少年と少女のとある一日
ここはとある街の中心部にある市場。様々なものが売られるこの場所は、連日たくさんの人で賑わっている。そんな中、ある屋台の前で1人の少女が涎を垂らしていた。少女の黒真珠のように輝く瞳はただ一点だけを見つめている。彼女の視線の先にあったのは、焼き肉。脂の乗ったツノジカの肉を大きく切って串に刺し、炭火で焼き上げたものだ。じゅうじゅうと音を立てて焼ける肉から肉汁が滴り落ち、周囲に香ばしい香りが広がる。
ごくり。
少女は唾を飲み込む。食べたい。がぶっといきたい。目がそう語っていた。目は口ほどに物を言うとはまさにこういう状態のことを言うのだろう。そんな彼女の様子を隣で呆れたように見ている少年がいた。
「……おい……もういいだろ。行くぞ」
少年の赤みがかった目がジトッと細められる。しかし少女はそこを動かない。こちらに見向きもしない。少年は苛立ったようにもう一度声をかけた。
「おいノア、いい加減にしろ。店主のおっさん困ってんだろ」
「やだ」
ノアと呼ばれた少女はやっと少年の声に反応した。が、しかし、やはりその目は肉に釘付けになっている。
「やだじゃねえ。駄目なもんは駄目だ」
「でもよロド、私、腹減った」
ロドと呼ばれた少年は「でももクソもあるか!」と怒った。
「いい加減にしろ! 毎日毎日腹減った腹減ったって駄々こねやがって! そんなに腹空いたんならその辺の草でも食ってろ!」
「やだ!! その辺の草は苦くて不味い!! 肉がいい!!」
「食ったことあるのかよ!」
ギャアギャア騒ぐノアとロドを、店主の男は困ったように笑って見ていた。
「なあロド! いいだろ!? 私これ食べたい! 食べたい!」
「駄目ったら駄目だ! 旅費を無駄遣いするんじゃねえ!」
「無駄とはなんだ! 私が飢えて死んでもいいってのか!」
「大袈裟なんだよお前は! それに……っ」
お前は魔物だから、食べなくても死なない。そう言いかけて、ロドは大慌てで口を押さえた。ノアは「それに、なんだよ?」と不満げな顔をしている。
この世界には、魔物と呼ばれる人外がいる。寿命がなく、異能を操る彼らは個体数が少なく、人々からは半ば伝説的存在として恐れられていた。ロドの目の前で「はあ、焼き肉……美味そう……」と涎を垂らすこの少女、ノアは魔物だった。
(あっぶね……こんな街の真ん中で正体がバレたら大騒ぎどころじゃ済まねえぞ)
ロドはキョロキョロと周囲を見回す。人々は各々買い物を楽しんでいるようだ。よかった、バレていない。ロドはホッとして「とにかく」と口を開く。
「駄目なものは駄目なんだよ。いちいちお前のわがままに付き合ってたら、一瞬で財布が空になっちまう」
「やーだー! 肉が食えるまで私はここを動かないー!」
「ああもう……」
ノアは駄々っ子のようにじたばたし始めた。ロドは無言でノアをジトッと睨んでいる。ノアはやがて「はあーーー……」とため息をついて、がっくりと項垂れた。やっと諦めてくれたか。ロドは胸を撫で下ろす。
その瞬間。
ぼりっ。
何かが折れる嫌な音がした気がした。そして目の前でノアが何かをもぐもぐやっている。
「は?」
それは人間の腕だった。どうやら服ごと食いちぎったらしい。血に染まった服の一部がべしゃっと地面に落ちる。その服の形になんだか見覚えのある気がして、そして気づいた。
あれは俺の服だ。
ロドは自分の左腕を見る。無い。肩から先が消失している……。
「……って、食うわけねーだろ」
ノアの声でロドは現実に戻ってきた。慌てて食いちぎられた左腕を見る。ちゃんとある。自分にも、ノアにも、どこにも血痕は見当たらない。
「ゆ、め……?」
「ちょっと強めの殺気をオマエに当てたんだよ。食わねーよ、オマエを。……第一人間は当分食いたくねー」
どうやらノアに幻覚を見せられたらしい。ロドはさっき見た光景を思い出す。気分が悪くなって、青白い顔でその場に座り込んだ。そんなロドをノアが無邪気に覗き込む。
「で、どうだ? 肉買ってくれる気になったか?」
わくわく。
ノアからはそんな効果音が聞こえてきそうだ。ロドは額に青筋を浮かべて掠れた声で言った。
「てめえ……マジでそれはやめろっつったろ……」
「肉買ってくれねーオマエが悪い!」
ノアはけらけらと笑った。こうして見ればただの無邪気な少女に見えるのに。ロドの心は怒りのような、恐れのような、それとも別の何かのような、よくわからない感情でいっぱいになった。
「兄ちゃんと嬢ちゃん。ちょっといいかい?」
その時屋台の店主が2人に声をかけた。ノアとロドは頭に「?」を浮かべて店主の方を見る。店主は2人に近づくと、肉の串焼きをノアに一本手渡した。
「嬢ちゃんがあまりにも食べたそうにしてるからよ。ほら、一本サービスだ。持ってけ」
ノアは肉を持ってキョトンとした顔をしている。ロドは立ち上がって大慌てで店主に言った。
「ま、待ってくれおっさん。そんな、商品だろ? タダじゃ受け取れねえよ」
「いいんだよ。ガキがそんなこと気にすんな」
そう言って店主は「ははは」と笑う。ロドは思った。これは体よく店の前から追い払おうとしているやつかもしれない。ロドは大きくため息をついて、店主に頭を下げた。
「ほんとすみません……ほらノア、お前もちゃんと礼言え」
ノアは肉を持ってぽかんとしていたが、やがて花が開くようにパァっと顔を輝かせた。そして大声で叫ぶ。
「うおー! ありがとーーー!! 愛してるぜ人間ーーー!!」
「わーーー!! やっぱ黙れ今すぐ黙れ!!」
ロドが大慌てでノアを黙らせようとする横で、店主は「お、おう?」と首を傾げていた。
「何今の声?」
「焼き肉屋さんだよ」
「美味しそうね」
するとノアの大声を聞きつけたらしい人々がロドたちの周りに集まり始めた。
(やっべ、人が集まりすぎた)
このままだとノアがボロを出したらすぐに魔物だとバレるかもしれない。ロドは慌ててノアとその場を去ろうとした。しかしノアはそんなロドのことはすでに眼中にないようで、「いっただっきまーす!」と肉にかぶりついた。
ばくっ。もぐもぐ。
ノアの目が驚きに見開かれる。しかしその後すぐに恍惚とした顔になった。美味しいものを食べた時、人は「ほっぺが落ちそう」と表現するが、この時のノアは誰が見ても「ほっぺが落ちそう」になっていた。
「美味え……! 美味えよ人間……!」
「に、人間って、俺か? まあでもそうか! 美味いか!」
店主は一瞬困惑したが、すぐにその強面の顔に嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「本当に美味えぞコレ! ばくってかぶりついたら肉汁がじゅわって溢れてきて、脂身が口ん中でとろーって溶け出して……! 炭火で焼いてるからカリカリの部分もあって、そこが香ばしくて美味い!」
ロドは頭を抱えた。まずい、この調子だとノアは当分動いてくれない。その時、ロドたちの周りの人々がこんなことを言い出した。
「何あれ……美味しそう……」
「あんな美味しそうに食べてたらこっちも食べたくなっちまう」
「ねえおかあさん! わたしもあれ食べたい!」
「ん?」
ロドは困惑した。周りの人々の視線の先にはノアがいる。ノアが串焼き肉を美味しそうに食べる様子を羨望の眼差しでじっと見ている。
「な、なあ! 店主! 俺にもその串焼き一本くれ!」
「わ、私も……!」
「ワシにも売っとくれ。孫に食わせてやりたくてな」
その時、1人の声を皮切りに、人々が一斉に押し寄せた。店主はぽかんとしていたが、すぐに嬉しそうに「おう! 待ってな順番だ!」と笑った。
「なあ兄ちゃん!」
「な、何だよおっさん!?」
ロドは人混みに潰されつつ、悲鳴のような声で店主に返事をした。
「こりゃ今日は忙しくなるぞ! 俺は肉を準備するから、兄ちゃんは列の整理を頼む!」
「はあ!?」
俺は店員じゃねえぞと言いかけたロドだったが、店主にはさっきの肉の借りがある。
「ああもうわかった! やってやるよ!」
ロドはヤケクソでそう叫ぶと、人混みに飲まれそうになりながら列の整理を始めた。この事態を引き起こした張本人、ノアは器用に人を避けながら「美味い! 美味い!」と肉を食っている。
(あ、あの野郎……後で覚えてろ……)
ロドは引きつった顔で笑った。
+++
その後、ロドとノアは日が暮れかけて人の少なくなった市場を歩いていた。手には串焼き肉がたくさん入った袋を持って。あの屋台の店主が「兄ちゃんと嬢ちゃんのおかげで今日は大盛況だ! 礼をさせてくれ!」と持たせてくれたものだ。
「はあ〜……肉うま〜……」
ロドの隣をノアが肉を食いながら歩いている。ロドは疲れた顔で「どんだけ食うんだお前……」と若干引いた。
「はあ……お前のせいでとんでもねえ一日だった……」
「そうか? 私は楽しかったぜ? 肉食えたし」
ノアは楽しそうに笑う。ロドは大きなため息をついた。そして今日のことを思い返す。「美味しいね」と肉を半分こにして食べる親子や、「店の手伝いかい? 偉いねえ」と飴をくれた老婆。「また来いよっ!」と手を振って見送ってくれた店主。そしてノアの幸せそうな顔。
(まあ……案外、悪くなかったか……?)
ロドは袋から肉の刺さった串焼きを取り出して、そして一口かじった。
「……美味い」
その横でノアがロドをじっと見ている。
「何だよ」
「美味そーだな、私にもくれ」
「お前もう食っただろ」
「もっと食べたい! くれ!」
「おまっ……盗ろうとするな! 俺のだ! これは!」
ロドは走って逃げる。そんな彼をノアは「待てよー!」と笑顔で追いかける。2人の走っていく先には一番星が出ていた。




