第6話
葬儀から三週間近くが過ぎ、会社も周囲もようやく落ち着きを取り戻しつつあった。だが、その空気とは裏腹に、哲郎の胸中のざわめきは日に日に強まっていく。
相変わらず、朝早く家を出る哲郎を見送ることはなかったが、それでも葵は七時半には起き、九時には出勤するようになった。これが本来あるべき姿なのだろう。
──父親の死を機に、心を入れ替えたのだろうか?
だが、長年午後出勤を常としてきた葵を知る哲郎には、その変化がどうにも引っかかった。それに、時折ふとした瞬間、彼女の瞳に沈むような暗い影が揺らめく。
葵の変化は仕事への姿勢だけではなかった。
週末、葵は突然「映画を観に行こう」と言い出した。今までの葵なら考えられない誘いだった。春の陽光の下、久々に夫婦で外出したものの、葵の服装はファッション誌から抜け出したように洗練されていて、何よりその仕草に以前とは違う色香が漂っていた。
スクリーンの明かりが彼女の横顔を照らすたび、哲郎の胸にかすかなざわめきが走る。上映時間の二時間半、内容はほとんど頭に入らなかった。
映画館を出て並んで歩いていると、葵がまるで思い出したように口を開く。
「いよいよ、明後日ね」
「……相続人会議のことか?」
哲郎は葵にゆっくりと視線を向けると、ぽつりと返した。明後日の月曜日に行われる相続人会議で、庄吉の遺言状が開封される。
「哲郎も楽しみにしてたでしょう?」
「楽しみ? いや、俺はむしろ緊張している……」
「あはは、なんで哲郎が緊張するのよ」
葵は可笑しそうに笑い声を上げたが、その無邪気さがかえって哲郎を不安にさせる。
──本当に前々から葵が言うように、庄吉は生前に会社の権利を二分したのだろうか?
確かに最近の葵は仕事に前向きに取り組んでいる。だが、もし本当に心を改めるつもりだったのなら、なぜ父親が生きているうちにそうしなかったのか。
──いや、そもそもなぜ、葵はこんなに自信満々なのか──
そんな思いが哲郎の胸の奥をゆっくりと侵食する。
ふと気づけば、街ゆく人々の視線が葵に向けられていた。葵もそれを意識しているらしく、まるで愉しむかのように微笑む。相手からの視線の意味を理解し、意図的に受け入れる妻を見るたびに、哲郎は複雑な気持ちになった。
「ふふふ、私は楽しみだわ。明後日の親族会」
葵は頬をほんのり染めながら小さく笑った。哲郎の苦悩など微塵も察していない。まるで、何かのゲームでも始まるかのような素振りだ。
──まさか何かを企んでいるのではないか?
その笑い声が耳に残り、哲郎はふと不吉な気配を感じた。会社の半分を手にしたあと、自由気ままな生活を求めて離婚を切り出すつもりではないか。もしそうなれば、哲郎に残るものは何もない。
哲郎の望みは、代々続く松浦建設を受け継ぐことだ。その裏には「己の存在を刻みたい」という、静かな渇望がある。
胸の奥で何かが軋むように歪んだ。
──今まで、何のために葵本位で人生を送ってきたのか!
心の中でそう叫ぶと、哲郎の目にギラリと底光りするものが宿った。
***
葬儀から三週間が経った月曜日の午後三時。松浦庄吉の遺言を巡る相続人会議が静かに幕を開けた。執行者である横山弁護士を筆頭に、会議室の長机には七人が向かい合う。長女の川島葵、長男の松浦豊、そして後妻の松浦冴子。それぞれが弁護士を伴い、横山弁護士事務所の会議室には、重苦しい空気が漂っていた。
全員が席に着くと、横山弁護士は背筋を正し、短い挨拶を述べた。次に封書を持ち上げ、裏面の朱印を確認させると、厳かに開封に取りかかる。
「ただいまより、故人のご遺志をお伝えいたします」
落ち着き払った低い声が室内に響いた。
「私、松浦庄吉は、令和七年三月十日、万が一に備え、財産の分配および松浦建設の承継について定め、ここに遺言する」
横山弁護士は一度息を整えてから、葵と豊へ視線を送る。二人の小さな頷きを確認すると、再び文面へ目を落とした。
「松浦建設の株式およびこれに付随する一切の経営権は、長男の松浦豊に承継させる。ただし、会社の月々の純利益の五割を、長女の川島葵に配当または利益分配金として支払うものとする──」
淡々と読み上げられる庄吉の遺言に、冴子の口元がかすかに緩んだその瞬間、葵の鋭い声が飛ぶ。
「ちょっと待ってください!」
全員の視線が一斉に葵へ向いた。
「……姉さん、まずは親父の遺言を最後まで聞こう」
豊は小さく息をつくと、葵の腕にそっと触れて宥めようとした。だが、その横から冴子が棘を含んだ声で割り込む。
「まあ、今まで午後からしか出勤していなかった葵さんですもの。豊さんに会社を任せて、利益だけ半分受け取るのが合理的ではなくて?」
「冴子さんは黙ってくださる? 後妻の立場で、この話に口を出す必要があるかしら?」
葵の冷ややかな声が会議室の空気を一気に凍らせた。
「まあ、ずいぶんな言い草ですこと。でも、あなたにそう言われる筋合いはございませんわよ」
冴子は眉をひそめたものの、身じろぐことなく静かに微笑みながら応じてみせた。
「お取り込みのところ失礼しますが、続きを読み上げます」
横山弁護士は軽く咳ばらいをすると、静かに書類をめくり、続きを読み上げた。
「前橋市に所在する一戸建て、及び赤城山麓の山荘は、妻である松浦冴子に相続させる。なお、当該不動産の売却または賃貸等の処分については、相続人である冴子の自由とする」
冴子は目を伏せ、しばらく沈黙した後、ゆっくりと頷いた。横山弁護士はそんな冴子の仕草を一瞥すると、次の文を読み上げる。
「故松浦庄吉の預金口座に残る全ての資産および保険金等の金融資産についても、妻である松浦冴子に相続させるものとする。これに関しては、相続人の承認を必要とせず、管理・処分については冴子の自由とする」
横山弁護士の低い声が淡々と続いていく。会議室は水を打ったように静まり返り、誰もが一語一句聞き逃すまいと耳を澄ませている中、葵だけは退屈そうに腕を組み、壁の一点をぼんやりと見つめていた。
「前橋市に所在する土地及び建物で、現在企業に貸し出しているものについては長女の川島葵に、また高崎市に所在する土地及び建物で、現在企業に貸し出しているものについては長男の松浦豊に、それぞれ相続させる。さらに、高崎市に所在する貸家は、妻である松浦冴子に相続させる。なお、これらの不動産の売却または賃貸等の処分については、各相続人の自由とする」
「お父さん、高崎に貸家なんてあったの?」
葵が訝しげに豊の方を見ると、豊は無言のまま頷いた。
「へぇ、そうだったんだ」
どこか白けたような葵の言葉に、冴子は口を開きかけたが、隣に座る弁護士が手で制する。冴子は唇をきつく結んだまま椅子の背にもたれた。
横山弁護士はそれぞれを確認するように一瞥すると、何事もなかったかのように残りの遺言書を読み上げる。
「その他の遺産については共同相続財産とし、相続人全員で協議の上、分割すること。なお、相続税については各相続人が自己の負担で支払うものとする。最後に──姉弟は仲良く協力し、義母を敬い、互いに助け合っていくことを心から望む──以上が、故松浦庄吉の遺言です。内容をご確認ください」
書面が葵のもとから順に回され、紙をめくる音だけが張り詰めた会議室に響く。
「異議はございません」
最初に口を開いたのは冴子だった。
「私は庄吉さんの意思を尊重し、会社には関与いたしません。豊さん、どうか三代目として、松浦建設をしっかりと導いてくださいませ。よろしくお願いいたします」
冴子が満足げに微笑むと、彼女の弁護士が補足する。
「冴子様は遺言に従い、会社経営に関与しない意向を明確にされています。この点について、他の相続人の方の異議がないか、確認をお願いします」
「問題ございません。松浦建設は、私が責任をもって運営いたします」
豊は丁寧に頭を下げた。彼の弁護士もまた、円滑な手続きを強調する。
「豊様は、法的に適切な相続を望んでおられます。相続財産の管理についても、今後一切の法的責任を果たしながら進めてまいります」
横山弁護士は深く頷き、次に葵に視線を向ける。
「葵様はいかがですか。お父様の遺志に、異議はございませんね」
異論を許さぬような圧を含んだ確認だった。冴子と豊はすでに庄吉の生前の決断を受け入れている。ここで葵が同意すれば、手続きは滞りなく進む。特に会社に関わる問題は迅速な対応が求められる。
沈黙が落ち、葵の弁護士が小声でそっと促す。
「葵様、お父様のご意思を尊重なさっては」
「私は……」
全員の視線が葵へ集中する。その注目を楽しむように、葵は妖しく目を光らせ、ゆっくりと言葉を続ける。
「私は……異議などありませんわ」
一瞬、ほっとした空気が流れた。
だが次の瞬間、その和らいだ空気を打ち砕くように、葵の甲高い笑い声が会議室を切り裂く。
「あははは、傑作だわ!」
その狂気じみた笑い声に、その場にいる誰もが呆然とする中、ただ冴子だけが冷ややかな軽蔑の眼差しを浮かべ、じっと葵を見返していた。
***
横山弁護士事務所の待合室で、哲郎と静香は手持ち無沙汰に時間を潰していた。
突然、会議室の奥から──あの、不自然なほど明るい、葵の笑い声が漏れ聞こえてきた。哲郎は反射的にソファから立ち上がる。
──葵のやつ、今度は何を……!
胸の奥に、ぞわりと冷たいものが這い上がる。ここ数日、葵に対して抱いていた得体の知れない不安が、いっそう輪郭を帯びて迫ってくる。
「……哲郎さん」
今まで貝のように口を閉ざしていた静香が、ふと名前を呼んだ。振り返ると、静香は清楚な顔立ちに緊張の色を浮かべている。だが、その目はどこか鋭い。まるで、何か言うべきかどうか迷っている者の目だった。
「葵さん、最近……ちょっと様子が変じゃありませんか?」
その問いかけに、哲郎の胸がわずかに跳ねた。
やはり他人から見ても最近の葵はそう映るのだろう。思い過ごしではない。哲郎は短く息をつき、ゆっくり頷いた。
「庄吉さんが亡くなって、精神的に不安定になってるんだ。無理もないさ」
取り繕うように言いながらソファへ腰を下ろしたが、静香は納得していない。むしろ、探るように哲郎の横顔を見つめている。
「……お義父さんが亡くなった時、涙ひとつ見せなかったのに?」
皮肉めいた一言に、哲郎は口を閉ざした。
そんな哲郎の動揺を見抜いたように、静香は薄く笑みを浮かべると、さらりと話題を切り替えた。
「冴子さんから聞きました。どうやら会社は分割させないようです」
「……え?」
哲郎の視線が静香に吸い寄せられた。
「ええ。豊が会社の全権を握ることになるようです」
その瞬間、哲郎は息を呑んだ。
──やっぱり、そう来たか……!
頭では理解していたつもりだった。
だが、現実として突き付けられると、体の奥底が急速に冷えていく。
第一に、会社の経営を分割するなど危険そのものだ。庄吉が倒れたあと、豊が社長代理として動いていたのは事実で、会社の混乱を防ぐ意味でも、この決定は哲郎の予想の範囲内だった。だが、それでも葵の言葉を長年信じていた自分がいた。
──だから、誠意を見せておけと言ったんだ!
最終的にすべての経営権を握るのは長男の豊。葵や哲郎が会社に不要だと判断されれば容赦なく切り捨てられる。豊にしてみれば、葵に利益の半分を毎月渡すだけで済むのだ。
結局、哲郎自身は〝不要な外野〟に過ぎないのか。胸の奥にふつふつと焦燥が膨れ上がる。
「……そうか……」
哲郎は無意識に唇を噛みしめていた。掠れた声が、待合室の静けさに沈み込む。松浦家が代を重ねて積み上げた重みを、哲郎は血の繋がらない自分こそが欲しているのだと痛感した。
視線を落としたままの哲郎を、静香は黙って見つめていた。やがて小さく息を吸い込み、覚悟を滲ませた声で切り出す。
「哲郎さん」
その呼びかけに、哲郎は顔を上げた。静香の瞳に浮かんだ切迫した光が、はっきりと目に入る。その瞬間、胸の奥を、理由のわからないざわめきが撫でた。
「私……あなたに、伝えなければならない大事なことがあるんです」
その先を聞く前に、会議室の扉が開いた。
「お待たせしましたわ」
冴子が弁護士を連れて現れ、場の空気は一気に引き戻された。満足げなその様子から、相続人会議がすべて冴子の思惑どおりに終わったことは明らかだった。
「お二人は横山弁護士とまだお話し中のようですけれど、私たちはこれで失礼しますわ」
冴子はどこか勝ち誇ったように微笑み、弁護士を従えて優雅に事務所を出ていった。
静かになった待合室に、ソファの軋む音だけが残る。哲郎はしばらく冴子の背中を見つめていたが、やがてゆっくりと視線を静香へ戻すと、先ほどの言葉を思い返した。
「……さっき、何を言いかけたんだ?」
問いかけられた静香の肩が細かく震えた。そんな彼女の仕草が、かえって哲郎の胸中の不安を膨らませる。
静香はすぐには答えず、俯いたまま指先をぎゅっと絡めると、小さく首を横に振った。
「……また改めて」
言葉を濁しながら視線を逸らし、そっとソファから立ち上がった。だが、その横顔はどこか強い決意を秘めている。
哲郎は小さな不安が胸をかすめるのを感じながらも、重い身体を引きずるように立ち上がると、無言のまま静香の後に続いた。




