第65話 他人の銭
はじめまして!
鉄菊と申します!
本作は「机上の空論」と嗤われ続けた経営学者が
異世界の弱小領地に転生し、誰も知らない”理屈”だけで
成り上がっていく物語です。
更新は
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三日目の昼に、アウィスの家から返事が来た。
「三家とも、載せると言ったわ」
当主は前より早口だった。灰色の目に熱があった。
「レンタは半日で乗ったの。コルバは渋ったけれど、二家が乗るなら降りられない。……あなたの言ったとおりよ。皆、降りる口実を待っていた」
「ありがとうございます」
「これで片づくわね」
「いいえ」
当主の眉が動いた。
「三家とも、いつから載せるとは仰らなかったはずです」ロゴスは言った。「額をどう数えるかも、決まっていない」
「そんなものは後で詰めればいいでしょう」
「後で詰めるものは、詰まりません」
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宿へ戻ると、ニケが珍しく明るい顔をしていた。
「うまくいきましたね」
「まだです」ロゴスは椅子に腰を下ろした。「三つの家は、載せると言いました。載せると言っただけで、載せなかった時に困る人が一人もいません」
ヨナスが壁にもたれたまま鼻を鳴らした。
「言うだけならタダだからな」
「そうです」ロゴスは頷いた。「人は約束を破るから雑になるのではありません。破っても自分の腹が痛まないとき、雑になります」
カシウスが腕を組んだ。
「雇兵と同じですな」
「ええ」
「あれは金で戦います。命が惜しいから、割に合わんと見れば逃げる。……逃げても損をしないからです」
「谷で退けられたのは、そこでした」ロゴスは言った。「あの人たちが弱かったのではありません。損をしない立場にいたんです」
彼は板を引き寄せ、炭で三つの丸を描いた。
「三家も今は同じです。載せなくても、誰にも咎められない。むしろ載せない家がいちばん得をします」
「なぜです」ニケが訊いた。
「二家が載せて一家が黙れば、紋の勘定は黙った一家へ全部移ります」ロゴスは丸の一つを塗り潰した。「手数料は三分の一ではなく丸ごとになる。……正直にやった二家が損をして、黙った一家が肥える」
ニケの顔から明るさが消えた。
「では、あの返事は」
「本気で言っておられます。三人とも本気です」ロゴスは言った。「ですが本気は、月が変われば薄れます。薄れたときに何が残るかを、いま決めておかないといけません」
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「三つ、要ります」
ロゴスは炭を持ち替えた。
「一つ。同じ日に載せること。日付を先に決めて、板の隅にその日を先に書いておきます」
「先に書くのですか」ヨナスが目を上げた。「まだ載ってもいねえのに」
「先に書けば、その日は誰にも動かせません」ロゴスは言った。「約束は日が決まっていないと、いつまでも明日になります」
「二つ目は」
「自分の額を書かせないことです」
三人が同時に顔を上げた。
「三つの家に、自分が移した額を書かせれば、必ず低く書く人が出ます」ロゴスは言った。「あの北の関と同じことになります。……ですから、書くのは自分の額ではありません。他の二家から自分の窓口へ回ってきた額です」
ヨナスが身を起こした。
「……ああ。互いの数が向かい合うのか」
「レンタが書いた数と、コルバが書いた数が、同じ取り引きを別々の側から書きます。合わなければ、合わない組だけが浮きます」ロゴスは言った。「誰も正直でなくて構いません。突き合う形にしておけば、正直でいるほうが安くなります」
ニケが低く呟いた。
「……割り符と同じですね」
「同じです」ロゴスは頷いた。「木札でも帳でも、形は変わりません」
「三つ目は」カシウスが訊いた。
「載せなかった家の欄を、空けておくことです」
ロゴスは丸の一つの中を白く残した。
「消すのではありません。空欄のまま残します。品の値がずらりと並ぶ列の中で、一つだけ何も書かれていない場所は、どんな数字より目を引きます。……そして空欄には、なぜ書かなかったかの一行を添えていただく」
「名を書けということか」ヨナスが笑った。
「そうです。書きたくない人ほど、結局は数を書きます」
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翌朝、当主は三つの案を一つずつ潰しにかかった。
「二家が空欄で押し通したら、うちだけが晒されるわ」
「その時は、空欄が二つと数字が一つ並びます」ロゴスは言った。「この街の者はどちらを信じますか」
当主が口をつぐんだ。
「もう一つ。板書きに手当を出すわ。危ない役だもの」
「出さないでください」
「なぜ」
「三家のどこかから銭を受け取った者が書いた数を、他の二家は信じません」ロゴスは言った。「あの人が今まで信じられてきたのは、腕がいいからでも正直だからでもありません。……どの家の得にもならない場所に立っていたからです」
「では、あの人は何で食べているの」
「板の日当です。この街の皆から少しずつ出ている」
当主はしばらく黙り、それから苦笑した。
「あなた、うちの父が言っていたことと同じことを言うわ。……〈他人の銭で商う番頭は、荷を濡らす〉」
「よくご存じの話です」ロゴスは言った。「損の当たらない者は、丁寧にやる理由がありません。丁寧にやらせたければ、うまくいった時に得をし、しくじった時に痛む場所へ、その人を置くしかない」
「じゃあ、あなたはどこに立っているの」
思わぬ問いだった。ロゴスは少し考えた。
「私は、この街で何も得をしません」
「それなら、あなたの言葉こそ誰も信じないわね」
当主は笑わずに言った。冷たい指摘だった。
「……ええ」ロゴスは頷いた。「ですから私は、数を一つも書きません。書くのは三つの家と板書きです。私は、書き方だけを置いていきます」
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三家の判が揃ったのは、その日の夕方だった。
値の板の隅に、来月の初めの日付が白く書き足された。数はまだ何もない。ただ日付だけがある。広場の者が足を止めて見上げ、意味が分からずに首をかしげて去っていった。
「妙な眺めだな」ヨナスが梯子を担いで隣に立った。「まだ何もねえのに、あの日が来ることだけが決まってる」
「決まったものは、待つ人を作ります」
ロゴスは板を見上げていた。
その時、ヨナスが眉を寄せた。
「……おい」
「どうしました」
「口の値だ」
板の下の隅である。品の列の最後、言葉の値が書かれている場所だった。
朝に書いた数の上へ、誰かが新しい数を書き足していた。二倍に近い。
「俺は書いてねえぞ」ヨナスの声が低くなった。「今朝の値のままだったはずだ」
「誰が書けるのですか」
「梯子を持ってりゃ誰でも書ける。……だが数は嘘じゃねえ」彼は広場を見回した。「値が二倍になるのは、買い手が急に増えたときだけだ」
ロゴスは広場の人の流れを見た。荷方でも商人でもない者が、三人、四人と目に入る。旅装が新しい。日焼けをしていない。
「言葉のできる者を、誰かが買い集めています」
ヨナスが息を呑んだ。
「王都だ」
「たぶん」ロゴスは静かに言った。「あちらも、こちらと同じことを考えている。……この街で話をつける気です」
(続く)
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【今回の理論メモ】インセンティブ設計とモラルハザード――損が当たらない人は、必ず雑になる
人が手を抜くのは、たいてい怠け者だからではありません。手を抜いても自分が損をしない場所にいるからです。これをモラルハザードと呼びます。保険に入った途端に用心が減る、経費なら高い店を選ぶ、他人の車なら運転が荒くなる。誰にでも起きる、ごく普通の反応です。
ですから「しっかりやってください」という言葉は、ほぼ効きません。効くのは配置のほうです。うまくいった時に得をし、しくじった時に痛む場所に、その人を置けているか。成果報酬、共同出資、自腹のリスク、名前を出すこと。どれも中身は同じで、結果と本人を結び直す仕掛けです。
組織で気をつけたいのは三つです。第一に、決める人と痛む人が別だと、決定はどんどん雑になります。第二に、正直者が損をする形を放置すると、正直者から先に抜けます。守るべきは善意ではなく、善意でいるほうが安い状態です。第三に、報告や数字を本人の自己申告だけに頼らないこと。二つの側から同じ取引を書かせて突き合わせれば、誰も正直でなくても、正直でいるほうが得になります。
人の徳に頼る仕組みは、うまくいっている間だけうまくいきます。徳がなくても回る形に落とし込めたとき、初めてそれは仕組みになります。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
今回の背骨は「本気は月が変われば薄れる」。三つの家の「載せます」を、薄れても残る形に変える回でした。
自分の額でなく相手から回ってきた額を書かせる――ここが今回の一番の仕掛けです。
そして値の板に、書いた覚えのない数が足されていました。次回、言葉の値が跳ね上がった理由が姿を見せます。
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