大野美咲⑨
試験がいよいよ三日後に迫った木曜日、その日は本番前最後の出勤日だった。もちろん、試験日の予定はかなり前から空けていたし、吉村さんにも試験のことは伝えていた。
明日と明後日でしっかりと最後の準備をして、本番に備える予定だった。
その日は客足もまばらで、しっかり休憩時間ももらえた。普段だったら更衣室でスマホ画面を見て時間を潰すことが多いけれど、ここ最近の私は時間さえあれば英文法の問題集を解いていた。ほとんどの問題は頭に入っているし、なんだかいけそうな気がする。
休憩時間を終えて厨房に戻ると、ホールにいるはずの吉村さんが、冷蔵庫の前に立ってスマホで誰かと通話していた。
うん、うん。どれくらい? まだ大丈夫そう? え、マジ?
相槌を交えながら喋る彼の言葉にだんだんと焦りの色が滲んでくるのがわかった。
ああ、わかった。じゃあすぐ行く。
そう言って、耳からスマホを離した彼の視線が私に向いた。
「美咲、悪い」
と彼は言った。
「嫁が急に産気づいて、今からちょっと病院連れてくからさ、閉店作業とか、あと任せてもいいか?」
「それは大丈夫ですけど」
私は言った。
「奥さん大丈夫なんですか?」
「まあ、すぐには生まれないと思うけど、一応、な」
今日はもう客が大人数で入ることもないだろうから、吉村さんなしでもホールは回るだろう。
そんなことを考えていると、
「美咲、悪いんだけど」
と吉村さんが付け加えた。
「明日もどうなるかわからないから、ちょっとホールのシフト入ってくれないか?」
え? と思う。
「でも私、明日から試験の準備で・・・」
「ごめん、ちょっと急ぐから。またあとでLINEする」
彼は私の言葉を遮り、接客着のまま通用口へ向かう。
「・・・わかりました。早く行ってあげてください」
いろんな言葉を押し殺しながら、私は彼の背中を見送った。
視線を厨房の奥に向けると、料理長の長浜さんは私たちの会話に関心なさげにパスタを茹でていた。
-----------------------------
ラストオーダーも終わって、閉店間近になっても吉村さんから連絡は来なかった。こういうときに限って、長浜さんはこっそり早く帰ったりする。私は厨房から下げられてくるお皿やカトラリー、グラスなんかをラックごと食器洗浄機に入れては回すを繰り返していた。
ゴーッゴーッと巨大な洗浄機が回る音を聞きながら、私の頭の中では、吉村さんの頼みを断る口実と、頼みを聞き入れる口実が交互に浮かんでは消えを繰り返していた。
本音を言えば、予定通り明日から二日間バイトは入れずに試験に備えたい。当然のことだ。でも私が出勤しないことによって、吉村さんが奥さんの出産に立ち会えないのも心苦しかった。
誰かに代わりを頼めるといいけれど、私が急にお願いごとをできるような関係を築けた人間はこの店にはいなかったし、そもそもそんな人付き合いを望んですらいなかった。自業自得とはいえ、こんなとき、自分の性分が恨めしい。
しばらくすると、だんだんと厨房から下がってくる食器も減ってきた。私は洗い終わったお皿を綺麗に並べて棚にしまう。その間も、やっぱり吉村さんからの連絡はなかった。
そうだよね。
洗浄機では洗えない調理器具を綺麗に消毒した布で拭きながら、私はそう思った。
吉村さんにはいつもお世話になっているし、一日くらいなら、別にいいよね。
諦めにも似た感情が、全身を少しずつ包んでいく。だけど、心のどこかでほっとしている自分もいた。
ああ。と思った。
私、本当は、試験から逃げ出したいだけなのかもしれない。そのとき、
「だめですよ」
背後から突然声がして、はっとなった。
弾かれたように振り返ると、厨房の入口のところに岩村さんが立っていた。いつも温和な彼の目が珍しく鋭い光を放ちながら私に向いている。
わけがわからずに立ち尽くす。どうして私の思考が読めたのだろう。
もしかして今、私、何か声に出してた?
恥ずかしさで全身が一気に熱くなる。そんな私に向かって、
「大野さん」
険しい表情のまま、彼が口を開いた。
「そんな風に包丁持ったまま、ぼーっと立ってちゃ危ないですよ」
は?
手元を見ると、私の手には包丁と白い布が握られていた。ずっと考え事をしていたせいで、包丁を拭いている最中だということをすっかり忘れていたのだ。
「す、すみません」
戸惑いを隠せずに、とりあえず謝る。なんだ、そういうことか。私は包丁の刃を丁寧に布で拭いてから、木製の包丁スタンドに慎重に収めた。
ほっとしたのも束の間、
「いいわけないでしょ」
彼の声が再び厨房に小さく響いた。
「何がですか?」
今度は私も少し反抗的に言葉を返した。
「一応、ちゃんと包丁もしまいましたけど」
しかし、岩村さんは表情を崩すことなく、
「日曜日、大事な試験なんでしょ?」
落ち着き払ってそう言った。
「さっき吉村さんからLINE来て、明日のシフトについて説明を受けたんだけど、大野さんが入ってたから、あれ? と思って」
試験のことは吉村さん意外には話していない。なのにどうして岩村さんが知っているのだろう。そんな私の疑問に答えるように、
「吉村さんから聞いてたんです」
あっけらかんと彼は言った。
「それに、空いた時間に大野さんが勉強してるのたまに見かけてましたからね」
まったく、もう!
吉村さんが試験のことを岩村さんに話していたり、私より先に彼に連絡していたことに強烈な不満を抱きつつも、
「仕方ないですよ」
私はぶっきらぼうにそう返した。
「事情が事情ですし、明日は高木くんもモモさんも入れないみたいで、人手が足りませんもの。それに・・・」
「それに?」
「もし今年ダメでも来年がありますし・・・」
彼は小さく息を吐いた。それは深呼吸のようでもあったし、ため息のようでもあった。
「大野さん」
と彼は諭すような口調で言った。
「また次があるなんて思ってる奴ほど、結局何もできないんだよ。目の前にチャンスがあるんなら、周りのことなんて考えずに、なりふり構わず取りにいかなきゃ」
この人はあまり他人に興味がないと思っていたので、こんなことを言われて正直かなり意外だった。
「僕が大野さんの立場だったら、吉村さんの都合なんて考えずに自分のことを優先させるね」
そんなこと、あんたに関係ないじゃない。
尖った言葉が脳裏をよぎる。しかし、喉元までせり上がったその言葉を私は寸前のところで押し殺した。なぜなら、言葉こそ厳しかったが、それを語る彼の瞳があまりにも真剣だったから。
沈黙が空間を支配する。私はどうすればいいのだろう? どうしてみんな、私を悩ませるようなことばかり言うのだろう?
正直もう、放っておいてほしかった。しかしそのとき、
ふっと、目の前に立つ岩村さんの表情が崩れた。
「でもまあ」
と彼はまた一つ息を吐いて言った。
「そんなこともあろうかと、助っ人を用意しました」
「助っ人?」
ぽかんと口を開ける私の前で、彼は振り向きざまにスイングドアからホールに向かって首を突き出すと、
「りょうじー。いいぞー」
大きな声で誰かを読んだ。やがて、ホールの方から表れたのは、ショッキングピンクのジャージを着た若い男だった。髪は金色に染めて、両耳にピアスを開けていたけれど、その風貌とは裏腹に緊張した面持ちで厨房の入口に立っている。
「こいつ、亮二っていいます」
男の肩に軽く手を置いて、岩村さんが言った。
「普段はその辺で客引きやってるんですけど、明日たまたま暇みたいなんで、一日うちのホールに入ってくれることになりました」
「入ってくれることになりましたって、吉村さんは・・・」
「あ、もう吉村さんの許可も得てるんで」
私の言葉を遮りながら、岩村さんはスマホのLINE画面を私に見せた。
この人のこういうところ、なんか吉村さんに似ている気がする。
そう思いながら、私はりょうじと呼ばれた男に視線を移す。彼はもじもじしながら、恥ずかしそうに私に向かってはにかんだ。




