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机上の空論と嗤われた研究者、異世界の寒村に転生する ~理屈だけで、国を獲ります~  作者: 鉄菊
エンポリア編

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66/69

第66話 見えない良し悪し

はじめまして!

鉄菊と申します!

本作は「机上の空論」と嗤われ続けた経営学者が

異世界の弱小領地に転生し、誰も知らない”理屈”だけで

成り上がっていく物語です。

更新は

▪️平日9時・18時

▪️土日祝:18時

よろしければブックマークをお願いします!

その男は、広場の南の隅で商いを始めていた。


 筵の上に紙の束が積んである。買い手が三人ほど屈み込んで、めくっていた。ニケが人垣の後ろから覗き、それから青い顔で戻ってきた。


「北の送り状の写しです」


「売っているのですか」


「一綴り、銀貨二枚と言っていました」彼女は買ってきた一綴りを卓へ置いた。「……見てください」


 ロゴスは灯の下で紙を繰った。


 荷主の名。荷の頭の名。品と目方と値。書き方は物置の山と同じである。紙の質も、綴じの麻紐も似ていた。日付は去年の秋から今年の春まで、まんべんなく散っている。


「よく出来ています」


「出来すぎです」ニケの声が震えていた。「ですが値が合いません。塩の申告の値が、南の板と何の関わりもなく動いています。……作り物です」


 物置から戻ってきたヨナスが、卓の上のそれを一目見て動きを止めた。


 彼は一綴りを取り、二枚めくって、床へ落とした。


「同じ筵に、三束積んであった」低い声だった。「明日には五束になる」


---


「奪いにも焼きにも来ませんでした」


 ロゴスは落ちた紙を拾い上げた。


「盗めば、盗まれたという事実が残ります。焼けば、焼いた者を皆が探します。……ですがよく似たものを配れば、誰も何も失っていない」


「一年だぞ」ヨナスの声が掠れた。「一年、宿の土間で夜通し写した。あれが、筵の上で銀二枚だ」


 誰も何も言えなかった。


 ロゴスは炭を取り、板へ横線を一本引いた。


「市には、良し悪しの見えない品があります」彼は静かに言った。「馬がそうです。買う人には、その馬が病を隠しているか分からない。売る人だけが知っている」


「それが何の話になる」


「見分けられない買い手は、平均で値をつけます」ロゴスは線の真ん中に印を置いた。「良い馬にも悪い馬にも、真ん中の値しか出さない。……すると、良い馬を持っている人は売らなくなります。真ん中の値では割に合わないからです」


 ニケが息を呑んだ。


「残るのは」


「悪い馬だけです」ロゴスは言った。「そして買い手はそれを見て、もっと値を下げる。……良し悪しが見えない市では、良いものから先に消えます。誰も嘘をつかなくても、そうなります」


 カシウスが唸った。


「では、あの筵は」


「この街の写しを、そういう市にしに来たんです」ロゴスは言った。「本物を潰す必要はありません。似たものを五束積めば、本物も銀二枚になります」


 ヨナスが両手で顔を擦った。


「……買い手が見分けられねえからか」


「ええ」


「だったら」ニケが身を乗り出した。「本物だと言えばいいのです。あの物置の束が本物で、筵のものは偽りだと、広場で叫べば」


「叫べます」ロゴスは頷いた。「筵の男も叫べます」


 ニケが言葉に詰まった。


「言葉は誰でも真似できます。真似のできないものでなければ、証にはなりません」


---


 その夜、ロゴスは物置で紙を三枚だけ抜き出した。


「三つ、要ります」


 ヨナスは膝を抱えて座っていた。返事はなかった。


「一つ。見分け方そのものを、皆へ配ります」


 ヨナスが顔を上げた。


「見分け方を」


「はい」ロゴスは三行の紙を書きはじめた。「一、その紙の塩の値を拾う。二、同じ月の板の値を拾う。三、板が動いた月の翌々月に、紙の値が同じ幅で動いているかを見る。……動いていなければ作り物です」


「そんなものを配ったら、次の偽物は板に合わせて作ってくるぞ」


「合わせられます」ロゴスは頷いた。「ですが合わせるには、一年ぶんの板の写しと、月ごとに割りを合わせる手が要ります。……そこまでできる人は、この街にそう何人もいません」


 ヨナスの目が動いた。


「……俺と、同じ手間がかかるってことか」


「そうです。手間のかかるものは、値の安い偽物には向きません」ロゴスは言った。「証は、中身が正しいから信じられるのではありません。真似をするのに割が合わないから信じられるんです」


「二つ目は」


「突き合わせる相手を増やします」ロゴスは筆を止めた。「来月の初めに、三つの家が板の隅へ数を載せます。あの数と、この束の受け取りの写しは、同じ取り引きを別の側から書いたものです。……偽物は、来月の板と必ずぶつかります」


 ヨナスが低く笑った。乾いた笑いだった。


「向こうは、板に数が載ることを知らねえな」


「知りません。あれは三家と板書きだけの話です」


「……三つ目は」


 ロゴスは筆を置いた。


「三つ目は、あなたにしか出せません」


 物置が静かになった。


「板に、書いた者の名を入れてください」


 ヨナスの肩が跳ねた。


「名を」


「毎朝の値の下に、一行でいい。〈これを書いたのはヨナスである〉と」ロゴスは言った。「筵の紙には誰の名もありません。名がないほうが安全だからです。……名を出すのは高くつきます。高くつくことをしている人だけが、そうでない人と区別されます」


「高くつく、で済むか」ヨナスが乾いた声で言った。「俺は一年、名の載らねえところにいたから生きてる」


「存じています」


「名を出したら、明日にも消される」


「消されるかもしれません」ロゴスは否まなかった。「ですから、決めるのはあなたです。……私はあなたに、命を賭けてくれとは申しません。三行の紙と来月の板だけでも、半分は立ちます」


「半分か」


「半分です」


 ヨナスは長いこと天井を見ていた。それから紙の山へ手を伸ばし、いちばん下の一綴りを引き出した。表紙は油で黒ずんでいる。彼が最初に写した束だった。


「これを写した晩にな」彼は言った。「ヨストの土間で、何をしてると訊かれた。数えてるんだと答えた。……何のために数えてるのかは、俺にも分からなかった」


「今は分かりますか」


「分かるかよ」ヨナスは鼻で笑った。「ただな。屑と同じ値で筵に積まれるのだけは、我慢がならねえ」


---


 翌朝、広場に人が集まった。


 値の板の前ではない。板の脇の物置の戸に、三行の紙が一枚貼られていた。誰でも読める大きさで、見分け方が三つ書いてある。荷方が読み、通詞が読み、南の海商の使いが読んだ。


 筵の男は昼前に来た。人だかりを遠くから見て、それから板を見上げ、しばらく動かなかった。


 彼が見ていたのは板の下の隅である。


 毎朝の値の列の下に、昨日までなかった一行が白墨で書き足されていた。


 ――これを書いたのはヨナスである。


 字は大きくなかった。震えてもいなかった。


「三束、どうする気ですかね」カシウスが低く言った。


「今日中に片づけるでしょう」ロゴスは言った。「あの人たちは、割に合わないことをしません」


 昼過ぎに筵は消えた。紙は運び出され、南の隅には藁くずだけが残った。


 ヨナスは梯子を担いだまま、その空いた場所を長いこと見ていた。


「一年ぶりに名を書いた」彼は言った。「気分が悪い」


「なぜです」


「軽くなった」ヨナスは首の後ろを叩いた。「名を隠してるあいだ、俺はずっと重かった。……軽くなったら、なんだか怖い」


 ロゴスは何も答えなかった。答えるべきことではなかった。


---


 その日の夕方、宿の戸を叩く音がした。


 カシウスが柄に手を掛けて開けた。立っていたのは若い男だった。旅装が新しい。日焼けをしていない。


「北から参りました」男は丁寧に頭を下げた。訛りのない、澄んだ言葉だった。「王都の言葉で失礼いたします。……板をお書きの方と、その後ろにおられる方に、お目にかかりたい」


 ロゴスは卓の向こうから立ち上がった。


「どちらの使いでしょうか」


「名は申せません」男は微笑んだ。「ただ、こう申し上げれば通じると伺いました。……〈辺境の理は、芽のうちに摘め〉」


 部屋の空気が止まった。


「三日後の朝、こちらから伺います」男は言った。「それまでに、お荷物をまとめておかれるとよいかと」


 戸が閉まった。足音は静かに遠ざかった。


 ニケの手が震えていた。カシウスは柄から手を離さなかった。


 ロゴスは卓の上の三行の紙を見ていた。三日後の朝である。三つの家が板へ数を載せる日は、その二日後だった。


(続く)


---


【今回の理論メモ】逆選択(レモン市場)――良し悪しが見えない市場では、良いものから消える


 中古車市場を例にした有名な理論があります。買い手には、その車が当たりか外れかが見分けられません。だから買い手は平均的な値段しか出しません。すると、良い車を持っている人は「その値では売れない」と売るのをやめ、市場には外れの車ばかりが残ります。買い手はそれを見てさらに値を下げる。誰も嘘をついていないのに、市場から良いものが消えていく。これを逆選択と呼びます。


 同じことは至るところで起きます。実力のわからない求人に応募が集まらない、粗悪品が溢れたジャンルで丁寧な作り手が撤退する、口コミが操作されたサービスでまともな店が埋もれる。良いものを潰したければ、攻撃する必要はありません。似たものを大量に並べて、見分けをつかなくすればいい。


 対処は二つです。一つは、見分け方そのものを公開すること。買い手が自分で検算できる基準があれば、偽物は基準に合わせる手間を負うことになり、安さで作れなくなります。もう一つが、コストのかかる信号を出すことです。長期保証、返金条件、実名と経歴の公開、第三者の監査。共通しているのは、中身の良くない側が真似すると割に合わない点です。


 「うちは本物です」という言葉は、誰でも同じ値段で言えます。だから何の情報にもなりません。証明になるのは、本物でなければ払えない代価のほうです。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます!


 今回の背骨は「奪わず焼かず、似たものを積む」。一年ぶんの写しを無価値にする、いちばん静かな攻め方でした。


 名を隠すことで生きてきた男が、板の隅に一行だけ名を書きます。今回はそこが山です。


 次回、三日後の朝が来ます。ですがその二日後には、板に数が載ります。


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