高木孝介④
俺がここでバイトを始めたのはちょうど二年ほど前、大学一年の秋だった。あのときは適度に小遣いが欲しかったし、自分がプロに注目される選手になるなんて思っていなかったから、シフトの融通がきく飲食店を選んだ。この店がよかった理由はないけど、繁華街にある店ということと、まだ開店して間もなかったということで、俺も青春ってやつに少しはあやかりたかったんだと思う。
そのときにはもう店長の吉村さん、料理長の長浜さんと大野さんも既にいて、その他にも学生が何人か働いていた。
料理も酒も詳しくない俺は、ろくに仕事も覚えられなかった上にミスもよくしたけれど、どういうわけか吉村さんはもちろんのこと、その他の店員に怒られたことはない。
体育会系で見た目もゴツイ俺にはなかなか強く出られなかったのかもしれないと思うと、岩村さんがなんだか不憫に思えてくるが、何度も言うように、まあ俺には関係ない。
学生バイトが多い飲食店では卒業や入学の時期に合わせて店員の入れ替わりは激しい。それはこの店も例外ではなかったけれど、俺がここにいる二年間で人数はずいぶん減った。
一人一人の辞めていった理由なんて俺にはわからない。でも俺が入店したときよりも店の売り上げが落ちているのは確かだし、それに比例するように店員の数も減っていった。
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閉店後、営業中に出た空いた缶やペットボトルを自治体指定のゴミ袋に入れて厨房に持って行くと吉村さんが大野さんに話しかけていた。
「美咲、マジで言ってんのかと思って焦ったよ」
開店前の騒動のことだろう。大野さんは涼しい顔で業務用食洗器に食器が入ったラック突っ込んでいる。
「まあでも、あれで部長も少しは大人しくなってくれるといいんだけどな」
吞気に笑う吉村さん。大野さんが食洗器の大きな蓋を下ろすと、内部で洗浄が始まる音が聞こえてきた。
「私は本気でしたよ」
振り向いた大野さんは言った。
「忙しくなってきたってのも本当ですし」
「え、マジで?」
と吉村さんは目を丸くした。
何かを聞こうと口を開きかけたが、大野さんは軽い足取りで大きなごみ袋を持つと、通用口へと向かう。
その何にも執着していないような後ろ姿を見ながら、
俺ももう辞めようかな、この店。
そんなことをぼんやりと思った。
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わかってはいたことだが、肘の調子はすぐにはよくならなかった。
練習には参加していたものの、強くボールを投げられない以上、ランニングやウエイトトレーニングが主な練習内容になる。
シートノックを受けるチームメートたちを横目に、夕陽に照らされたグラウンドの外周を黙々と走っていると、いろんな思考が湧き上がる。そしてそのほとんどはお世辞にも前向きなものではなかった。
ドラフト候補だと持ち上げられていたつい最近まで、こういうランニングのときのザッ、ザッと土を踏みしめる音さえ、周囲の人間が聞いているように感じていた。それが今、この音を聞いているのが世界で自分だけであるという現実をひしひしと思い知らされる。
このままリハビリを続けて試合で投げられるようになったとしても、怪我前の投球ができる保証はない。悶々とした感情を抱きながら、そのまま猛ダッシュして大声で叫びたい衝動に駆られる。そんなの俺のキャラじゃないからやらねえけど。
グラウンドの淵を周ったところで自分の影が正面の地面に映った。ただ陽があたる角度の問題なのに、足を踏み出すごとに上下に揺れる影はとても細くて頼りないものに見えた。
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大学3年のこの時期になると、就職活動に向けて周囲がだんだんと慌ただしくなる。同学年のチームメートも部活と並行して就職活動の準備を始めていた。この夏までにインターンシップやOB、OG訪問を済ませている奴もいた。
「なあユミ」
六畳一間のアパートで、台所に立つ彼女の後ろ姿に話しかけた。窓の外はもうすっかり暗くなっていて、だんだんと冬が近づくのを感じる。俺は使い古した座椅子に腰掛けて、夕方のローカルニュースを見ていた。
「お前って、なんか就活の準備とかしてる?」
薄いカーディガンを羽織ったユミは、玉ねぎの皮をむく手を止めて顔をこちらに向けた。
タオルで軽く手を拭くと、ジーンズのポケットからスマホを取り出し細い指で画面を操作する。
「これ」
そう言って彼女が目の前に差し出した画面には来月行われる合同会社説明会のポスターが写っていた。大学構内の掲示板に貼られていたものを撮ったのだろう。
「これに行こうと思うの。参加企業の中に、ちょっと興味のある業界もあるし」
そういえば、ゼミの担当教官もこういうイベントはなるべく行ったほうがいいみたいなことを言ってた気がする。でも自分にとっての就活はドラフト会議だと心に念じてきた俺にとって、こんなのは言っちゃ悪いが凡人の集まりくらいにしか思っていなかった。
「ふーん、そうなんだ」
と俺は言って、テレビの画面に視線を戻した。ちょうどスポーツコーナーが始まったところで、地元のプロ野球チームの試合経過が流れていた。シーズンも終盤にさしかかり、首位と3ゲーム差の2位。まだ優勝を十分狙える位置にいる。
「ちょっと、なによその反応」
ユミの頬が不満そうに膨れる。
「なによって、なにが?」
俺はテレビのチャンネルを変えた。
「もうちょっと何かないの? どの業界に行きたいのかとか、私に向いてそうなこととか、それに・・・」
「それに?」
俺が聞くとユミの顔全体がさっと赤みを帯びた。一瞬目をそらしてから、
「将来は、どうしたいのか、とか・・・」
呟くようにそう言った。
「将来はどうしたいんだ?」
俺が聞くと、彼女の顔から今度はすっと赤みが引いた。
「もういい」
くるりと背を向けて、また台所に向かい始める。まな板の上で人参を切る音はいつもより大きかった。
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小さな座卓を挟んで向かい合いながら彼女が作ったビーフシチューを食べた。彼女は料理が得意で、なんでもおいしく作れるけれど、今日のシチューは味が薄い気がする。
テレビ画面の奥ではクイズ番組の出演者たちが馬鹿みたいに大騒ぎをしていた。いつもならユミも楽しそうに画面に視線を送りながら、時々声を出して笑うのに、今日の彼女はやけに無口で、髪が邪魔にならないように後ろで結んだまま、フーフーしながらスプーンを口に運んでいた。
重たい空気が部屋を支配し、テレビの音とのギャップが気まずい。
「なあ、ユミ」
と恐る恐る声をかけた。
「ん?」
視線を上げた彼女の顔はシチューの湯気で少し火照っていた。
「将来のことって言ってたから聞いてみるけど」
と俺は言った。
「俺にプロになってほしい?」
ユミはスプーンをお皿に置くと、
「どうして?」
そう言ってコップのお茶をひと口飲んだ。
「どうしてって、だから将来の・・・」
「そうじゃなくて、プロになってほしいかどうかなんて、どうしてそんなこと聞くの?」
どうしてだろう。どうしてそんなことを聞いたのか、それは俺にもわからなかった。
すぐに答えられない俺に対して彼女は怒るわけでも問い詰めるわけでもなく、少しだけ悲しそうな瞳を向けていたが、やがてコップのお茶を飲み干すと、食べ終えたお皿を持って立ち上がった。洗い物を済ませると、いつもは食後のコーヒーをゆっくりと飲むのに、この日は、おじゃましました、の一言をそっけなく残してさっさと帰ってしまった。
なんだよ、まったく。
一人残された部屋で唇を噛みながら、俺は彼女がさっきまで立っていた台所を見つめていた。
テレビではまださっきのクイズ番組が流れていた。今日はスペシャルでもないからいつも通りの一時間枠だ。時間がそんなに経っていないことを実感しながら、俺はテレビを消した。




