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第一話 夏休みの日常

 夏になると、この町は別の顔をする。


 潮風に混ざる日焼け止めの匂い。

焼けたアスファルト。

 遠くから聞こえる子どもの歓声。


 海辺の町は、七月に入った途端、急に騒がしくなる。


 その中心にあるのが、《ブルーコースト》。

海と巨大プールが一体になったレジャー施設で、県外からも客が押し寄せるこの辺り最大の観光地だ。


 そして、その隣に建つ古い民家が、日吉家だった。

「湊ー! 浮き輪の追加出しといてー!」


 祖母の大声が飛んでくる。


「今やるー!」

 日吉 湊は汗を拭いながら、倉庫から大きな浮き輪を抱え出した。


 朝から気温は三十度を超えている。

 まだ午前中だというのに、シャツはもう汗で張りついていた。


 店の前には家族連れが並び、子どもたちが水着のまま走り回っている。


「お兄さん、このゴーグルありますか?」

「パラソル追加したいんだけど」

「写真撮ってもいい?」


 最後のは女子高生だった。

 湊は苦笑しながら首を振る。

「ごめん、仕事中なんで」

「えー絶対モテるでしょ」

「やめてくださいって」


 慣れていた。

 昔から、こういうことは多い。

 色素の薄い髪。

 少し大きめの目。

 日に焼けにくい肌。


 女みたいな顔だとからかわれたこともある。

 でも最近は、どうでもよかった。


 どうせ夏が終われば、みんな帰っていく。

 ここで出会う人たちは、夏限定の関係だ。


――期待しない。


 それが、湊なりの生き方だった。




 閉園アナウンスが流れる頃には、空は茜色に染まっていた。


 湊は店先へ腰を下ろし、ぬるくなったスポーツドリンクを飲む。


 疲れた。

 まだ夏休みは始まったばかりなのに、この忙しさだ。

 八月になればもっと地獄になる。


「ほら」

 祖母がアイスを投げてよこした。


「うお、危な」


「落とすんじゃないよ、高いんだから」


「毎回それ言うよね」


 笑いながらアイスを開ける。


 海風が気持ちいい。

 昼間の喧騒が消えた施設は、ライトアップされて別世界みたいだった。


 夜のプールが好きだった。


 誰もいない流れるプール。

 止まったウォータースライダー。

 波の音だけが聞こえる海辺。


 騒がしい世界から、自分だけ少し切り離される感じがする。


「……あんた」

 祖母がぽつりと呟く。

「父親、今日来るよ」


 湊の手が止まった。

「……珍し」


 父は滅多にここへ来ない。

 仕事人間。

 昔からずっとそうだった。


「何しに」


「知らないよ」

 祖母はそれ以上何も言わなかった。

 でも、その表情は少しだけ固かった。


 嫌な予感がした。


 


 父が来たのは、空が完全に暗くなった頃だった。


 黒い車。

 スーツ姿。


 見慣れたはずなのに、父はいつも少し遠い。


「久しぶり」

低い声。


「……うん」

 湊は自然と背筋を伸ばした。

 父の前だと、いつも少し緊張する。


 祖母は空気を読むように立ち上がる。

「私は風呂入ってくるから」

 逃げるように母屋へ戻っていく。


 残されたのは、湊と父だけ。

 沈黙が重かった。


「話がある」


 やっぱり。

 湊は胸の奥が冷たくなるのを感じた。



 離れの小屋。

 六畳ほどの狭い部屋。

 古い扇風機が回り、窓から潮風が入ってくる。


 ここが、湊の“夏の部屋”だった。


 父は狭い室内を見回してから、静かに口を開く。

「……俺には、もう一つ家庭がある」


 一瞬、意味がわからなかった。

「……は?」


「向こうにも子どもがいる」

 波の音が遠くなる。

 湊は何も言えなかった。


 驚いたのか。

 怒ったのか。

 悲しいのか。


 感情がうまくまとまらない。

 ただ胸の奥が、じわりと痛んだ。


 父は続ける。

「今後、向こうで暮らす時間が増える」


「……俺は」


「大学進学も含めて、環境を変えようと思っている」

 また勝手に決まっている。

 湊は唇を噛んだ。


 昔からそうだ。

 父はいつも、“正しいこと”を選ぶ。

 でもそこに、自分の気持ちが入る余地はあまりない。


「それで」


 父が一拍置く。


「大学に入るまで、お前の保護者をつける」


「……は?」

 意味がわからない。


「俺の部下だ。信頼している」

 そう言って、父は小屋の外へ視線を向けた。

「入れ」


 ぎ、と古い扉が開く。

 最初に見えたのは、大きな影だった。

 狭い入口が急に小さく見える。


 背が高い。

 焼けた肌。

 広い肩。

 黒いTシャツの上からでもわかる体格。


 しかも顔が、やたら整っていた。

 外国人みたいに彫りが深い。

 茶色がかった髪。


 怖そうな見た目。


 なのに。


「……どうも」

 低い声は、驚くほど穏やかだった。


 男は少しかがみ込み、小屋へ入ってくる。


 そして。

 まっすぐ湊を見て、少しだけ目を細めた。


 「ジョージ・黒瀬」

 

 その声が、妙に耳へ残る。

 「今日からよろしく、湊」


――その瞬間。

 湊はまだ知らなかった。

 この男が。


 孤独だった自分の夏を、

 人生ごと変えてしまうことを。

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