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机上の空論と嗤われた研究者、異世界の寒村に転生する ~理屈だけで、国を獲ります~  作者: 鉄菊
エンポリア編

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60/68

第60話 言葉の値

はじめまして!

鉄菊と申します!

本作は「机上の空論」と嗤われ続けた経営学者が

異世界の弱小領地に転生し、誰も知らない”理屈”だけで

成り上がっていく物語です。

更新は

▪️平日9時・18時

▪️土日祝:18時

よろしければブックマークをお願いします!

峠は二日かかった。


 登りの道は思ったより整っていた。石が敷き直され、崩れた縁には白い杭が打ってある。誰かが銭をかけて直していた。


「六日長い道の割に、手入れがいいな」カシウスが息を切らしながら言った。


「歩く人が多いからです」ロゴスは杭の新しさを見ていた。「直す銭も、歩く人から出ています」


 二日目の昼過ぎに稜線へ出た。


 風が変わった。南の風は湿っていて、遠くに水の匂いがある。ニケが額の汗を拭って、それから動きを止めた。


 眼下に街があった。


 二本の川が合わさる叉に、屋根が隙間なく詰まっている。トゥルムの荷置き場が三十台だとすれば、ここは目で数えるのを諦める数だった。荷車の列が街道から街へ吸い込まれ、別の口から南へ吐き出されている。


「メルクス」ノルドが短く言った。トゥルムの宿の親父が口にしていた街の名である。


「あんなものがあるとは聞いていました」ニケが呟いた。「聞いていたのと、見るのとは違います」


 ロゴスは長いこと街を見下ろしていた。


(――荷が集まる場所ではない。値が集まる場所だ)


---


 街に入って半刻で、ロゴスは広場に立っていた。


 広場の北側の石壁に、白く塗った板が二十枚ほど並んでいる。板の前に人が群れていた。押し合うでもなく、ただ黙って見上げている。


 板には黒い墨で品と数が書かれていた。


 塩。油。染めの粉。鉄。麻。獣脂。羊毛。それぞれの横に数がある。数の下に、消して書き直した跡が幾重にも残っていた。


「値です」ニケの声が少し掠れた。「……昨日の値と、今朝の値が、両方書いてあります」


「毎朝書き換えるのでしょう」


「北ではこんなものは見たことがありません。値は売る者と買う者が、その場で決めるものです」


「ここでは、その場で決まっていません」ロゴスは板を見上げた。「決まった値を、みんなで見に来ています」


 カシウスが人の群れを一瞥した。


「叩き潰す相手を間違えたな。関の小屋を二つ焼くより、この板を一枚割ったほうが北の塩は安くなるんじゃないか」


「割れば明日また塗られます」ロゴスは言った。「割るべきものがあるとすれば、板ではありません。板を書いている者です。……ですが、その前に測ります」


「何を」


「この街で、誰がいちばん強いのかを」


---


 三日かけて、ロゴスは街を歩いた。


 カシウスは荷置き場、ニケは両替の店、ノルドは宿と裏路地を持った。ロゴスは板の前に立ち続けた。日に三度、書き換えられる。書き換えられるたびに群れが崩れ、荷車が動き出す。


 三日目の晩、宿の狭い二階で四人は板を突き合わせた。


「買う側は三つの家です」ニケが言った。「レンタ、コルバ、それとアウィス。北から来た荷は、この三つのどれかが買います」


「三つしかないなら、値は叩き放題だ」カシウスが言った。「北の荷方は泣くしかない」


「そう思って調べました」ニケは首を振った。「三つは仲が悪いのです。一つが買値を下げると、残りの二つがすぐ上げます。去年の秋にレンタが荷を根こそぎ買い占めようとして、ひと月で退きました」


「参入はどうです」ロゴスが訊いた。


「新しく家を興すのは止められていません」ノルドが答えた。「去年、二つ増えて、一つ潰れています」


「代わりの品は」


「塩は南の海からも来ます。染めの粉は、貝から採る安いものが出回りはじめました」ニケが指を折った。「鉄だけは代わりがありません」


 ロゴスは黙って四人分の話を並べ直した。それから膝の上で指を五つ立てた。


「商いの儲けやすさは、五つの力で決まります」


 三人がロゴスを見た。


「一つ、同じ商いをする者どうしの競り合い。二つ、新しく入ってくる者。三つ、代わりになる品。四つ、売る側の強さ。五つ、買う側の強さ。……この五つが緩いところに利は溜まり、五つが厳しいところではどれだけ汗をかいても値は削られます」


「では、この街は」


「五つとも厳しい」ロゴスは言った。「家どうしは競り合っている。新しい家は入ってくる。代わりの品も出てきた。売る側の北の荷主はばらばらで、買う側の南の海商もばらばらです。……本来、誰も大きくは儲からない盤です」


「なのに、街は肥えています」ニケが言った。


 窓の下を荷車が通った。石畳を叩く音が絶えない。この三日、夜中も絶えたことがない。


「肥えています」ロゴスは頷いた。「ですから、この盤には五つの外にもう一つ効いている力があります」


---


 翌朝、ロゴスは日の出前から板の前にいた。


 白墨の男が来たのは、群れが集まる半刻も前だった。梯子を立て、昨日の数を布で消し、新しい数を書いていく。誰も男に話しかけない。男も誰にも話しかけない。


 書き終えて男が降りると、群れが動いた。


「あの人が値を決めているのですか」ニケが小声で訊いた。


「決めてはいないでしょう」ロゴスは板を見ていた。「昨日の商いを、書き写しているだけです。……ですが、それでいい」


「同じことでは」


「違います。決める力より、知らせる力のほうが強いことがあります」ロゴスは板の隅を指した。「五つの力は、突き詰めると一つのことを測っています。相手にとって、こちらの代わりがあるかどうか。……そして代わりがあるかどうかを、本当に知っているのは誰ですか」


 ニケの指が止まった。


「両方の値を、知っている者です」


「北の荷主は北の値しか知りません。南の海商は南の値しか知りません。三つの家は互いの買値を知りません」ロゴスは言った。「この街で両方の値を知っているのは、板を書く者だけです。あの人は商いの外にいます。荷を一つも持たず、銭も動かさない。……だから五つの力のどれにも当たらない」


 カシウスが低く唸った。


「取り引きの外に立った奴が、いちばん強いってことか」


「外に立てるのは、外の値を知っているからです」


 ロゴスは板の下の隅へ目を落とした。


 品の列の最後に、品ではないものが一つ書かれていた。


 ――口。


 その横に数がある。日にいくら、という数だった。消し跡は他のどれより多い。数は上がり続けていた。


「言葉に値がついています」ロゴスは言った。「去年の秋から、二割ほど」


 ニケが息を呑んだ。


「上がったのは、押し上げた者がいるからです」


---


 ノルドが宿へ戻ってきたのは昼だった。


「板を書く者を、探している者がいる」低い声だった。「若い男が二人。この辺りの言葉じゃない」


「王都の言葉ですか」


「そうだ」


 カシウスの手が柄に触れた。ロゴスは首を振った。


「探しているうちは、まだ掴んでいません」


 彼は広場へ戻った。板の脇に、石を積んだだけの小さな台がある。その裏に木戸があり、戸は開いていた。


 中は薄暗い物置だった。麻紐で綴じた紙の束が、床から胸の高さまで積まれている。北の送り状の写しだった。トゥルムで見たものと同じ書き方の紙が、山になっていた。


 その山の前に、白墨で汚れた手の男が座っていた。梯子を担いだままである。


 日に焼けた顔が上がった。頬がこけて、目の下が落ちくぼんでいる。それでも、ロゴスにはひと目で分かった。


 七年前にエンポリアの市で、塩の値の話をしてくれた男だった。城を追われた朝から数えれば、一年余りぶりになる。


「……ヨナス」


 男は白墨を置いた。長い息を吐き、口の端を歪めるように笑った。


「遅かったな、ロゴス」


 ヨナスは足元の紙の山を、汚れた指で叩いた。


「一年、数えてた。北の紙と南の板を、一枚ずつ並べてな」


「……何が出ましたか」


「北の関で取られてる十分の一が、どこへ落ちてるかだ」ヨナスは言った。「あれは南へは来てねえ。北へも戻ってねえ」


 物置の外で、群れが板を見上げるざわめきが起きた。今朝の値が動いたのだ。


「もっと上だ」


(続く)


---


【今回の理論メモ】ポーターの5フォース――誰が交渉力を持つかで儲けは決まる


 同じだけ働いても、儲かる商売と儲からない商売があります。腕や努力の差ではありません。盤の形が違うのです。それを測る道具が5フォース(五つの力)です。


 五つとは、①同業者どうしの競争、②新規参入の脅威、③代替品の脅威、④売り手(仕入先)の交渉力、⑤買い手(客)の交渉力。この五つが緩い場所に利益は溜まり、五つが厳しい場所ではどれだけ汗をかいても値切られ続けます。下請けが疲弊するのは怠けているからではなく、四番と五番が厳しい位置にいるからです。


 実務での使い方は二つ。一つは、新しい仕事を始める前に五つを数えること。参入が自由で、客が数社に集中していて、代わりがきく商品なら、そこは頑張っても報われにくい盤です。もう一つは、自分がいま五つのどこで削られているかを特定すること。値上げが通らないのは営業の腕のせいではなく、④か⑤の力関係のせいかもしれません。


 そしてもう一つ。五つの力は、突き詰めれば「相手にとって自分の代わりがあるか」を測っています。ならば代わりの有無を知っている側が強い。売り手の相場も買い手の相場も知っている者は、取り引きの外に立ったまま、いちばん厚い取り分を取れます。情報を握る立場は、それ自体が一つの力です。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます!


 今回の背骨は「取り引きの外に立った者が、いちばん強い」。値の板を書くだけの男が、なぜ街でいちばん強いのか――ここが見どころです。


 そして一年余りぶりの再会。消えた通商の柱が、一年かけて数えていたものとは。


 次回、十分の一の行き先が見えます。


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