第7話
冴子はさっさと帰り支度を済ませ、弁護士とともに横山法律事務所を後にした。タクシーの窓越しに流れる前橋の街並みを眺めながら、先ほどの相続人会議を思い返していると、隣に座る弁護士が口を開いた。
「想像していたよりもスムーズに話がまとまりましたね。長女の葵さんが異議を唱えるかと思いましたが……あのように突然笑い出したのは少々不気味でした。とはいえ、手続きは円満に進めてまいりますので、ご安心ください」
弁護士の慎重な口ぶりに、冴子はふっと小さく笑った。
「あれが……私が庄吉さんとの間に子供を作らなかった理由ですわ。娘を見ればお分かりでしょう? 松浦家の血というのは面白いものですね。男は鬱に悩まされ、女は発狂することが多いようですわ。庄吉さんも例外ではなく、時折ふさぎ込んでいましたもの」
冴子の声には独特の冷ややかな響きが宿っていた。弁護士は苦笑しつつ、その件には一切触れず、
「現状では、これが最善の形かと思います。お疲れさまでした」
それだけ告げると、口を噤んだ。
「庄吉さんが遺言を作るとき、私も少し意見を申し上げましたわ。会社の未来を考えるなら、情に流されず冷静に判断すべきだとね」
冴子は冷ややかに言い切ると、再び窓の外へ視線を逸らした。
──葵さんには利益だけ渡せばいいのです。経営に関わらせてはいけません──
あの時の庄吉の苦しそうな顔を今でも覚えている。だが、最終的には冴子の意見を受け入れたのだ。その結果、庄吉は土壇場の判断で経営を分割せず、豊に一任する形で遺言を残した。その事実が、冴子に確かな勝利をもたらした。
二十年前、庄吉の最初の妻、珠代が亡くなったとき、葵はちょうど高校生という難しい年頃に差しかかっていた。そこへ若い後妻としてやって来た冴子を受け入れるはずもなく、反抗を繰り返した結果、二人の間には埋めがたい溝ができた。庄吉も二人の仲を取り持つことを諦め、大学まで葵を面倒見たものの、卒業後も定職に就かない中途半端な娘を、最終的には自分の建設会社に押し込んだ。
──親離れできない娘と、子離れできない父親──
庄吉の最大の弱点が葵であることを、冴子は誰よりもよく知っていた。そしてなにより、葵は珠代の面影をしっかりと受け継いでいたのだ。同じ大きな瞳、厚い唇、華やかな容貌──すべてが珠代そのものだった。
その事実に、長年言いようのない感情を冴子は抱えてきた。どれほど努力しても、すでにこの世にいない相手に勝つことはできない。
亡き妻を想って時折ふさぎ込む庄吉を見るたびに、冴子の胸にはどうしようもない憎悪が渦巻いた。珠代は、冴子にとって決して越えることができない相手だった。
そんな珠代に瓜二つの葵は、冴子にとって最初から目障りな存在でしかない。しかも、あれほど我儘な娘であれば、冷たく接しても誰にも咎められることもなく、むしろ当然のように冴子の態度は周囲に受け入れられた。
──それにしても薄気味悪かったわね、あの子──
庄吉との約束と遺言が食い違っていたにもかかわらず、異議を唱えるどころか葵は突然笑い出した。その不可解な高笑いを思い返しながら、冴子はわずかに眉を顰める。まるで、何かに取り憑かれているようだった。
「……何を考えているのか、さっぱりわからない子ね。まあ、いいわ」
そう呟くと、冴子は弁護士の方に向き直った。
「赤城山麓の山荘はできるだけ早く売却します。それと、今の前橋の家も落ち着いたら売るか賃貸にするか、あとでじっくり考えますわ。女一人で山荘や一戸建ての家など管理できませんもの、ふふ……」
ついに、あの場所を処分する機会が訪れたのだ。心の底からこみ上げる笑いを隠すように、冴子は口元を喪服の袖で覆った。
赤城山麓の山荘は松浦家が代々受け継いできた不動産ではあるが、冴子にとっては山奥にある不便で薄気味悪い古屋敷にすぎない。そんなこともあって、冴子自身、滅多に足を運ぶことはなかった。庄吉もまた、最低限の維持こそしていたが、それ以上の手入れをすることはなく、ほぼ放置されているようなものだった。
──あの幽霊屋敷も、ようやく片がつく──
冴子は目を細め、長年抱えてきた〝珠代〟への執着を、自らの手で断ち切ったのだと静かに噛みしめた。




