞ!」
緊張でガチガチに固まった私の挨拶に、誰よりも早く、朗らかな拍手で応えてくれたのは——面接でもお会いした、部長さんだった。
ITの会社の部長、と言われて思い浮かべる姿とは真逆。
見上げるほどに背が高く、スーツの上からでも分かるくらい、ガッシリとした体。
そして——イケメン。ここ、すごく重要。
第一印象は、控えめに言っても百点満点だった。
今日はこれから私たちを導いてくれる、教育係との顔合わせの日でもある。
(……この部長さんが教育係だったら、嬉しいなぁ)
なんて、密かに抱いた淡い期待。
——それが粉々に砕け散るまで、ものの数十秒だった。
挨拶が一巡すると、フロアのあちこちで、幾人かの先輩社員が一斉に席を立つ。
そして一人、また一人と、新入りの正面へ進み出てきた。
「さて、紹介しよう。君たちの前に立っているのが、それぞれの教育係だ。何でも遠慮なく聞いてくれたまえ!」
「よ、よろしくお願いしますっ!」
部長じゃなかった……と少し残念な気持ちを抱えたままぺこり、と頭を下げて、顔を上げる。
けれど——私の真正面に立ったその人は、なぜだか、何も言わない。
ただ、じっと。値踏みでもするみたいに、私を上から下まで、無遠慮に眺めていて。
「……」
「……お前」
あ、あれ?
な、何か、変だったかな。私。
……というか、この人。
よく見たら、私よりずっと背が高くて。部長さんに負けないくらい、ガッシリしていて——。
ちょっと、怖い。
ごくり、と。喉が、勝手に鳴る。
記念すべき社会人生活、その初日に。
私へ向けて放った、栄えある第一声は——。
「胸、小さいな」




