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第81話 渇きを癒す鮮血

 身体の内側から砂を詰め込まれたような渇きが、絶え間なくその男を責め立てていた。


「っ……あ……」


 彼は地下牢の簡易ベッドの上で身をよじった。

 目を開けても、視界はまともに定まらない。


 頭が割れるように痛い。

 胸の奥が気持ち悪い。

 そして何より、喉が渇いて仕方がなかった。


「水……」


 掠れた声が漏れる。


「っ……」


 彼は左手で身体を支えようとしたが、力が入らない。

 そのまま簡易ベッドから転げ落ちる。


 床を這うようにして進んだ牢の壁には、簡素な蛇口が備え付けられていた。

 その下には木桶が置かれている。


 どうにか壁に掴まり、ふらつきながら立ち上がる。

 蛇口を捻ると、濁った水が流れ出した。


 彼はそれに口をつけ、喉を鳴らして水を飲み込む。


「……なん、で……」


 しかし、渇きはまったく潤わなかった。

 むしろ、水を飲めば飲むほど、求めているものが違うのだと身体が訴えてくる。


 ――違う、これじゃない。


 もっと濃くて、もっと熱くて……もっと甘美なもの。


「やめろ……」


 彼は蛇口から顔を離した。

 吐き気がしたが、吐くものなどない。


 濡れた顔を拭おうとして、ふと木桶に張った水面が目に入る。


 深紅に染まった瞳に、血色の悪い肌。

 発達した犬歯と、わずかに尖った耳。

 そして、黒檀色だったはずの髪は、暗闇でも浮かぶほど白く変色していた。


「……」


 彼は息を呑む。

 水面の中の化け物も、同じように息を呑んだ。


「嘘だ……」


 左手で自分の頬に触れる。


 ――人間の温かさがない。


 その瞬間、胃の底から吐き気が込み上げた。


「こんなの……」


 もう、人間ではない。

 見た目が変わっただけではない。

 身体の奥から、自分ではない何かに塗り替えられている。


「こんなの、僕じゃない……!」

「――まだ受け入れられないかい? 自分が人ではなくなってしまったことが」


 声がした方に、彼は反射的に振り返る。

 鉄格子の向こうに、少女が立っていた。


 白に近い銀髪。

 薄紫の瞳。

 可愛らしい顔立ち。


 だが、その姿を見た瞬間、彼の全身が強張った。


 自分をこの姿に変えた張本人、オリン・ゼフィード。


 楽しそうに笑う彼女を、彼は睨みつける。

 怒り、嫌悪、恐怖。

 そのすべてが、深紅の瞳に宿っていた。


 オリンは鉄格子の向こうで、わざとらしく肩を震わせる。


「そんな目で見てくれるなよ……」


 薄紫の瞳が細くなる。


「興奮するじゃないか」


 彼の奥歯が鳴った。


 飛びかかりたい。

 殴りたい。

 首を絞めたい。


 そう思ったが、身体が動かない。

 立っていることさえ、もう限界だった。


 足元が崩れ、彼はその場に膝をつく。


「おや」


 オリンは首を傾げた。


「まだ立てないか。まあ、無理もないね。死にかけの身体に、私の血を馴染ませたばかりだ」


 彼女は腰につけた鍵束から一つを選び、牢の扉を開けた。

 錆びた音が響く。


 彼は後ずさろうとしたが、背中が石壁にぶつかるだけだった。


 オリンはゆっくりと牢の中へ入ってくる。

 まるで怯えた動物に近づくように、足音を立てずに。


「苦しいだろう?」


 オリンは自分の手首を、爪で浅く裂いた。


 赤い血が滲む。

 そして、ぽたりと床へ落ちた。


「……っ」


 血の匂いがした。

 鼻の奥を突き抜け、頭の芯を痺れさせるような匂い。

 水では満たされなかった渇きが、その一滴を見た瞬間、さらに強くなる。


 床に落ちた血が、石の上で小さく広がった。

 彼の視線が、そこから離れない。


 嫌だ。

 見たくない。

 欲しくない。


 そう思うのに、身体が勝手に反応する。


 喉が鳴り、心臓の奥で何か獣のようなものが目を覚ます。


「やめろ……」


 彼の声が震えた。


 自分がどうしようもなく血を欲している。

 その事実に、涙が滲んだ。


 見た目だけではない。

 本能そのものが、人ではなくなってしまったのだ。


 オリンはその涙を見て、うっとりと目を細めた。


「ああ、なんていじらしいんだろう」


 彼女は牢の床に腰を下ろす。


「君は素でそれをやっているのかい?」


 オリンは自分の太ももを軽く叩いた。


「おいで」

「……嫌だ」

「強情だね」


 オリンは笑う。

 そして、抵抗する力の残っていない彼の頭を抱えるようにして、自分の太ももへ乗せた。


 柔らかい感触。

 近づく血の匂い。

 裂かれた手首から滴る鮮血が、彼の頬のすぐそばへ落ちる。


 ぴちゃり、ぴちゃり。

 音が繰り返されるたびに、喉の奥が焼ける。


 オリンは耳元へ唇を寄せた。


「どうしようもなく血が欲しいんだよね……」


 囁きが、頭の中へ染み込んでくる。


「我慢しなくていいんだよ?」


 彼は目を閉じる。

 涙がこぼれた。


「本能に従えばいいんだ」

「僕は……」


 人間だ。

 そう言いたかった。


 オリンの指が、白く変わった髪を撫でる。


「だって、もう二度と人間には戻れないし」


 甘い声。

 残酷な言葉。


「――君の全ては、私の眷属(もの)になってしまったんだから」


 その瞬間、彼の中で何かが崩れた。


 人間性、矜持、高潔さ。

 そのすべてが、渇きに押し流されていく。


 もう、耐えられなかった。


「きゃっ」


 オリンの身体が床へ倒れる。


 彼が、彼女を押し倒していた。

 そして血の匂いに突き動かされるように、彼はオリンの首筋へ顔を寄せた。


 白い肌に脈打つ血。

 そこへ、鋭い犬歯が突き立つ。


「っ……!」


 血が口の中へ流れ込んだ。

 喉を焼いていた渇きが、ようやく満たされていく。


 彼は、夢中で吸った。

 息も忘れて、涙を流しながら、ただ血を求めた。


 自分が何をしているのか分かっている。

 分かっているのに、止まれない。


 血を飲むたびに身体が震え、頭の痛みが引いていく。

 代わりに、人間だった頃の自分が、遠くへ遠くへ離れていく。


「ふふっ……」


 オリンは痛がるどころか、満足げに笑った。

 自らの血を必死に吸い出す彼の頭を、優しく撫でる。


「よしよし」


 薄紫の瞳が、地下牢の天井を見上げる。


「いい子だね」


 地下牢には、血を啜る音だけが響いていた。

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