第59話:決算後の、こまごまとした帳尻
辺境の初夏は、忙しい。
春に蒔いた麦が、青々と伸びる。街道は交易の馬車で埃を上げ、館の厨房は、近づく祝いの支度で、朝から戦のようだ。
大きな決算が終わっても、帳簿仕事には、こまごまとした帳尻合わせが、残っている。
その一つ目が、昼前に、馬車で到着した。
「王国財務院検分官、オイゲンと申します。新法の下での、最初の検分に参りました」
外套に塵ひとつなく、折り目は定規で引いたよう。あの査察官は、新しい制度の検分官に、なっていた。賦課の算定が正しく公開されているか、領を回って検める役。かつて嫌がらせの刃だった手続きが、帳を守る仕組みに、変わったのだ。
検分は、村の広場から始まった。
新法の定めで、賦課の算定は、高札に書き出して、誰でも読めるようにしてある。四百グルデンが、どの畑の、どの実りから、どう割り出された数字なのか。オイゲンは、その高札の前に立ち、一行ずつ、帳簿と突き合わせていった。
「財務官様よ、あの高札、ありがたいねえ」
野良帰りのマルタが、隣に並んで、言った。
「あたしらの納める分が、どういう計算か、初めて、自分の目で読めた。……読めるってのは、いいもんだね。疑わなくて、済む」
「ええ。それが、あの法の、いちばんの仕事よ」
検分を終えたオイゲンに、わたしは、訊いてみた。
「お仕事の調子は、いかがです」
「変わりません。私は、決められた数字を運ぶだけです」
相変わらずの、温度のない声だった。けれど、彼は、書類鞄の留め金に手をかけて、ほんの少しだけ、間を置いた。
「……ただ。運ぶ数字が、正しくなりました」
それが、この男の言える、精いっぱいの祝辞なのだと思う。
検分の帳場では、ニコが待ち構えていた。
「役人さん、久しぶりだな! おいら、もう三桁の掛け算もできるぜ」
「そうですか。……では、検算をお願いします」
オイゲンが、鞄から取り出したのは、真新しいそろばんだった。ニコが目を丸くする。
「玉っころ、覚えたのか!」
「筆算より、速かったので」
二人は、検分の控えを挟んで、玉を弾き合った。ぱちぱちと、二重の音。先に手を止めたのは、オイゲンだった。
「……負けました。三つ目の桁で」
「へへっ。おいら、いい師匠についてるからな」
(……あの人の帳簿にも、ちゃんと、右側があったのね)
こまごまとした帳尻の、二つ目は、手紙で届いた。
実家からだった。父は隠居し、家は、畳める所領を畳んで、小さくなって、残ったという。潰れもせず、栄えもせず。救いすぎない、ちょうどいい帳尻だと思う。
手紙は短かった。命令の言葉が、一つもなかった。書き出しは『娘へ』。
『お前の母の帳のつけ方を、わしは、笑った男だ。商家の真似ごとと、な。いまは、国じゅうが、あれを習っておる。……笑われるべきは、どちらだったか』
そして最後に、一行。
『すまなかった』
(……十年分の帳尻に比べれば、ずいぶん小さな一行。でも)
わたしは、その手紙を、文箱の、母の古い手紙の隣に、しまった。載せておこう。帳簿の、右側に。
ハーゲン殿からの文も、来ていた。検分の報告のついでのように、王都の消息が、二行。
レオンハルト様は、小さな官吏の職を、実直に続けているという。それでいい。ミレーユ様は、聖女の位を、自ら返上したそうだ。それも、一行で足りる話だった。
三つ目の帳尻は、書棚の上で、合わせた。
先代様の帳簿の束を、執務室の書棚の、いちばん良い場所へ、納め直したのだ。ヴォルフ様と、二人で。日の当たる、それでいて灼けない、帳簿にとっての特等席。
「……親父も、まさか、息子の嫁の書棚に並ぶとはな」
「あら。ここが、この領の帳の、いちばんの本流ですよ」
三十年を戦い抜いた帳は、埃をかぶる遺品ではなく、いつでも引ける記録として、これからも、ここにいる。
夕刻、厨房を覗くと、マルタが、献立の帳を広げていた。
「財務官様……いや、明日からは奥方様か。見とくれ、明日の献立だよ。香草鶏に、木苺の砂糖煮に、ヴェルナーんとこの新しい酪。村じゅうから、持ち寄りが止まらなくてね」
献立の帳は、書き足された品で、余白がもう、ほとんどない。
初めてこの館でいただいた、あの夕餉の粥の薄さを、この献立の帳は、もう覚えていない。
「多すぎたかい?」
「いいえ。……祝いの席の食べ過ぎは、帳簿につけない決まりです」
夜。
祝いの前夜の館は、しんとしていた。
わたしは、自室の机に、母の形見のそろばんを置いて、一人、向き合った。
明日、わたしは、結婚する。
「……母さん」
ぱち、と、玉を一つ、弾く。
小さい頃、この玉の弾き方を教えてくれた手を、覚えている。細くて、少しかさついた、あたたかい手。周りじゅうに笑われながら、それでも母は、言った。帳はつけ続けるものよ、と。帳は忘れないから、と。
「あなたの帳簿術は、国の法に、なりました」
商家から嫁いで、疎まれて、それでも娘に、両建ての帳を遺してくれた人。その帳のつけ方が、いまは王国の書式になって、どの領の民も、自分の納める税の根拠を、検められる。
そして――もう一つの、遠い生のこと。
誰にも言えなかった記憶。この世界のどこにもない知識。あの遠い生で、数字は、わたしにとって、ただの仕事だった。誰の顔も浮かばない、冷たい数字だった。この生の数字には、顔がある。マルタの畑。ニコの玉っころ。ヴォルフ様の、逆さの帳面。
その記憶ごと、秘密ごと、抱きしめてくれた人が、いる。あの夜から、わたしの帳簿には、隠しページが、一枚もない。
(ふたつの生を、両建てで締めても……今度の生は、間違いなく、締まっているわ)
そろばんの玉を、指先で、そっと撫でる。
この玉の音を、いつか、ニコに。あの子たちの誰かに、渡す日が来るのだろう。でも、まだいい。もう少しだけ、わたしの手元で、鳴っていてほしい。
扉が叩かれた。
「……起きているか」
ヴォルフ様だった。手に、一冊の帳面を持って、少し、そわそわしている。
「明日の式の費えは、俺が、帳をつけた」
差し出された帳面を、わたしは、受け取った。
そして気づいた。
(……逆さではない)
表紙は上を向き、背は左にある。正しい持ち方で、正しい向きで、この人は、帳面をわたしに差し出している。初めて会った頃、逆さに持っていることにも気づかなかった、この人が。
開くと、角ばった、生真面目な字が並んでいた。祝いの膳。楽師への礼。村中に振る舞う樽の数。数字は、一の位まで、きちんと合っている。
「一の位まで、合っていますね」
「お前の、口癖だからな。……三度、検算した」
「樽の数が、ずいぶん多くありませんか」
「足りんより、いい」
「……その考え方、いつの間に覚えたんです」
「うちの財務官が言っていた。祝いと備えは、惜しむな、と」
最後の行に、費目が一つ、書き足してあった。
『これより先の費えは、すべて、二人の帳へ』
わたしは笑ってしまった。それから、少しだけ、泣きそうになった。
「……ヴォルフ様。この帳、あなたにしては、上出来すぎます」
「そうか」
「ええ。ですから――続きは、二人でつけましょう」
窓の外、初夏の夜風が、青い麦の匂いを運んでくる。
明日、わたしは、この人と、結婚する。
第59話、お読みいただきありがとうございます!
決算のあとに残った、こまごまとした帳尻を合わせる回でした。高札の前のマルタ、そろばんを覚えた元査察官、父からの短い一行、そして――帳面を、もう逆さに持たないヴォルフ。第2部で拾いたかった端数を、前の晩に、そっと並べています。
次回・第60話「婚約破棄は、黒字になりました」。第1話の帳が、締められます。
第2部もあと一話。ブックマーク・★評価で、最後まで見届けていただけたら嬉しいです!




