最終章:澄川の静寂、そして炭酸の抜けた午後
澄川のスナックの扉を開けた瞬間、僕は喉元まで出かかった心臓を飲み込んだ。
坂田さんの腰に差したコーラ瓶が、何かの拍子にガチリと音を立てる。血の雨が降るか、あるいは怒号が飛び交うか、僕は拳を握りしめた。
しかし、そこに広がっていたのは、拍子抜けするほどに平穏な、昼下がりの光景だった。
奥のボックス席で、マスターの知り合いと思われる男たちが、帳面を広げて淡々と数字を書き込んでいる。テレビからは、のどかな競馬中継のファンファーレが流れていた。
怒号もなければ、銃声もない。あったのは、煙草の煙と、計算機の音。
それは「ノミ屋」という、法律の枠の外側で、けれどあまりに日常的に営まれている、大人のための奇妙な算数の時間だった。
マスターはその中心に座り、穏やかに言葉を交わす。
坂田さんは、結局一度もコーラ瓶を抜くことなく、所在なげにカウンターの隅で灰皿を眺めていた。藤田さんも、電気技師の鋭い目で、店の配線か何かをチェックするふりをしている。
「……終わったよ。帰ろうか」
三十分後、マスターは立ち上がり、僕たちにそう告げた。
帰り道のセドリックの車内は、行きよりもずっと静かだった。
誰も、坂田さんの腰のコーラ瓶については触れなかった。それは、抜かれることのなかった伝家の宝刀のように、どこか滑稽で、それでいてひどく悲しい物に思えた。
「結局、何も起きませんでしたね」
僕が我慢できずに呟くと、マスターはバックミラー越しに僕を見て、少しだけ謎めいた言葉を返した。
「何も起きないことが、一番恐ろしい終わり方なんだよ。……日常っていうのは、そうやって少しずつ、取り返しのつかない場所へ進んでいくものだからね」
平岸に戻ると、のりこちゃんがいつものように明るい笑顔で「おかえりなさい」と僕たちを迎えてくれた。
僕は白いカウンターに座り、深煎りの珈琲を飲んだ。
ススキノのディスコで組の名前を騙って連行されたあいつや、朝方のトルコ風呂で冷たい指をしていた女。そして、競馬の配当を計算する澄川の男たち。
それらすべてが、僕の住む札幌という街の血流なのだ。
セリカのキーを握る僕の手は、もう震えていなかった。
けれど、あのコーラ瓶の持ち主だった坂田さんが、店を出る時にそっと瓶を元の箱に戻した時の、カランという虚しい音だけが、いつまでも耳の奥で鳴り止まなかった。
1980年代、札幌。
僕は19歳になろうとしていた。
40数年前の平岸やススキノには、映画よりも映画らしい「滑稽で危うい日常」が転がっていました。
続きは↓
札幌、北の境界線 ―― NORTHERN BORDER ――vol.2:摩天楼のセプテンバー、しめ縄の聖夜
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