第36話「高田馬場④(御堂 聖、笹本、三鷹、小野田 )」
◇◇◇
笹本は廊下の壁に背を預けて、入口方向を眺めていた。
角に折りたたみ式の長机があって、プラスチックの椅子が二つ向かい合っている。そこで小野田が新入りと面談をしていた。笹本の位置からだと、新入りの横顔だけが見えた。
──そして笹本は、そのまま動けなくなった。
◆
何が起きたのか、自分でも分からない。
足がうごかない。
うごきたくない──近寄りたくない。
廊下に出て、お湯をもらいに給水所へ向かうつもりだった。
しかし、それを視て──。
男の子──というにはやや年を取っているだろうか。高校生くらいの、パーカーにリュックの男の子が受付の椅子に座っている。
──あれ、なに?
違う、というのが一番正確な言葉だと笹本は思う。霊なら分かる。怪異なら分かる。あるいは人間でも、変質した何かを持っている人間なら何人も見てきた。阿弥陀羅はまさにそういう人間の集まりなのだ。だがどれとも違う。
小野田は気づかないのだろうか?
後ろ。正確には、後ろから張り付いている何かに。
それが何であるかを笹本は知らない。知らないが──
──厄だ
妖しいだとか危険だとか、そういうものではない。厄だ。厄を感じる。池袋を出てから何ヶ月も、ありとあらゆる種類の霊的なものを傍らに感じながら生き延びてきた。
そうして磨かれた感覚が全力で生命の危機を訴えている。
◆
「おい笹本」
いつのまにか三鷹が隣に来ていた。物音一つ立てない歩き方で、いつの間にかすぐそこにいる。首の火傷痕が廊下の明かりに照らされている。
「どうした。顔色が悪いぜ」
「うん……」
笹本は自分の顔を触った。ひどく冷たかった。
三鷹は黙って受付の方向を数秒見た。新入りが小野田と何か話している。三鷹の目にはたんなる柔なガキにしか映っていないだろう。
「あいつがどうかしたか」
三鷹の問いに、笹本は首を振る。袖をつかみ、この場から離れるように促しつつ──
「分からないけど」
言葉が途切れた。
途切れたのは言葉が足りないのではなく、追いつかないからだ。感じているものが言語の処理速度を超えている。
三鷹は短く息を吐いた。
笹本の勘を三鷹は基本的には信じている。疑う気にならないのは理屈ではなく、積み上げてきた事実による。笹本の勘は当たる。大抵の場合において、正確に。
だから三鷹は受付の男の子──聖を、それとなく記憶に刻んだ。
◇◇◇
面談はしばらく続いた。
小野田の目から見ると、御堂という名の少年は──素直だった。問いに答える時にわずかに間を置く。何かを測っているか選んでいるかのような間で、だからといって嘘くさくはない。むしろその間があるほうが誠実に見えた。
霊媒体質。浮遊霊が見えて、話ができる。
戦えるか、と聞いたら「いいえ」ときた。それでも偵察には使えると言い、実際にやってきたとも言った。嘘ではなさそうだった。
「救世会との連絡がとれれば、まあその方向で考えとくから。とりあえずAブロックに入って」
「あの、荷物とかは」
「持ち込みは少なめで。貴重品は自分で管理。ルールはそっちのホワイトボードに書いてあるから後で確認して」
「はい」
小野田は少年が立ち上がるのを眺めながら、先ほどつかみかけたあの感覚を反芻した。穴の話を思い出す。
見当がつかない、というのが正直なところだ。危険かどうかも分からない──というより、危険という概念がそもそも当てはまるのかどうかも分からない。
しかし一つ確信がある。
眼前の少年には何かしらの地雷があり、それを踏み抜けば良くない事が起こると言う事だ。
ならば最初から受け入れなければいいだろう、という思いがないではない。
ただ、それもそれで良くない事が起こる気がしてならないのだ。むしろしっかりと丁寧に取り扱うべし──というような気がしている。
この辺は理屈ではなく、勘というかもっと原始的な感覚から来るものだった。ちなみに小野田の異能はないとも言えるし、あるとも言える。
§
小野田は消防士を四十年近くやった。高校を出てすぐ入った。その四十年間──幾つもの火災現場と救急の修羅場をくぐり抜けて、骨折一つしたことがない。大病もなかった。体が丈夫で運がいい、で片づけられる話ではあるのだが、それだけでは説明のつかない事がいくつかあった。
十五年ほど前の話になる。当時は港区の消防署に勤務していた。
ある朝、小野田が出勤しようと玄関で靴を履いたところで、家の鍵をリビングのテーブルに置き忘れていることに気がついた。取りに戻る。さあ今度こそと玄関に立ったところで財布がないことに気づく。また戻る。焦って靴を履いたら靴下の色が左右で違っていた。脱ぐ。履き直す。やっとのことで家を出たら、いつも使う近道が水道管の緊急工事で通行止めになっていた。
すべてが噛み合わないまま駅に着いた時には、普段乗る電車はとうに発車した後だった。仕方なくタクシーを拾い、署には始業ぎりぎりで滑り込んだ。
その日の昼、休憩室のテレビに速報が流れた。
小野田が乗るはずだった電車が脱線事故を起こしていた。負傷者は四十名を超え、うち三名が重体だった。
こうした類の話が小野田の人生には三つほどある。いずれも些細なつまずきが畳みかけるように押し寄せて、結果としてもっと大きな厄災の手前で足止めを食らう──そういう構造だった。偶然と言えば偶然だろう。ただ三度ともなると偶然の一語では据わりが悪い。
四十代の頃、友人に半ば強引に連れられて霊能者を訪ねた事がある。目白の古いマンションの一室で、線香臭い部屋の奥に座っていた初老の女がしばらく小野田の顔を眺めた後にこう言った。
「あなたには強い守護霊がついている。あなたを死なせたくないんでしょうね、よほど」
小野田は「はあ」と答えて帰り、翌週には言われた内容の半分を忘れた。
ただしそれ以来──小野田は変わった。勘とも感覚ともつかないもの、理屈では掴めないが体の奥底が確かに告げてくる何かを、以前よりも丁寧に扱うようになったのだ。火災現場で「この梁はまだ持つ」と感じれば持ったし、「この扉は開けるな」と感じた時に開けなかった部屋は後から天井ごと崩れ落ちた。論理ではない。経験の蓄積ですらない。もっと手前の、動物的な何かである。
異能と呼ぶには曖昧すぎる。ただの勘と呼ぶには当たりすぎる。
その感覚が今、御堂聖という少年について何を告げているかといえば──
丁寧に扱え、ということだった。
§
「じゃあ案内するよ。ついてきて」
小野田は椅子から立ち上がり、少年を一階の廊下へ促した。
避難所の構造は単純である。
一階が共用エリア。入口そばの受付と、その奥に給水所がある。給水所といっても元の湯沸かし室にポリタンクを並べただけのものだが、この避難所の最大の財産は地下水を汲み上げる防災井戸で、煮沸すれば飲用にも耐える水がまだ出る。紫のドームの下で清潔な水が手に入る拠点は数えるほどしかなく、この井戸がなければこの場所は避難所として成り立っていない。
さらに奥が仮設トイレと配給用のホール。ホールは元の食堂をそのまま流用したもので、五十人が長机に座ればいっぱいになる。壁にホワイトボードが三枚。管理委員会の連絡事項、外出時の注意書き、そして物資の在庫リストが日付入りで更新されている。
「食事は一日二回だ。朝の七時と夕方の五時。メニューはまあ……缶詰と乾パンのローテーション。たまに米が手に入ればおかゆを炊くこともある」
「水は給水所で自分で汲むこと。ペットボトルとかは……まあ自前で用意できなければあげるけど。それから──外出は余り一人ではいかないほうがいいし、よほどの用事がなければ内にいて欲しい」
小野田は階段に差しかかりながら振り返った。少年はびっくりするほど素直だ。特に外出制限みたいなことには抵抗を示す者もすくなくない。こういう状況下では変にスレたりする者も多いのだが、と小野田は逆にいぶかしむが、まあ突っ込まない。
二階に上がる。ここがA・Bブロックだ。
元は八つの教室があった空間を資材を活用して仕切り、一人が横になれる程度の区画を四十数個つくった。窓側の区画は昼間に陽が入る代わりに夜は冷え、廊下側はその逆になる。住人はなんとなく好みで棲み分けていた。
Aブロックは廊下の東側。Bブロックが西側。三階にCブロックと管理委員の部屋がある。Cブロックについては──まあ訳ありということで隔離しているわけだが。
「あと、異能持ちは申告してもらってる。君はもう話してくれたから大丈夫。正直助かるよ、黙ってる人が多いからさ」
嫌味のつもりはなかった。ただ頭の端にCブロックの七名がちらついただけだ。
§
Aブロックは廊下寄りの角に空きがあった。畳一枚ほどの床に毛布が二枚、畳んで置いてある。
「ここ。毛布は二枚。足りなかったら言ってくれればもう一枚くらいは出せる」
「ありがとうございます」
「食事は一階のホールで。時間はさっき言ったとおり。あと──何かあったら遠慮なく声かけてよ。このご時世だし、気になることがあっても抱え込まないほうがいいから」
少年はぺこりと頭を下げた。




