魔術師たちの昏き憧憬#16
「――ッ!?」
ランプを掲げたような姿勢のまま硬直する。
それはあまりにも唐突で、目に入りこんできた冷たい光はそのまま怖気となってトキヤの体内を巡る。さながら血液中に氷を放り込まれたのように、体感温度がぐっと下がった。
「――ねぇ、どうしたの?」
チェストボードの下をしきりに覗き込んでいたレイカが顔をあげ、硬直しているトキヤに声をかけた。
「え、あ、あぁ…… 大丈夫です。今そちらに」
その声で背筋を震わせると、トキヤは本から離し難い視線を無理やり引き剥がして踵を返す。
さきほどの姿勢に疲れたのだろう。床にぺたりと尻餅をつくようにして座り込んでいるレイカは、胡乱な様子のトキヤに訝しげな視線を差し向けていた。
「何かあったの?」
「ええ。ですが先にこちらを」
トキヤは手に持ったランプを、慎重にレイカに手渡した。ランプを受け取るレイカは終始何か言いたげに目を細めていたが、結局何も言わずに時計の捜索に戻る。
ランプを手放したトキヤはすぐさま黒い本のもとに取って返すが、すでにあの燐光は失われていた。さきほどの異様な雰囲気は嘘のように掻き消え、周りにごまんと積まれている本の数々と何も変わらないように見える。
恐る恐る手を伸ばして取ってみる。重量にもおかしなところはない。表、裏、背表紙ともに無地で一面の黒。見ているうちにどんどん取るに足らないように思えてくる。しかし一度あの不穏な光を目の当たりにしたトキヤには、そのなんでもないような感じが逆に不自然なもののように思えてきた。
まるでその本が机の上に放置されていることが当然。――いやそうであるべきだ、と自分ではない誰かが頭の中に直接吹きこんできているかのような違和感。次第に薄れていく興味をなんとか意思で繋ぎとめ、表紙を開いた。
「これは……」
中身は何も書かれていない白紙のページが連なっているだけだった。
羊皮紙数百枚以上がただ無暗に白紙のまま綴じられている。トキヤの中の違和感がいよいよ大きく燃え上がり始めた。
本を閉じ、もう一度外側を眺めてみる。表紙の装丁に使われている革は滑らかで手触りが柔らかく、独特の渋い光沢がある。似たような特徴を持つ革のコートを叔父が着ていたことを思い出し、トキヤは本の表紙をノックするようにして叩いた。――手触りは柔らかいが、丈夫だ。
(山羊革か。珍しい)
通常、ゴート・スキンは靴やコートに使われる高級なものだ。容易に立ち入れない高原で暮らす山羊の皮はキメが荒く通気性に優れ、丈夫で長持ちをする。シュトに於いても高級服飾店で売られているのを見かけることはあるが、そもそも特異な気候の問題で革製品は好まれない傾向にある。丸洗いができず、手入れにも手間がかかるからだ。
本来の用途である服や靴でもなかなか見かけないというのに、本の装丁に使われているとなるとなおさら珍しい。すくなくともトキヤは初めて目にしたものだ。おそらくは特注の類だろう。
(わざわざこんなものを作ったということは――)
「あ、あったあった。手こずらせてくれたわね……」
思考に耽るトキヤの背後でレイカの声が上がった。時計を見つけたようだ。
もは体裁など気にも留めず、豪快に身をかがめてなんとか時計を救い上げたレイカは、自ら舞い上げた埃に噎せこみながら、フウカを伴って立ち尽くすトキヤの元へと歩み寄ってきた。
「時計は見つけたわ」
「……おっと、ご苦労様です。結局任せてしまって」
「いいわよ別に。何もしないでいられる性分でもないし。……で、何を見ているの?」
「これですよ」
トキヤは手に持った本をレイカに見えるように掲げてみせた。彼女の表情が訝りから呆れへと変わる。
「なぁにそれ。普通の本じゃない。それがどうかしたの?」
「ちょっと気になったものですから」
「そんなものはいいから、他に何か手掛かりがあるかどうか調べてみてくれない?」
「……ふむ」
やはりおかしい。トキヤは顎を指で撫で、レイカの瞳を見据えた。
変化はない。彼女自身におかしなところは見受けられない。――だとするならば。
トキヤは姉妹を順繰りに見つめ、質問を口にした。
「この本ですが、ここに来た当初からこのデスクの上に置いてありましたか? お二人は覚えておられます?」
姉妹からしてみればどうしてトキヤがなんの変哲もない本にこだわっているのかわからないのだろう。二人して顔を見合わせた後、ほとんど同じタイミングで首をひねった。ただしトキヤに再び向けられた顔に浮かんだ表情はまったく違っている。
「知らないわ。……どうでもいいじゃない、そんな本」
レイカは憮然とした声音でそう返す。
「あの、えっと…… ごめんなさい。どうしても思い出せません。それだけ。……です」
フウカは視線があちらこちらへと泳ぎ、自分でもその本の存在を覚えていなかったことに困惑している様子だった。――それどころか、その本の存在をトキヤに言われて初めて感知した、と言わんばかりだ。
レイカはともかく、記憶力の良いフウカでさえ本の存在すら気にも留めていなかったことは不自然だ。簡単に目に入る場所に置いてあったのだから、たまたま目に入らなかった、というのもおかしな話である。
(……認識阻害の類の魔術か? 初めて見るが)
ともあれ、さきほどの青い燐光といい、今手にしている本に何らかの仕掛けが施されているのは確実だ。そう考えたトキヤは床に置き去りにされたままだったランプを取り上げ、消された炎をもう一度灯す。
「何をする気?」
「まぁまぁ。少しお待ちください」
トキヤはランプを書き物机の上に置き、それに本の表拍子を翳すようにして近づけた。
途端、革のごわごわとした表面の凹凸を、まるで血管に血が行き渡るように青い光の筋が走り始め、輝きの度合いを増してゆく。拡散してランプの光すら呑み込んでいた光は、やがてまとまりのあるものに変化する。トキヤの視界に収まっている裏表紙と背表紙には、光の筋でグロテスクな曲線がいくつも刻まれていった。それにどんな意味があるのかはまったくもってわからない。




