第61話:帳を、習いに来ました
結婚式から三日経っても、館の中庭には、まだ祝いの匂いが残っていた。
木苺の砂糖煮の甘い匂い。樽の底に残った葡萄酒の匂い。片づけに来た村の女衆が、「あの日の香草鶏はうまかったねえ」と、同じ話を三度ずつして帰っていく。
わたしはといえば、婚礼の翌日から、いつもどおり執務室の机に向かっていた。
「奥方様。……いや、財務官様。どちらでお呼びすればよいものやら」
ギードが、困り顔で言う。
「どちらでも。帳の上では、財務官のままですから」
(呼び名が一つ増えたところで、帳簿の欄が一つ増えるわけではないもの)
新しい帳の一行目には、もう次の仕事が書いてある。
新徴税法の施行は、この秋の収穫のあと。それまでに、領の算定を、新しい書式へ組み替えなければならない。欄は八つ。実り、去年との比べ、算定の式、告げ知らせの日取り、そして最後に、立ち会った検分使の署名。
書いてみれば、造作もない紙一枚だ。
――そう、思っていた。
「財務官様! 門に、その、あの」
駆け込んできたのは、門番の若い衆だった。息が上がりきって、続きが出てこない。
「荷馬車が、七台」
「七台? どちらの?」
「それが、ばらばらでして。南のブラウ村と、東のシュタル、あと、名前を聞いても存じ上げない領の紋が二つ」
(……七台。物売りにしては、多すぎるわ)
わたしは筆を置いて、ギードと一緒に門へ出た。
門前の道に、荷馬車が七台。荷台に積んであるのは商品ではなく、人と、寝具と、鍋だった。長逗留の支度だ。
先頭の馬車から降りてきたのは、五十がらみの、痩せた男だった。上等ではないが、きちんと繕った服。腰の低い挨拶。
「グラウフェルト辺境伯領の、財務官様でいらっしゃいますか」
「エルナ・フォン・グラウフェルトです。……ご用向きを、伺っても?」
男は、深く頭を下げた。そして、後ろの六台を振り返って、こう言った。
「帳を、習いに参りました」
*
館の広間に、七組ぶんの人を通した。
椅子が足りず、ギードが厩から古い長腰掛けを運んできた。マルタが厨房を開けて、湯を沸かし始める。
話を聞いてみれば、七組の来歴は、みごとにばらばらだった。
小さな領の家令が二人。村の肝煎りが三人。修道院の会計役が一人。そして最後の一台には、字の読めない村の代表が、村じゅうの銭を集めて送り出されて来ていた。
修道院の会計役は、痩せた女の人で、腰に鍵束を提げていた。二十年、施しの帳をつけてきたという。
「わたくしどもは、施しをする側でございますから、税とは縁がないと思うておりました。ですが、あの新しい法は、施しにも欄を寄越しましたので」
「ええ」と、わたしは答えた。「差し上げた分も、費えです。左側に立ちます」
「左側」と、その人は繰り返して、初めて笑った。「二十年、右側だけを見ておりました」
けれど、来た理由は、七組とも、まったく同じだった。
「新しい法の、あの書式が。……どうにも、埋まりませんで」
家令の一人が、皺だらけの紙を広げた。王都から回ってきた、新徴税法の算定書式の写しだ。
欄は八つ。埋まっているのは、二つ。
「実りの数は、書けます。去年との比べも、まあ、書けます。ですが、この『算定の式』の欄が。……何をどう書けば、式になるのか、我らには」
「ええ」と、村の肝煎りが続けた。「うちの村では、字の書ける者が、わし一人でしてな。その一人が、この欄で、三日、唸っておりました」
(……ああ)
わたしは、その紙を受け取って、空いた六つの欄を見た。
新法は、こう定めている。欄が一つでも空いていれば、その賦課は無効だ。
わたしは、それを「不当な税を取らせないための盾」として書いた。三十年前、辺境の広場に立てられた高札には、額だけが書いてあった。八百グルデン、払え。式は、見せない。問うても、答えない。あの紙を、二度と立てさせないための欄だった。
けれど、盾は、両側を止める。
書式が埋まらなければ、税は取れない。取れなければ、村の道は直らないし、橋も架からないし、検分使の馬にやる秣も買えない。
(法は、作ったところで、半分)
湯呑みを配るマルタの手元を見ながら、わたしは、心の中で、そろばんの玉を弾いていた。
(回す人がいなければ、ただの紙だわ)
広間の入り口から、小さな頭がいくつも覗いている。ニコと、帳所の――いえ、まだ帳所という言葉もない、ただの弟子の子らだ。
「お姉ちゃん。この人たち、なに?」
「お客様よ」
「なんの?」
わたしは、少し考えてから、答えた。
「……お客様というより、たぶん、宿題ね」
ニコは意味が分からない顔をして、それでも、几帳面に、その言葉を自分の留守帳の隅に書き留めていた。しゅくだい、と、平仮名で。
宿題、というのは、我ながら、正直な言い方だったと思う。
三十年かけて出せなかった抗議を、わたしたちは受理させた。国の帳簿を開かせて、新しい法を通した。あれは、確かに勝ちだった。
でも、あの日わたしが王城に置いてきたのは、設計図だ。設計図は、建たない。建てる人がいて、初めて、家になる。
「財務官様」
字の読めない村の代表が、おずおずと手を挙げた。日に焼けた、大きな手だった。
「わしは、字が読めません。銭は、指で数えられます。……こんな者でも、習えますか」
長腰掛けの軋む音が、止まった。わたしは、その手を見た。それから、自分の手を見た。筆だこのある、細い、白い手。
(この方の帳を、わたしは、いままで一度も、書いたことがないわ)
「――習えます」
わたしは、言った。
「その代わり、覚えたら、村へ帰って、隣の家の人に教えてください。それが、月謝です」
*
その晩、ヴォルフ様が執務室に来た。
広間を覗いてきた顔だった。七組ぶんの寝具が、客間に収まりきらず、廊下にまで積まれている。厨房ではマルタが、明日の朝の粥の量を、指を折って数え直していた。
「……エルナ」
「はい」
「うちは、宿屋じゃないぞ」
わたしは、書きかけの一枚から顔を上げた。
紙の上には、まだ何もない。ただ、真ん中に、大きく一本、縦の線を引いてある。左に費え、右に実り。両建ての帳の、いちばん最初の形だ。
「ええ」
わたしは、その左側に、最初の一行を書き込んだ。
「――学校です」
ヴォルフ様が、口を半分開けたまま、固まった。それから、たっぷり数を十まで数えられるくらいの間を置いて、額を押さえた。
「……剣の稽古なら、俺が見る」
「そちらは、間に合っております」
「だろうな」
不承不承の返事だったけれど、この人は、駄目だとは言わなかった。そういう人だ。腑に落ちていなくても、わたしが線を引いた紙は、いつも一度、逆さにせずに読んでくれる。
窓の外では、七台ぶんの馬が、厩で鼻を鳴らしている。明日の朝、あの人たちに、何から教えればいいのだろう。
(……欄の名前から? 数の数え方から? それとも――)
わたしは、紙の右側の、まだ何も書かれていない側を、しばらく見ていた。
第61話、お読みいただきありがとうございます!
第三部「豊かさの設計」、始まりました。第二部でエルナが勝ち取ったのは「仕組み」でしたが、仕組みは、置いただけでは動きません。動かす人が、まだ、どこにもいない――というところから始めたかった回です。空欄だらけの算定書と、指で銭を数える手が、この部のいちばん大事な二つの絵になります。
次回・第62話「教えるのは、教わるより難しい」。有能なだけでは、たぶん足りません。
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