閑話「本田(上)」
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本田という高校生がいた。十七歳、念動の異能持ちの高校生だ。
一言で言ってしまえば小者である。
自分より力がある者を妬み、ないものを見下す──十把一絡げの凡夫であった。
その本田だが、ある日、『片腕の女』と呼ばれる怪異に出くわした。
怪異の多くは人に仇為すモノなのだが、この女もその例に漏れない。
都市伝説のごった煮から生まれたこの女は、特に理由もなく人を襲う。
が、本田も本田でこの時代に生きる者だ。有害な怪異に対して抵抗くらいはするし、意外にもこの男はそこそこやるほうではあった。念動の出力が高く、その辺の空き缶でさえも全力で飛ばせばブロック塀くらい平気でぶち抜けたりする。
が、そんな速度で叩きつけた空き缶は頬骨にがつんと当たったのはいいが、まるで堪えた様子はない。狼狽える本田だが、次の一手を組み立てる時間はもらえなかった。女の細い影が一本、すうっと泳ぐみたいに伸びてきて、本田の右腕を肩から持っていった。
痛みはなかった。
あったのは無くなったという感覚だけだった。
次に影が首に来た時、本田はあっさりとそのそっ首をへし折られた。
暗くなる視界の隅で本田は妙な事を考えた。これは違う、と思ったのだ。これは御堂の死に方だ、と。あの陰気で気持ち悪い無能力者が、暗い路地の奥で得体の知れないやつに食われて死ぬ──それならわかる。でもこれは俺の死に方じゃない。
そんな事を思う本田は奮起した。
何としてもここで死んでなるものか、と。
片腕を失い、首をへし折られてなお本田は自身の死を拒絶した。
この奮起の出所は女に対する対抗心や、自身の命がまさに今失われつつあるという恐怖感ではない。俺はもっとやれるはずなんだという増長と、こんな死に方は御堂のような雑魚にこそお似合いだという見下しの念である。
この期に及んでもこの本田という男は、善でも悪でもなく卑で在り続けたのだ。
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さて、片腕の女だが。
この女は片方の腕を欠いている。なぜ欠いているのかは分からない。全国津々浦々のいわば都市伝説が継ぎはぎのパッチワークのように張り合わされた歪な怪異だからだ。そういったモノはあらゆる事に対して理由を持たない。
よく分からないけど人を襲うし
よく分からないけどいつの間にか発生しているし
よく分からないから対処のしようがない
そういうモノなのだ。
現場、現場で判断するしかない。
この女の場合、分かっている事はその欠損した腕を、女が治したがっているという事である。あるいは、探していると言うべきか──。
そのために女が見出した方法は他者の魂を取り込み、それを以て腕を癒す、あるいは生やすという随分とまあトンチキな方法であった。しかしそんな方法で根源のレベルで失われている部位を生成するなんて事はできやしない。
輸血に血液型の相性というものがある様に、魂同士にも相性はあるのだ。だがそういった理屈は女にはわからない。迷い込んできた獲物を片端から呑みこむ以外の事を知らない哀れな怪異でしかない。
で、ここ──つまり片腕の女の異常領域で死んだ者の魂だが、当然ただで成仏はできない。片腕の女に貪り食われる宿命である。しかしほんの少しだが、捕食からこぼれる魂というものがある。人間も同じだ。例えばクッキーを齧れば粉が下に落ちたりすることもあるだろう。
本田も同じ様にこぼれた。
死んでなるものかと踏ん張った強情のぶんだけ、彼の魂は女の口から逸れて、異常領域の薄闇の中に散った。
通常、そんな状態では意識もなにもなく、ただ霊的な意味でのゴミのようなものとして、他の浮遊霊だか怪異だかの餌になるのだが──
本田は本田としての意識があった。
半ば悪霊と化しながら。
生前に抱えていた侮蔑や劣情、そういった小さい感情の沈殿物、卑の残滓が本田を本田たらしめていた。小さかろうと、浅かろうと、卑であろうと──感情というのは案外しぶといのである。
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異常領域には本田と同じように死にきれなかった者たちが漂っていた。
数日前にここで消えた中年男の浮遊霊。十数年前の事故で取り残された子供の残響。名前のない、低級な怪異の切れ端。
いずれも力なきかけらである。
本田はそれらを取り込んだ。
狙ってやったわけではない。彼はただそこに在って、自分より弱いものを引き寄せる場のようになっていた。
そして取り込むほどに本田は肥大した。
肥大、というのは肉の話ではない。霊体としての密度が増したのである。
最初は薄い靄のようなものであった本田が、やがて領域の中で一つの濃い影を成すまでになった。
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そうこうしている内に、片腕の女はもっと強大な別の怪異との争いの果てに散った。
そうして異常領域は核を失って崩れ、現世との接続が緩んだ。
本田は──正確には本田だったものは──そのまま街の側へ零れ出たのである。
街は何も変わっていなかった。
本田が生きていた頃のままの街であった。コンビニには客が出入りし、街灯は時刻になれば点り、信号は赤と青を律儀に繰り返している。
本田は薄い影として、そういう景色の上を漂った。
本田は腹が立った。
なぜ街は変わらないのか、と。
──俺がこんなふうになっちまったってのによォ……
なぜ俺が、俺様がいないのに何も変わらないんだ、と。
言うまでもなく、これも矮小な怒りである。
が、彼の自我を支える最後の燃料でもあった。
本田は街を漂いながら、生者とすれ違うたびに少しずつ何かを取り込んで言った。捕食というほどではない。人が本田を通り過ぎると、少し気分が悪くなる程度だ。だがそのたびに相手の感情の上澄みが本田にへばりついていく。
怒りやすい男からは怒りが移り、嫉妬深い女からは嫉妬が滲んだ。
本田は自身の浅はかさを、無数の他人の浅はかさで補強していったのである。
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一、二か月もするうちに本田は本田ではなくなりつつあった。
取り込んだ感情の総量が、生前の本田の人格を凌駕したのだ。
『本田、十七歳、高校二年、念動の異能、佐原 祐を妬んでいて、御堂 聖を侮蔑していて、色っぽい女は皆大好き』──そういった輪郭が、ぼやけて、にじんで、判別できなくなっていった。
しかし、ただ一つの想念だけが最後まで残った。
増上慢である。
俺は強いという増上慢。
弱いやつが死ぬのは当たり前だ。だが俺は違う。俺はあいつらとは違うという増上慢。
記憶も人格も溶けたあとで、選民意識だけが純度を上げて結晶化していった。
このまま時間が経てば、それなりに厄介な悪霊になっていただろうことは間違いない。とはいえ所詮本田であるので、そこそこ腕のある祓い屋が出張ってくればあっさりと成仏させられていただろう。例えば眞原井 アリスならばこの時点の本田を十人纏めて鼻歌混じりに八つ裂きにできた。
だが──。
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東京が隔離されて事情が変わった。
日本国総理大臣である氷川が禍津日神の封印を解き、紫のドームが空を覆った日のことである。
現世と幽世の境界が崩れたのだ。
こうなるとある程度の力を蓄えた霊体は形を持ち始める──受肉というやつである。
本田だったものはそのとき、街角の電柱の根本にしゃがんでいた。
空が紫色に変わるのをほとんど官能的な感覚として味わった。視覚ではない。皮膚もない霊体が、皮膚に似た何かで紫の光を浴びている──そう、本田は感じた。
そして──。
生前と同じパーカーを着ていた。失ったはずの右腕もちゃんと付いている。指先を動かすとちゃんと曲がった。
立ち上がって本田は嗤った。
生前と全く同じ、卑に満ちた笑みであった。




