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机上の空論と嗤われた研究者、異世界の寒村に転生する ~理屈だけで、国を獲ります~  作者: 鉄菊
エンポリア編

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第8話 遠い声ほど よく届く

はじめまして。鉄菊と申します。

本作は「机上の空論」と嗤われ続けた経営学者が、異世界の弱小領地に転生し、誰も知らない”理屈”だけで成り上がっていく物語です。

更新は毎日18時です!

なるべく続けていきます。

よろしければブックマークをお願いします!

城門をくぐった瞬間、世界の音が、まるごと入れ替わった。


 村では、風と、鳥と、たまに響く鍛冶の音くらいしかなかった。だがエンポリアの大通りは、ちがった。荷車の車輪が石畳を軋ませ、呼び売りの声が四方から飛び交い、鶏が羽をばたつかせ、どこかで竪琴が鳴り、値切りの怒鳴り合いが笑いに変わる。匂いも、洪水のようだった。焼けたパン、香辛料、獣脂の蝋燭、汗、川の水、そして――路地の奥から漂う、嗅いだことのない甘い煙。


 ロゴスは、人の波にもまれて、思わず立ち止まった。


(これが、街か……)


 背丈の低い十二の子供にとって、大人たちの腰から下の森を掻き分けて歩くのは、それだけで一苦労だった。肩がぶつかり、荷袋を抱え直す。誰も、こちらを見ない。村では、道で会えば必ず名を呼び合った。ここでは、すれ違う何百人が、誰一人としてロゴスを知らない。


 ――それは、心細いことだった。だが同時に、奇妙に、身軽なことでもあった。


 ここには、ルーメン村の誰も来たことがない。父ダリオも、次兄ガイルも、村長ゲオルグでさえ。つまり、この街の中のことは、村の誰に聞いても、わからない。村じゅうの知恵をかき集めても、この城壁の内側で今日なにが起きているかは、一つも出てこないのだ。


 だとすれば、と、ロゴスは思った。


(知りたいことは、村の外にいる、知らない誰かが持っている)


---


 まず必要なのは、寝床と、腹に入れるものだった。


 握りしめた革袋の中には、村が持たせてくれた銅貨が少しと、銀貨が二枚。母エマが「困ったときのために」と、何度も縫い直したらしい古い袋に入れて、握らせてくれたものだ。多くはない。宿を選び損ねれば、謁見までもたない。


 大通りを一本外れた小路で、ロゴスは、木彫りの跳ね兎を掲げた宿を見つけた。〈跳ね兎亭〉。安っぽいが、こざっぱりしている。中では、腕まくりをした恰幅のいい女将が、樽を転がしていた。


「おや、坊や。一人かい? 迷子なら、衛兵詰所はこの先だよ」


「泊まりたいんだ。いちばん安い部屋で。何日か」


 女将は目を丸くして、それから豪快に笑った。


「へえ、しっかりしてるねえ。あたしはベルタ。屋根裏の隅でよけりゃ、銅貨三枚で三晩。朝のパンと、水はつけてやる。……で、坊やは、どこの子だい。その訛り、この辺のもんじゃないね」


 ベルタは、話し好きだった。銅貨を受け取りながら、聞いてもいないことまで、次から次へと喋った。今年は川の水が多くて荷が遅れていること。北の街道で魔獣が増え、隊商が用心棒代を吊り上げていること。そして――声をひそめて。


「悪いこた言わないよ、坊や。庁舎に用があるなら、気をつけな。あすこの財務官の府は、上に行くほど、耳が遠くなる。下役に幾ら訴えたって、都合の悪い話は、上には一つも届きゃしないんだから」


 ロゴスは、パンをかじる手を止めた。


(――上に行くほど、耳が遠くなる)


 それは、宿の女将の、ただの愚痴だった。だが、村にいたら、絶対に聞けなかった言葉だ。


---


 翌朝、ロゴスは街を歩いた。謁見の手筈が整うまで、時間がある。ならば、この街の"ほんとう"を、自分の足で確かめておきたかった。


 中央広場の市は、まさに人と物と金の渦だった。異国の織物、光る鉱石、見たこともない果実。売り手たちは、それぞれ遠い土地から来ていた。ロゴスは、荷を解いていた一人の隊商の主人に、思いきって話しかけた。ヨナス、と名乗った、日に焼けた若い商人だった。


「南の峠を越えてきた」ヨナスは、頼まれもしないのに語った。「向こうの街じゃ、塩がこっちの半値だ。だがこの街は塩が高い。なぜだと思う? 途中の関所の通行料が、去年の倍になったからさ。誰が決めた? 財務府だよ。理由は、"街道の魔獣対策"だとさ」


 ロゴスは、また一つ、"外の声"を手に入れた。村の中では、塩が高いか安いかなど、比べようもなかったのだ。


 そして、市の外れで、ロゴスは、それを見た。


 小さな露店の軒先に、色あせた一枚の札が貼られていた。〈結界札〉。魔獣や瘴気を寄せつけぬ、魔法ギルド謹製の護符。露店の老人が、しわだらけの手で、それをそっと撫でていた。


「じいさん、その札、貼り替えないのか」通りかかった別の男が言う。「切れてるぞ。夜、魔物が寄る」


「……貼り替えたくても、もう買えんのだよ」老人は力なく笑った。「去年の三倍だ。ギルドが値を上げてな。安い札はどこも扱わん。……なに、村を捨てて、この城壁の内側まで逃げてきたんだ。壁の中まで魔物は来やせんさ。来ないと、思いたいねえ」


 ロゴスは、その札を、じっと見た。青白い魔力の紋様は、確かに本物だった。だが、たった一枚の護符が、老人一人の一冬の稼ぎに届くほどの値になっている。魔獣が増えたから札が要る。札が要るから値が上がる。値が上がるから、いちばん札を必要とする貧しい者から、順に、無防備になっていく。


 ――セレナが言っていた。〈札の商売の元締めは、あの城壁の中にいる〉と。ロゴスは、広場の向こうにそびえる、魔法ギルド支部の白い尖塔を、そっと見上げた。あそこが、敵の懐だ。今日は、ただ見ておくだけでいい。


---


 その夜、屋根裏の窓辺で、ロゴスは、干し杏を一つ口に入れた。リノが最後に投げてよこした、あの袋の中身だ。甘さが、口の中にゆっくり広がる。


(面白いな)


 ロゴスは、一日で耳にした声を、頭の中で並べてみた。宿の女将ベルタ。隊商のヨナス。露店の老人。名前も知らぬ男たち。――誰一人、ロゴスの友ではない。今日、初めて会った、赤の他人だ。明日には、二度と会わないかもしれない。


 だが、彼らがくれた断片を継ぎ合わせると、この街の"病"の形が、うっすらと浮かび上がってくる。財務府は上ほど耳が遠い。関所の料金は倍。札の値は三倍。理由はどれも「魔獣対策」。――同じ言葉が、別々の他人の口から、何度も出てきた。


 前世で、ロゴスは、いくつもの組織を外から眺めてきた。そこで、いやというほど思い知った理屈がある。


 ――本当に価値のある知らせは、たいてい、"遠い誰か"から来る。


 親しい仲間は、ありがたい。だが、親しい者どうしは、たいてい、同じものを見て、同じことを知っている。村の井戸端でどれだけ噂を集めても、村の外のことは出てこないのと、同じだ。強く固く結ばれた輪の中では、情報はぐるぐると回るだけで、新しいものは入ってこない。


 新しい知らせを運んでくるのは、むしろ、ゆるく、細く繋がった相手――たまたま隣り合っただけの、名も知らぬ他人のほうなのだ。輪と輪の"あいだ"に、細い糸で架かっている者だけが、こちら側の井戸には決して落ちてこない水を、汲んでくることができる。


(領主アウレリウスは、きっと、"強く固い輪"の真ん中にいる)


 ロゴスは、そう気づいた。人望厚い領主。その周りを、忠実な――そして、都合の悪いことは告げない臣下たちが、幾重にも取り巻いている。領主の耳に届くのは、その固い輪の中で磨かれ、角を落とされた、聞き心地のよい話ばかり。露店の老人の嘆きも、ヨナスの塩の話も、ベルタの愚痴も、あの輪の内側までは、一滴も染み込んでいかない。


(俺は、誰の輪にも属していない。だから、どの輪の声も、拾える)


 よそ者であることは、この街で、ロゴスのただ一つの武器になろうとしていた。


---


 三日目の朝、ロゴスは、庁舎へ足を運んだ。


 村を出るとき、村長ゲオルグから預かった一通の書状がある。森の奥で見つけた、あの禍々しい施設と魔物のこと。そして、村々を蝕む結界札のこと。それを、領主へじかに届けるための、上申状だった。


 だが、正面から訪ねたロゴスを待っていたのは、木で鼻をくくったような対応だった。


「上申? 子供が? ……書状は預かる。順に回す。沙汰を待て」


 書記はそう言って、書状を、山と積まれた書類のいちばん下に、無造作に差し込んだ。ベルタの言葉が、耳の奥でよみがえる。〈上に行くほど、耳が遠くなる〉。あの書状は、もう二度と、日の目を見ないだろう。


 肩を落として庁舎を出たロゴスに、細い声がかかった。


「……坊や。森の、施設のことを、書いてきたのか」


 振り返ると、痩せた若い書記が、書類束を抱えて立っていた。名を、オーウェンといった。下役も下役、庁舎のいちばん下で、ひたすら書き物を写している男だ。


「あんたの書状、ちらと見えた。……悪いことは言わない。あの窓口じゃ、届かない。ああいう話は、途中で握りつぶされる。得をする連中が、上と下のあいだに、詰まってるんだ」オーウェンは、あたりを気にしながら、早口で続けた。「だがな。三日に一度、領主さまが、じかに市井の訴えを聞かれる〈開かれた広間〉の日がある。財務府を通さずに、直に。――明日が、その日だ。並べば、誰でも、御前に立てる。子供でも、な」


 ロゴスは、その若い書記の顔を、まじまじと見た。彼もまた、赤の他人だった。何の義理もない。ただ、良心が、詰まった書類の山に、耐えかねただけの男。


「……なぜ、俺に、それを」


 オーウェンは、少しだけ、笑った。


「さあな。正しい話が、握りつぶされるのを見るのに、飽きただけかもしれん。……せいぜい、口を、達者に磨いておけよ」


 彼は、それだけ言うと、書類の山の中へ、足早に戻っていった。


 ロゴスは、白い尖塔を背に、拳を握った。強い輪の外にいる、名も知らぬ何人もの他人が、細い糸を手繰るように、ロゴスを、領主の御前へと導こうとしている。


(明日だ)


 剣も、魔法も、後ろ盾もない。だが、明日、ロゴスの前には、この地方一の商都を統べる男が、座している。


 ――こちらには、街じゅうの他人から借り集めた、"ほんとうの声"がある。


(続く)


---


【今回の理論メモ】弱い紐帯の強さ(Weak Ties)


親しい友人や仲間との強い結びつきは、心の支えになります。ですが、こと「新しい情報」を手に入れるという点では、意外なことに、親しい相手はあまり役に立ちません。親しい者どうしは同じ場所にいて、同じものを見て、たいてい同じことを知っているからです。強く固い輪の中では、同じ情報がぐるぐる回るだけで、外の知らせは入ってきません。


新しいチャンスや、思いもよらない知らせを運んでくるのは、むしろ「たまに会う程度の、ゆるい繋がり」――ちょっとした知人や、一度きり会った他人のほうです。彼らは自分とは別の輪に属していて、その"輪と輪のあいだ"を細い糸で架け橋する存在だから、こちらの世界には決して流れてこない情報を持ってきてくれます。転職先が友人よりも「知人の知人」から見つかりやすい、というのは、この理屈の有名な例です。


仕事でも、社内の親しい仲間とばかり話していると、視野は次第に閉じていきます。部署の外、会社の外、業界の外――ゆるく繋がった"遠い誰か"との縁を、意識して絶やさないこと。遠い声ほど、あなたの井戸には無い水を運んでくれるのです。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます! 今回は、いよいよエンポリアの街の中。剣も魔法も使わない、ロゴスの「街歩き」の回でした。


テーマは「弱い紐帯の強さ(Weak Ties)」。親友ではなく、たまたま出会った他人こそが、いちばん新しい情報をくれる――という、少し意外な理屈です。宿の女将ベルタ、隊商のヨナス、名も知らぬ露店の老人、そして下役の書記オーウェン。彼らは全員、ロゴスにとっては赤の他人ですが、その断片を継ぎ合わせることで、街の"病"の輪郭が浮かび上がってきます。


そしてこの「よそ者だから、どの輪の声も拾える」という強みが、次回、領主アウレリウスとの謁見で効いてきます。人望厚い善良な領主が、なぜ領民の悲鳴に気づけないのか。その仕組みを、ロゴスがどう暴くのか。――次回、第9話、いよいよ舌戦です。


ベルタやオーウェンとの縁も、この街の物語の中で、また手繰り寄せる日が来ると思っていてください。感想・ブックマーク・評価が、次回への何よりの力になります。どうぞ、エンポリア編にお付き合いください!

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