007 知者は恋に陥ることなく、また、恋は神与のものではない。(前編)
――まるで馬車馬になった気分だ。
資材や道具を積み込んだ荷車を牽引しながら、アーネストはそんなことを思った。
空は青く澄み渡り、容赦のない陽射しが浴びせられる。晴天下、汗をあごから垂れ流しながら、彼は必死で体を動かしていた。
「――おせぇぞ、アーニィ」
ようやく目的地までたどり着いたと同時に、アーネストの愛称を呼ぶ粗野な声が響いた。
重いため息のようなものを吐き出しながら、そちらのほうに視線を向けると――四十代半ばの、筋骨隆々のいかついオヤジが腕組みをして立っていた。
「……す……すみ、ません……」
「ったく、おめーは軟弱すぎるんだよ」
こっちはまだ十五にもなっていない子供なんだよ! もっと与える仕事も手加減してくれよ!
……などと思ったが、アーネストは言葉には出さなかった。自分は彼のおかげで働かせてもらって、給金を貰っているのだから。口ごたえしようものなら、ぶん殴られて故郷の村に送り返されるのが目に見えていた。
――こんなに大変なら、街に出稼ぎに来るんじゃなかった。
心中で、そんな後悔が湧き上がる。
すべての発端は、村で農作業を手伝いつづけることに飽き飽きして、家族にそのことを口上してからだった。
――そんなにここの暮らしがいやなら、街で働いてみな。
意外なことに、母親はそんな言葉を口にした。
どうやら母方の親戚の一人が、街のほうで大工の棟梁をやっているらしい。そこにお前を紹介してやるから村から出ていきな、とアーネストは言われたのだった。
辺鄙な田舎を抜け出して、洗練された都市で生活ができるなんて――最高じゃないか!
……と、アーネストは純粋に思い、じゃあ出て行ってやると啖呵を切ってしまった。
そして――今に至るというわけである。
「それでよ、アーニィ」
「はい……」
「おまえ、もっかい倉庫まで行って木材と釘を持ってこい」
「えぇー!?」
「文句言うな。おめーができることなんて、単純な肉体労働だけだろうがよ」
ぐっ、とアーネストは反論できず押し黙った。
ちらりと目を工事現場のほうへ向けると、同じ労働者の男たちが施工作業をしていた。みんな自分よりも年上ばかりで、新人など一人もいない。技術も知識もない子供に、どの仕事を割り当てるかを考えれば――こうなるのは必然であった。
「ライオネルさん」
「あァん?」
「この建物……あと、どれくらいで完成するんですか?」
「早くて……一か月半だな。公社の社屋だから手は抜けねぇんだよ」
そ、そんなに……とアーネストは暗澹たる気持ちになった。
紹介で仕事に就かせてもらった手前、最低でも仕事に一区切りがつくくらいまでは続けなければならないだろう。だとするならば、この過酷な肉体労働から一か月半は逃れられないわけである。そう考えると、途端にのどかでつまらない故郷が恋しく思えてしまった。
「おらおら、ぼさっとしてんな。積み荷を降ろしたら、またひとっ走り往復してこい!」
「は……はい……」
――街になんて来るんじゃなかった。
肉体労働者の現実を思い知り、アーネストはそんなことを痛感しながら汗水にまみれるのであった。
◇
「つーかーれーたー!」
下宿先のライオネルの家の四階、つまり屋根裏部屋の隅っこに置かれたベッドに体を横たわらせながら、アーネストは幼い子供のような声を上げた。
そんな彼のすぐ近くで、タンスを漁っていた青年がどこか同情の色を含んだ目を向ける。
「……今日も父さんに使い走りにされたのか?」
「そう! オレを馬か何かだと思ってるよ、あの人! 雑用ばっかで本当にもう……」
「ははっ……。まあ、俺も仕事を始めた当初は雑事ばっかりだったけどな」
「……細工師でもそうなの?」
アーネストは不思議に思って、彼を見つめて尋ねた。
ライオネルの息子のエリック。彼は大工とは対極のような仕事に就いていた。一日中、工房内に引きこもって金属を加工する銀細工職人である。なんでも十歳のころに弟子入りをして、すでに十年の経験を積んできたんだとか。
農村出身のアーネストにとっては、細工師は未知の職業である。それゆえに、暇さえあればエリックに話を聞かせてもらっていた。気さくな性格の彼は、アーネストに兄弟のように接してくれる好青年だった。
「最初はほとんど従僕みたいなもんだったな。師匠の家も平民にしちゃあデカい屋敷だったから、本当に使用人になったような気分だった。まともに細工について教えてもらったのは、一年以上も経ってからだったな」
「へえぇ……。でも、使用人ってアレでしょ? 掃除とか片付けとかしたり……。炎天下で資材運びするよりは楽そうだけど」
「いやぁ……そうでもないさ。家主や先輩方のご機嫌取りをしなきゃいけなくて、意外と疲れるのさ」
「オレだって、ライオネルさんのご機嫌にいっつもビクビクしてるけどね……!」
そう言うと、エリックは苦笑をこぼした。新人にとって親方が恐ろしい存在なのは、どこでも変わらないようである。
「――そういえば、エリックさん。何か探し物なの?」
引き出しを開けて書類のようなものを漁っている彼に、なんとなしに尋ねる。
この屋根裏部屋は、もともと一家が倉庫のように扱っている場所だった。棚やチェストがスペースの大半を占め、採光窓の近くに古びたベッドがあるだけ。居候なだけに文句は口にできないが、はっきり言って生活環境は劣悪であった。
アーネストの質問に、エリックは紙束を手に取りながら答える。
「以前に、師匠から頂いた技術書を再確認しようと思ってな」
「ふぅん? なんで?」
「ちょっと新しいことに手を出したいんだ」
「新しいこと?」
「装飾品……指輪とか、ペンダントとか、そういうのも作りたいんだよ。いい加減、銀食器を加工するのは飽き飽きなんでな」
話によるとどうやら、銀細工師というのは食器類の加工がメインの生業らしい。貴族や金持ちは銀食器を使いたがるので、それがいちばん儲かるのだとか。
宝飾品を作るのもなくはないが、そう頻繁に依頼が来るわけではないので、今まであまり手をつけてこなかったのだとエリックは語った。
「アクセサリーかぁ。エリックさんは、どんなの作ったりしたいの?」
「……そうだな。俺はまだ未熟だから、複雑なのには手を出すべきじゃない。だから……ペンダントとかが妥当か」
「ペンダント?」
「ああ。できるだけ簡素で、銀の使用量を少なくして、それでもちょっとシャレた感じにして……貴族じゃない庶民でも着飾れるようなものがいいな」
「いいね! 贈り物とかに良さそうだし」
村でも装飾品というもの自体はあったが、だいたい家庭で手作りするような代物ばかりである。都市の職人が制作する洗練されたアクセサリーというのは、新鮮で惹かれるものがあった。
たとえば――女の子に贈ったりするのには、打ってつけかもしれない。
……まあ、自分にはプレゼントする恋人なんていないんだけど。アーネストはそんなことを思い、ちょっと虚しくなってしまった。
「……っと、そろそろ日が沈むな。下にいこうぜ、アーネスト。夕飯の時間だ」
「あ……うん! オレも腹へった」
「たらふく食うといいさ。豆だけは大量にあるからな」
「えー……今日も豆のスープ? 飽きたよ……」
「俺もまったく同感だ」
――そんな言葉を交わしながら、二人で屋根裏部屋から下りていく。
なんだかんだで、アーネストはこの街の、この家での生活に慣れつつあった。
そうして、仕事と寝食の繰り返しを続けていれば、自然と日は経つもので――
一週間の終わりも、当然ながらやってくるのであった。
◇
――安息日なるものを根付かせた賢人は、すべての労働者にとって讃えるべき存在であろう。
窓から差し込む朝の日差しをぼんやりと見つめながら、アーネストはそう心から感じた。
いつもだったらすぐに起き上がり、仕事に出る支度をしなくてはならないが――
幸いなことに今日は週末、すなわち休日である。
週に一度、とくに労働者は一日安息なる時間を過ごすべし。どこぞの偉い書物にはそう書かれているらしく、そしてこの国に住まう人々にはその意識が一般化していた。
「ふわぁ……」
あくびを声に出しながら、アーネストはゆっくりと上体を起こす。
――今日はどうやって過ごそうか。
この前みたいに、街をぶらぶらと歩いてもいいかもしれない。のどかな村で生まれ育った自分にとっては、ただ都市を散策しているだけでも楽しいのだ。世界は、未知と発見にあふれていた。
「んー」
しばらくぼうっと過ごしたのち、アーネストはベッドからようやく降りた。
そのまま、階段を伝って下へ行く。
一階にたどり着くと、一枚の紙を眺めながら食事をするライオネルの姿があった。どうやら新聞を読んでいるようだ。
アーネストにはあまり馴染みがないのだが、ある程度の規模の都市部では一枚刷りの新聞が週に数回発行され、住民にも広く読まれていた。意外なことに、ライオネルはこういった読み物をかなり好んでいるようだ。……あんな見た目なのに。
「おい、なに突っ立ってんだ。アーニィ」
内心を見透かしたように、こちらを睨んでくるライオネル。あわてて足を動かし、アーネストはテーブルの席についた。
自分が起きてくることを見越してか、すでに卓上にはスープとパンが置かれている。台所で片づけ作業をしている女性――ライオネルの妻に顔を向けて、アーネストは声をかけた。
「叔母さん、いただきます」
「はいよ。ゆっくり食べなさいね」
気さくな返答をもらったアーネストは、パンを手に取ると――そのままスープの中に入れた。庶民が口にするパンはだいたいカッチコチなので、こうしてふやかさないと食べれないのだ。この辺は田舎も都市も変わりがなかった。
黙々と朝食を取っていると、ふいにライオネルが手にしていた新聞を放った。どうやら読みおわったらしい。
「アーニィ」
「はい」
「おめぇ、どうせ今日は暇だろ?」
「……まあ、そうですね」
街に来たばっかりで友達どころか知り合いもほとんどいないので、誰かと何かをする予定といったものは当然なかった。だから暇だと答えるしかない。
ライオネルはニィっと笑うと、身を乗り出してこちらに顔を近づけてきた。
「メシ食ったら、俺と付き合いな。イイトコロに連れてってやるぜ」
「い……いいところ?」
「おうよ。お前が行ったことねぇ場所だ」
この街には、まだまだ行ったことのないところが山のようにある。
その中でも、ライオネルが連れていきたがるような場所はどこだろうか。――考えても、なかなか思いつかなかった。
「……どこですか、それ」
訝しげに尋ねるアーネストに対して、ライオネルは楽しそうな顔を浮かべて口にした。
「――酒場だよ、酒場!」
◇
――はたして大人は、どうして酒というものが好きなのだろうか。
祭事だったり祝い事の席でアルコール飲料が出されるのは、田舎でも共通である。だからアーネストも酒を口にしたことがあった。
……あまりのマズさに、こんなモノを飲む人が信じられない、と思ってしまったのだが。
最初で最後の飲酒したのは、十歳を過ぎたくらいの時だったろうか。新年の祝いの場でちょっと飲んでみたのだが、とにかく苦い感じが嫌だった記憶が残っている。
もしかしたら安酒だから味が悪かったのかもしれないが、とにかくその時のイメージが強烈すぎて、アーネストは酒にまったく良いイメージを持っていなかった。
「――おう、どうした。遠慮せず飲みな、アーニィ!」
「…………」
酒場のテーブル席。
がははと笑って酒を飲むライオネルに対して、アーネストは引き攣った表情で目の前のグラスを見つめていた。
――紫色の液体からは、ぶどうの香りが漂っている。ピケットとは違った、ちゃんとしたワインなのだろう。悪い酒ではないのだと思うが、いまいち美味しそうには思えなかった。
「……い、いただきます」
とはいえ、奢ってもらった手前、口をつけないわけにもいくまい。
アーネストはおそるおそる、グラスを持ち上げて――液体を少し口内に流し込んだ。
ぶどうの味と、そしてアルコール特有の苦味が広がる。
……飲めなくはなかった。歳を取って味覚が変化したからか、あるいはこの酒の質によるものか。いずれにせよ、飲もうと思えば飲むことはできる代物だった。
――まあ、おいしいとは思わないのだが。
「どうだ? うまいか?」
「……ぶどうのジュースのほうが絶対においしいと思うんですけど」
「だっはっは! やっぱ子供だな! おめぇも大人になったら、この味の良さがわかるってもんよ」
そんな言葉を返すライオネルに懐疑的な視線を送りながら、アーネストはまた少しだけワインをすすった。苦味のあるそれは、やっぱりおいしくない。
きっと自分は酒飲みになることはないだろうな――
そんなことを、ひそかに胸の内で思った時だった。
酒場のドアが開き、新しい客の足音がかすかに響く。
アーネストは、ちらりとそちらのほうを見やり――
そして、びくりと驚いてしまった。
「…………」
凝視すると、その人物の容姿がすぐに目に焼き付く。
――女の子だった。
自分よりも少し年下の、おそらく十代前半とおぼしき少女。
髪はめずらしい黒色で、肌は透き通るように白く、繊細で可憐な印象を抱かせる。
顔立ちは息を呑むほど整っていて、とても綺麗だった。そして――どことなく物憂げで儚げな表情が、不思議な魅力を醸している。
――か、かわいい……。
単純化したアーネストの感想は、つまりはそんなところであった。
ふと思い出すのは、故郷で野道に咲く百合の花の光景だった。ありふれた緑の中に佇む、白く可憐な百合。その差異が印象的で、美しいと子供ながらに感じたことが記憶に残っている。
それと同じだった。
この酒場という空間では、彼女の存在は野道に咲く百合のようで――アーネストの心を揺り動かす美しい花だった。
「――おい」
いきなりライオネルの声がして、アーネストはびくっとしてしまった。
「な、なんですか……」
「おまえ、故郷に恋人がいたりするのか?」
「は、はい? いや、いないですけど……」
「ほぉー? じゃあ……」
彼はニヤニヤと笑うと、アーネストの肩をぽんと叩いた。
「――あの女の子に、声かけてみたらどうだ?」
「なんでそうなるんですか!?」
「女をつくるには、そーいう積極性が必要なんだよ。な?」
誰も女をつくりたいなどと言っていないのに、勝手なお節介を焼いてくる。アーネストは呆れ顔をしてしまった。
だいたい、こんな酒場にあんな女の子が飲酒しにくるとは思えない。きっと店の人間の家族が、ちょっとした用事で話を伝えに来た程度なのだろう。
そう、アーネストは予想したのだが――
大いに外れた。
少女はカウンターに座ると、酒を注文したのだ。バーテンダーとのやり取りも、見た感じでは店員と来客のそれでしかなかった。つまり、完全に酒の飲みにきている様子だった。
「いいじゃねぇか、アーニィ。ここいらで女にも慣れておこうぜ? さあ、青春してきな」
「だから、べつにオレは……」
「なんだぁ? 好みじゃないのか、あの子は?」
「い、いや、そんなことはないですけど」
うっかり本音を漏らしてしまった。たしかに、あんな可愛い子と仲良くなれたらなぁ、なんて欲がないことはないが……。
中途半端な態度を取るアーネストに、ライオネルは立ち上がって近寄ると――
「ほぉれ、行ってこい」
「ちょ、ちょっとっ!?」
肩を押されて、椅子から追い出される。
無理やりなやり方にため息をつきながら、抵抗は無意味だとアーネストは悟った。あのオヤジの様子からすると、自分が女の子に声をかけないかぎり満足しないのだろう。
「……ったく」
諦めを抱きながら、カウンター席のほうを見定める。
――少女は静かに腰を下ろし、本を開いていた。
酒場の喧騒とは、まるで無縁の姿だ。彼女は明らかに異質な存在だった。だが、だからこそ――アーネストは惹きつけられるように感じた。
ゆっくり、自然に歩きながら――彼女の横顔を眺める。
優美な顔立ちは、まるで貴族の令嬢のようだった。彼女がドレスをまとったら、きっと誰よりも似合うことだろう。
胸の高鳴りは、ただの声掛けという行為に対する緊張だけではなかったのかもしれない。
「あー……」
近づいて、アーネストは言葉を出そうとした。が、言い出しがうまくいかない。焦った結果、口からこぼれたのは――
「こ……こんにちは……?」
「…………」
――失敗した!
こんなバカみたいな切り出し方があるだろうか。恥ずかしすぎて、アーネストは逃げ去りたい心境だった。
声をかけられた少女は――わずかに眉をひそめながら、こちらを見上げる。
落ち着きはらった、静かで理知的な瞳だった。
その視線を受けて、アーネストは息を呑む。
どんな反応が返ってくるのか、不安に思っていると――
やがて、少女の瑞々しい唇が、ほんのわずかに歪んだ。
笑みかどうか曖昧な、ニヒルな表情だった。
「……ナンパですか?」
「い、いや、その――」
否定しようとして、言いきれなかった。どう考えても、客観的にナンパというやつであろう。
「……まあ、そうなるのかな」
正直に答えると、少女は目を細めてグラスを手に取る。
琥珀色の液体が、わずかに湯気を立てていた。何かの酒を、お湯で割ったものなのだろう。
それに口をつけ、少女は唇を湿らせる。
一連の動作は、ひどく子供らしさが欠けていて――奇妙な違和感があった。
外見は、アーネストより二歳くらい下に見えるが――
そこにいるのは、女の子ではなくて……成熟した大人のように感じられた。
「残念ながら」
それはどこか、子供に言い聞かせるような声で。
「私は、ナンパに付き合うつもりはありません」
「あ……うん……」
「まあ、多少の雑談であれば――やぶさかではありませんが」
意味がわからず、アーネストは困ったように棒立ちする。そんな姿を見かねたのか、少女は隣席を指し示した。
「どうぞ」
「え……? あ……う、うん……」
着席を促されたのだとようやく理解して、アーネストはおそるおそる座った。
どうすればいいのか、困惑していると――
少女は懐から銀貨を取り出し、「少量のミードを、お湯とともに」とバーテンダーに差し出した。
まだ彼女のグラスには酒が残っている。つまり自分が飲むためではなく――アーネストに奢るための注文だと気づいた。
「い、いや悪いよ。オレ……」
「好きではなかったら、飲まなくとも結構ですよ」
淡々と返され、言葉に詰まってしまう。そんなアーネストをよそに、彼女はとめていた本のページをめくった。その表情はいやに冷静で、隣席のいきなり声をかけてきた不審者など、どこ吹く風といった様子である。
あまりに平然とした彼女の対応に、断りを切り出すこともできず――
アーネストは居心地の悪さを抱きながら、店員が新しく自分の前に出した酒のグラスを見つめた。
その色合いは、少女が飲んでいるものと変わらない。彼女が頼む時に、ミードと言っていたのを思い出した。
「――向こうのツレは、親御さんですか」
ふいに少女は、本に目を向けたまま質問を口にした。
「いや、その……親戚、かな。あの人の家に、居候させてもらってるんだ。ちょっと前に、田舎から街に来たばかりで……」
「なるほど」
ページをめくりながら、少女は言葉を続ける。
「出稼ぎで来られたのですか」
「う……うん……。田舎の生活が、つまらなくて……」
「変化に乏しく、新しい刺激が少ないという点においては、あなたの動機には納得する余地がありますね」
持って回った言い方に、アーネストは理解するまでに少し時間を要してしまった。
少女の話し方は、年頃の子供にしてはかなり奇妙だった。落ち着きがありすぎて、相手がずっと年上であるかのように錯覚させられる。
違和感を覚えながらも、アーネストは酒のグラスを手に取った。「……いただきます」と謝意を伝えてから、おそるおそる、液体を口にする。
先ほど飲んだワインと比べると――お湯で割ったそれは、はるかに飲みやすかった。
アルコールが得意ではない自分にとっては、まあまあ飲めると言える。わずかに蜂蜜の風味があり、口の中にいい印象が残っていた。
「きみは……この街に住んでるの?」
「いいえ。隣の……フレオリック卿のお屋敷に、住み込みで生活しています」
「……メイドさん?」
「はい」
肯定とともに、彼女は酒を口にする。自然にアルコールを飲むしぐさから、相当に慣れていることがうかがえた。
「そっかぁ。オレも……妹が、二年前から貴族のお屋敷に奉公しているよ」
――田舎の少女のもっとも有力な仕事先は、一般的に貴族の家の使用人だった。
掃除や洗濯といった雑用ならば、若い女の子でも業務をこなすことができる。大貴族ならば必要な使用人の数も多いため、メイドの募集はそれなりの頻度でおこなわれていた。アーネストの妹も、十一歳からとある貴族の屋敷に勤めつづけている。
同じメイドの話だから気になるのだろうか。視線を本からこちらに動かした少女は、確認するように尋ねた。
「……妹さんは、どちらのお屋敷に?」
「ここらだと有名だから、知っていると思うけど……。アジール家のところだよ」
「…………なるほど」
彼女は目を細め、どこか遠くを見遣るような雰囲気で言う。
「たいへん立派な大貴族だとお聞きしています。妹さんも不自由なく生活なさっていることでしょう」
「そう……なのかな? たまに手紙を送ってくるくらいで、どうしているかオレはわからないけど」
年末年始は使用人もある程度のまとまった休暇が与えられ、村に戻ってきたりするのだが、妹との交流はけっきょくその程度である。手紙も家に送られてくるのは、簡素な文面のものばかりだった。
少し前までは、妹が家族に対して情が浅いのではないかと思っていたが――
ライオネルのもとで出稼ぎ労働をするようになってから、アーネストは考えを改めていた。
新しい環境に放り出されれば、きちんとした手紙をしたためる余裕はなかなかないものだ。そして新生活に慣れれば、今度はそこが自分のホームへと変化してゆく。
離れた故郷のことよりも、目の前の生活にばかり意識が向いてしまうのは、人間にとって当たり前のことだった。
「――きっと、妹さんもあなたやご家族のことを、心の底では恋しく思っているでしょうね」
彼女は確信したようにそう言うと、グラスの酒を呷るように飲み干した。
――同じような年頃だから、そう信じているのだろうか。
アーネストが不思議そうに見つめていると、ふいに彼女は本を閉じた。
そして――どこか物憂げな表情で、荷物をしまいはじめる。
「失礼。用事を思い出したので――私はこれで」
「え、あ――」
急に気が変わった様子の少女に、反応が追いつかない。
どう声をかけたら良いのか困っているうちに――彼女は椅子から降り、店の出入り口へと体を向けてしまった。
いきなりの別れに、アーネストは思わず――
「ま……待ってよ!」
そう、呼びとめてしまった。
足をとめた少女は――ゆっくりとこちらを振り向く。
艶のある黒髪がかすかに揺れ、翳のある瞳がこちらを直視した。
「そ、その……」
端正な美少女の貌に見つめられ、緊張したアーネストはうまく声を出せない。
それでも、なんとか、勇気を振り絞り――
「えっと……オレ、アーネストっていうんだ」
「…………」
「きみの名前は?」
「…………」
少女の表情が、かすかに和らいだ気がした。
思慮するかのようにわずかに眉を寄せたのち、彼女は口を動かし――
「――カレンです」
そう、名乗った。
カレン。
その名の少女は、唇の形を少しだけ変えていた。
それは微笑のようにも、苦笑のようにも、冷笑のようにも見える、どこか不器用で、不慣れで、そして魅力のある笑みだった。
その表情に見惚れているうちに――
彼女はふたたび背中を向け、静かに酒場から去ってゆく。
瞳に焼き付いた、カレンの顔を想起しながら。
――また、彼女に会えたら。
そうアーネストは強く思うのだった。