魔術師たちの昏き憧憬#18
月は地球の衛星だ。衛星―― つまりはこの地球の周りを旋回している。その運動は留まる事を知らず、月が地球から見て一定の場所に座することはない。
それなら正しき場所とはどこを指すのか。
もう一度部屋を見回す。今度は慎重に、瑣末なことでも見逃すまいと。
何かヒントがあるはずだ。月に関連するもの―― 地球、太陽、宇宙。それを模す意匠や意味を含む物。
「あの、トキヤ?」
無言で部屋中を練り歩き始めたトキヤに向かって、レイカが呼びかける。その視線は未だに不気味な光を放つ本へと注がれていた。
「何かわかったの? 私たちにもわかるように説明してほしいんだけど」
その表情は困惑半分、不機嫌半分といったものだ。
トキヤは内心で自らを叱責する。また悪い癖が出た。読書をするときもそうだが、集中し始めると周りを一切顧みなくなってしまう。頭に上った血を下すように肩の力を抜き、深呼吸をする。それから普段通りの困ったような笑みを浮かべ、レイカに頭を下げた。
「すみません。ボクとしたことが夢中になってしまったようで」
「ああ、うん。それは傍から見てて十分にそうだってわかってたからいいんだけども、結局その本は一体なんなのか教えてほしいわ。……うまく言えないから気を悪くしないでほしいんだけど、その本…… なんだかとっても不快」
人差し指を唇ではみながら、そう言ってレイカは眉根をひそめる。
トキヤにもレイカの言い分は理解できた。彼女はトキヤが数刻前に本に感じた違和感を、トキヤよりも強く感じているのだろう。なにせ魔術の影響で興味を持てなかったものが、魔術の効力を失ったばかりか強烈な「反応」を示したのだ。頭の中を整理する処理が追いつかなくなっても無理はない。
トキヤは悩む。さて、どう説明したものか。
レイカたちは「怪奇現象」について相談を持ちかけて寄越したのだ。当然魔術の存在など知る由もない。怪異は魔術が引き起こす理不尽な現象のことを指すが、それを説明するには時間がかかりすぎる。
――そもそも、だ。トキヤは手元の本に目をやる。
おそらくこの本にかけられている一連の魔術はショウダイ・マミヤによるものであることはほぼ間違いないが、これが姉妹建前上の依頼である「弱・ポルターガイスト現象」と直接関係しているわけではないだろう。少なくともトキヤにはそう思えた。
魔術は扱う者のアレンジメント次第でいかようにも変容する可能性を秘めているため、武術等に存在する「型」のようなものは存在しないが、大まかな傾向として大規模な魔術ほど、多くの代償や複雑な術式を要する。
早い話が本棚の中の本が移動したり物の位置が微妙に変わったりする程度の怪異を発生させる魔術を扱うには、本に書かれた数百頁にも及ぶ術式は大げさすぎる。何か代償を要求するものでもなさそうなので大規模な魔術を発動させるためのものではなさそうだが、それでも「弱・ポルターガイスト現象」を起こすだけのものにしては明らかにオーバー・スペックだ。
今はこの術式をなんのために使うのか模索している段階だが、偽りを暴き真実を表すという文句が本当のことならば、どちらかといえば関連しているのはレイカの真の依頼のほうだろう。
仮にそうだとして。それをどう説明すべきか、というのが悩ましい。現実に不可解な現象を目の当たりにしているとはいえ、怪異否定派のレイカを納得させるのにも骨が折れそうだ。
「……そうですね。ボクから説明する前に、レイカさんはさっきの現象についてどう思われますか?」
しばらく考えた後、トキヤはそう切り出す。レイカはトキヤの意図が掴めずに目を白黒とさせていたが、トキヤに二の句を告げる気がないことを感じ取ると、渋々といった様子で答えた。
「どうって、さっきのあの光のことでしょう? ランプの光に反応したんだってことはわかったけれど、どうしてそんな反応が起こったのかはわからないわ。原理も何もかも」
「なるほど。フウカさんはどうですか?」
フウカのほうは困惑はしているものの、不思議と姉よりも冷静だった。
トキヤの言葉に無言でうなずく。どうやら「姉と同意見」ということらしかった。
「……つまりあなたがたは、今起こった現象を説明する論理をお持ちではない。そういうことですね?」
二人して頷く。段々とトキヤが言わんとしていることに察しがついてきたのか、姉妹の顔つきからは徐々に困惑の色合いが薄れつつある。しかし、それも次のトキヤの言葉を聞き終えるまでであった。
「よくわかりました。ありがとう。あまり長居しても都合が悪いのでかいつまんで説明をしますが、これが怪異というものです。お二方。厳密にいえばこの本が示した反応にも、あなた方がこの本に感じた違和感や不快感にも等しく論理は存在します。ですがそれは、あなた方が持っている尋常の論理で測り知れるものではありません。だから今はその尋常ではない論理を理解しようとなさらないことをお勧めします。ただ、これがあなた方の及びつかぬ怪異である、ということだけは理解してください。そういうものが存在すると信じていただけるだけで結構。目の前で起きた現象を否定しないでくださいね」
自分の意見を持っている者を説き付けるのには相応の労力が要る。近道を考えるだけ無駄だ。
すぐにでも説得する手段がないのなら、あとの労力を減らすためにも相手の論理にくさびを打ち込んでおくのが妥当だろう。そう考えた末の、やや強引な台詞だった。
「こ、これが怪異……?」
案の定、レイカは揺さぶりをかけれて動揺している。無論、彼女も簡単に怪異の存在を認める気はないだろう。しかし実際的な問題として、彼女には目の前の事象を自分の持つ論理で説明することができない。説明できなくても自分の意見を守るために虚勢を張ることはできるが、今となってはそれすら不可能だ。なにせ先に「自分には理解できない」と口にしてしまっているのだから。
「それじゃあ、フウカの言う―― 例の怪異も、その本が関係して……?」
気の強い彼女には珍しく、言葉の歯切れが悪い。
トキヤはバツの悪さを隠すために再び表情を引き締めた。
「いいえ。ボクはそう考えてはいません」
「じゃあ―― どういうことなの。私にはもうさっぱり。わけがわからないわ」
降参、とばかりに諸手を挙げてかぶりを振るレイカ。フウカはただ不安そうにそんな姉とトキヤを交互に見つめている。
「今ここで詳しく説明して差し上げることができないのは、ご勘弁いただきたく思います。少々事情が変わりました。この場所の探索は早めに切り上げたほうが良いかもしれません」
「……どういうこと?」
レイカの瞳に鋭さが戻った。トキヤは一度頷いて見せる。
「レイカさんの言うとおり、ボクはいささか疑り深い。ですから杞憂で済めばそれに越したことはないのですが、あまり時間をかけすぎると不穏なことに巻き込まれかねない。説明義務は負います。ですがそれも全部後回しです。ここは黙ってボクに任せてはくれませんか」
トキヤの言葉はハッタリではない。
それはこの屋敷についてからというもの、トキヤの中で徐々に膨れ上がりつつあった「予感」であった。杞憂で済めばそれでいいが、なまじ魔術がかかわっていることが確実となってしまったために、警戒を強める必要性は飛躍的に上がってしまった。
魔術―― ひいてはそれを扱う魔術師たち。彼らは危険だ。
全員が全員悪意を持っているとは言わない。しかし、魔術はそもそも『理不尽』を巻き起こす邪法であるからして、それを志す者が尋常な精神を持っていることは非常に稀である。
本にかけられた魔術の使い手がショウダイ・マミヤであり、彼が魔術師だったとした場合、事態はさらに深刻さの度合いを増す。
ショウダイが魔術師で、その彼が何かを隠しており、死んだ。他殺の可能性もある。それと彼が死ぬまでの不自然な行動。極めつけの遺品である時計に浮かび上がった文字列。
――ショウダイは自分の死命を察し、誰かに秘密を託したかったのではないか――
そんな仮説が容易に脳裏をよぎる。
とんでもないことになってしまった、とトキヤは思う。
魔術師の秘密。それがどれだけ危険な可能性を秘めているのか、彼にも測り知ることはできない。しかもその秘密を第三者が欲しているか、あるいは破棄しようとしているか―― いずれにしろ害意を持った何者かがショウダイを手にかけた可能性も無視できない。現状何も起ってはいないが、このまま時間が経てば血縁者である姉妹が何事かに巻き込まれる確率もゼロではないだろう。




