第十二話 ふたりの未来
湊にはわかった。
これは父なりの、“譲歩”だった。
簡単に認められる話じゃない。
父はきっと今でも、不安なのだ。
年齢差。
男同士。
世間の目。
それでも。
“頭ごなしに否定しない”
というところまで来てくれた。
それだけで十分だった。
「父さん」
湊が呼ぶと、父がゆっくり視線を上げる。
湊は少し迷ってから、小さく頭を下げた。
「……ちゃんと考える」
「大学も、自分で決める」
父は何も言わない。
でも。
ほんの少しだけ、表情が柔らかくなった気がした。
◇
父が帰ったあと。
居間の空気が一気に緩む。
「はーーー疲れた」
湊は畳へ倒れ込んだ。
すると祖母が呆れたように笑う。
「情けない声出して」
「だって緊張したし……」
本当に寿命が縮んだ気分だ。
その時。
「お疲れ」
低い声と一緒に、頭をぽんと撫でられる。
ジョージだった。
「……ん」
自然と頬が緩む。
そんな湊を見て、祖母がニヤニヤし始めた。
「はいはい、ごちそうさま」
「やめて」
「青春だねぇ」
「だから言い方!」
ジョージが隣で低く笑う。
その笑い声が、妙に心地いい。
◇
夜。
離れの小屋。
窓を開けると、少し涼しい風が入ってきた。
夏の終わりの匂いだった。
「……静か」
湊が呟く。
花火大会が終わってから、町は少しずつ落ち着きを取り戻していた。
騒がしかった夏が、ゆっくり終わっていく。
でも。
今年は不思議と寂しくなかった。
「湊」
ジョージが後ろから名前を呼ぶ。
振り返いた瞬間、腕を引かれた。
「っ」
そのまま、胸へ閉じ込められる。
大きな腕。
熱い体温。
ジョージの匂い。
「……ジョージ」
「充電」
「何それ」
笑うと、ジョージが肩へ額を押しつけてくる。
「昨日、寿命縮んだから」
「俺もだけど」
二人で小さく笑う。
するとジョージが、ふと真面目な声になった。
「湊」
「ん?」
「来年も、一緒に花火見よう」
胸がじわりと熱くなる。
来年。
自然に、未来の話をしてくれる。
それが嬉しかった。
湊はジョージの胸へ額を預けながら、小さく笑う。
「……浴衣は着ない」
するとジョージが吹き出した。
「まだ言ってる」
「絶対恥ずかしい」
「見たいのに」
「却下」
くだらないやり取り。
でも。
こんな時間が、ずっと欲しかった。
一人じゃない夜。
帰ってくる場所。
名前を呼んでくれる人。
湊は窓の外を見る。
夜の海。
遠くの灯り。
静かな波音。
孤独だった夏は、もう終わった。
でも。
この夏がくれたものは、きっと終わらない。
湊はそっとジョージを見上げる。
「……好き」
小さく呟く。
するとジョージが、一瞬止まった。
それから。
どうしようもなく幸せそうに笑う。
「知ってる」
そして。
離れの小屋へ、静かなキスが落ちた。
潮風が、優しくカーテンを揺らしていた。
◇
夕暮れの海辺。
九月の風は、もう少しだけ涼しい。
観光客も減り、《ブルーコースト》の喧騒は嘘みたいに静かだった。
「お疲れ」
低く優しい声。
振り返ると、ジョージがいた。
黒いパーカーにデニム。
変わらず目立つ。
湊は鞄を肩へ掛け直しながら、小さく笑う。
「仕事終わり?」
「ん」
ジョージが近づいてくる。
その瞬間。
ふわ、と潮風に混じって、見慣れたジョージの匂いがした。
胸がじわりと熱くなる。
夏休みの間は毎日のように会っていたのに、今は数日ぶりだ。
それだけで、妙に落ち着かなかった。
「……なに」
見つめられている気配に気づき、湊が聞く。
するとジョージの視線が、ふと湊の胸元へ落ちた。
制服。
白シャツ。
ネクタイ。
学校指定のブレザー。
その瞬間。
ジョージが少しだけ苦い顔をする。
「……ほんとに高校生なんだな」
ぽつりと落ちた声。
湊は目を瞬かせる。
ジョージは苦笑した。
「夏の間ずっと一緒にいたから、忘れそうになる」
波の音が響く。
ジョージは海を見ながら、小さく息を吐いた。
「たまに、罪悪感すごい」
その言葉に、湊は少し黙る。
たぶんジョージは、今でも考えているのだ。
年齢差。
立場。
周囲の目。
自分を好きになったことで、湊の未来を狭めていないか。
でも。
湊は少しだけ眉を寄せた。
「……こっち向いて」
「ん?」
ジョージが振り返いた瞬間。
湊はジョージ肩を軽く掴み、そのまま背伸びをした。
そして。
唇へ、ほんの短く触れる。
「……っ」
ジョージが目を見開く。
湊は顔を真っ赤にしたまま、小さく言った。
「そういう顔、やめて」
「どんな顔」
「離れようとしてる顔」
潮風が吹く。
ジョージはしばらく固まっていた。
やがて、堪えるみたいに片手で顔を覆う。
「……無理」
「何が」
「今の、反則」
低く掠れた声。
湊は照れ隠しみたいに海を見る。
「俺はちゃんと未来あるって言ってんの」
少し震える声。
「大学も行くし」
「やりたいことも探すし」
「だから、勝手に罪悪感で離れようとすんな」
ジョージが静かに湊を見る。
その目が、痛いくらい優しい。
「……ほんと強くなったな」
「誰のせいだと思ってんの」
そう返すと、ジョージが小さく笑った。
そして今度は、ジョージのほうがそっと湊の頬へ触れる。
「約束するお前の未来、ちゃんと応援する」
胸が熱くなる。
ジョージは続けた。
「大学も」
「その先も」
「ちゃんとお前が選べるようにしたい」
真っ直ぐな目だった。
湊は少しだけ泣きそうになる。
この人は、自分を閉じ込めようとしない。
ちゃんと未来ごと好きでいてくれる。
「じゃあさ」
「ん?」
「大学合格したら、お祝いで旅行連れてってよ」
ジョージが止まる。
「……旅行?」
「うん」
湊は海を見ながら続ける。
「俺、ちゃんと受かるから」
「そしたら、“高校生だから”ってやつ終わりじゃん」
少し照れくさい。
でも、ちゃんと伝えたかった。
“未来がある”って。
“終わらせる気ない”って。
ジョージはしばらく何も言わなかった。
やがて、どうしようもなく愛しそうに笑う。
「……可愛すぎて困る」
「またそれ」
「事実」
低く笑ったあと。
ジョージはそっと湊の顎へ触れた。
「今度は俺から」
「え——」
言い終わる前に。
静かなキスが落ちる。
さっきより少し長い。
優しくて、でも熱を隠しきれていないキス。
離れたあとも、唇が熱かった。
ジョージが額を寄せてくる。
「受かれよ、大学」
「プレッシャー」
「受かったら、好きなとこ連れてく北海道でも海外でも」
湊は少し笑った。
「じゃあ頑張る」
潮風が吹く。
夕暮れの海が、静かに光っている。
孤独だった夏は終わった。
でも。
その夏がくれたものは、きっとこの先も消えない。
触れ合った指先の熱も。
未来を約束した声も。
全部、ちゃんと残っていく気がした。
夕暮れの浜辺に、二人の影が長く伸びていた。




