第59話 南回りの荷
はじめまして!
鉄菊と申します!
本作は「机上の空論」と嗤われ続けた経営学者が
異世界の弱小領地に転生し、誰も知らない”理屈”だけで
成り上がっていく物語です。
更新は
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南の街道は西のそれより広かった。広いのに人が少ない。
街を出て三日で、すれ違った隊商は四つだった。どれも南へ下っていた。北へ上る荷は一つもない。
「妙です」ニケが道の端を見ながら言った。「行くばかりで、戻る荷がありません」
「戻りは別の道を通っているのでしょう」ロゴスは答えた。「なぜ分けているのかが知りたいのです」
カシウスが先を歩き、ノルドは五十歩ほど遅れて林の際を歩いている。街を出てからずっとそうだった。誰も後ろから来ないことを、彼は三日かけて確かめていた。
オーウェンは街に残った。木札の列は今朝も財務府の階に伸びているはずである。ゲルトは荷方の噂を拾い集めると約束した。
(――三の間の灯は、まだ点いているだろうか)
あの窓のことだけは、ロゴスはまだ誰にも話していなかった。
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四日目の昼にトゥルムへ入った。
南回りの隊商が荷を積み替える中継の町である。町というほどの町ではない。古い石の塔が一つと、荷置き場と、宿が三軒。それだけの場所に荷車が三十台も並んでいた。
市はなかった。物は山ほど集まるのに、ここで売り買いされるものは何もない。
「顔を当たりましょう」カシウスが言った。「五つの言葉を喋る男です。荷方に訊けばすぐ知れます」
「訊けば知れます」ロゴスは頷いた。「訊いたことも知れます」
カシウスの足が止まった。
「あの人を探している者がいる、という話がまず走ります」ロゴスは荷車の列を見ていた。「その話は私たちより速く南へ着きます」
「では、どうする」
「荷を見ます」
荷置き場は日向くさかった。ロゴスは端から端まで二度歩いた。積まれているのは樽と革袋と、細長い木箱である。
「塩、油、染めの粉。鉄が少し」ニケが数えながら言った。「軽くて高いものばかりです」
「麦は」
「一袋もありません」
塔の下では北へ向かう荷車が三台、支度をしていた。そちらは麦と木材と炭だった。
「重くて安いものは北のまま。軽くて高いものだけ南へ回る」ロゴスは言った。「道が分かれているのではありません。荷が分かれています」
「それだけで何が言えます」ニケの声は硬かった。「南回りは冬に水が出れば毎年変わります。崩れもある。盗賊も出ます。街道の付け替えなど珍しくもありません。……あなたは何にでも理屈をつけたがる」
正しい反論だった。ロゴスは頷いた。
「崩れなら麦も炭も南へ回ります」
ニケの口が止まった。
「盗賊なら、高い荷ほど人を雇います。六日余計に歩くより槍を三本雇うほうが安い」ロゴスは続けた。「今起きているのはどちらでもありません。荷の値で分かれている。値で分かれるのは、値に応じて取られるものがあるときだけです」
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宿の親父はヨストという赤ら顔の男だった。
銅貨を一枚置いて、ロゴスは土間の荷方たちの話に混ざった。北の関の話はすぐに出た。
「去年の春から二枚になった」ヨストは酒樽の栓を叩いた。「庁舎の紙のほうは昔どおりだ。もう一枚は、革に紋の焼き印を縫い付けた連中が持ってくる。……荷の値の、十のうち一だとよ」
「値の十分の一」
「炭なら知れてる。塩と染めの粉はたまらん。だから南へ回るのさ。六日余計に歩いてでもな」
ニケが指を折りはじめた。数えるとき、彼女は今も算盤を使わない。
「……合います」小さな声だった。「塩なら、六日分の飼葉と宿代より十分の一のほうが高い。麦なら逆です。この荷置き場のとおりに分かれます」
ロゴスは樽の腹を指で叩いた。
「商いを一つの行いだと思うと、ここは読めません。安く買って高く売る。それだけの話に見えます。ですが荷が人の手に渡るまでには、いくつもの工程が連なっています。仕入れる。運ぶ。通す。預かる。値を決める。売る」
「それは知っています」
「利は、その連なりに等しく落ちません」彼は言った。「どこか一つに寄って落ちます。ふつうは、いちばん代わりのきかない工程です」
カシウスが腕を組んだ。
「運ぶのがいちばん骨だろう」
「骨は折れます。ですが荷方は代えがききます」ロゴスは南の峠を見た。「この街道で代わりのきかない工程は一つだけです。通すことだ。……関は一つしかない」
ニケが長く息を吐いた。
「だから、そこを握った」
「握れば、荷を一つも運ばずに荷の値の十分の一が入ります」ロゴスは言った。「街の二枚目と同じ形です。あれは恐れの見張りの代金でした。代金が街を出て、街道に立ったのです」
日暮れにノルドが戻ってきた。北の関の手前に、去年まで無かった小屋が二つ建っているという。窓が街道を向いている。人が寝るための小屋ではなかった。
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その晩、ロゴスはヨストに頼んで送り状の綴りを見せてもらった。銅貨は三枚に増えた。
カシウスが渋い顔をした。
「人を探すのに、紙を読むのか」
「あの人がどこにおられるかは、あの人の腕がどこで一番高く売れるかで決まります」
「腕」
「五つの言葉です」ロゴスは麻紐の束を開いた。「あの腕は運ぶ工程では高く売れません。荷方に言葉は要らない。言葉が要るのは、通す工程です」
書き方は北も南も同じだった。荷主の名。荷の頭の名。受け取った者の名。三つの名が並んでいる。
だが南回りの綴りには、もう一行あった。名前がない。印だけが押してある。
「ヨストさん。この行は何ですか」
「口を利いた者だ」親父は言った。「関で話をつける。荷主でも荷方でもねえ。……名は書かねえ。書かねえのが決まりでな」
ロゴスはしばらく紙を見ていた。
(――名の載らない工程に、いちばん高い腕が沈む)
「あの人は消えたのではありません」彼は言った。「紙から降りたんです」
「降りて、どうする」
「荷の頭は名が載ります。載る名は追えます」ロゴスは綴りを戻した。「追われている者が身を隠せる場所は、この連なりに一つしかない。名の載らない工程です」
ヨストが酒樽から顔を上げた。
「……あんたら、去年の秋の頭のことを言ってるのか」
土間が静かになった。
「あの男は自分から降りたよ」親父は言った。「降りる前の晩、うちの土間で送り状の綴りを片端から写してた。夜通しだ。何をしてると訊いたら、数えてるんだと言いやがった」
ロゴスは動かなかった。
(――数えていた)
逃げたのではない。エンポリアの帳面が止まったのと同じ頃に、この街道でも一人、誰にも命じられずに数えはじめた男がいた。
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ヨストが奥から油紙の包みを持ってきた。
「置いてった。読める奴がいたら渡してくれと」
中は紙が一枚きりだった。文字はこの国のものではない。南の峠の向こうで使われる古い綴りである。書庫の隅で一度だけ見た形だった。ロゴスは灯を近づけた。
三行しかなかった。
《運ぶのはやめる。値の決まるところへ行く。北の紙は写してある。》
ロゴスは長いこと紙を見ていた。それから息を吐いた。
「……生きておられます」
「読めるのか、あんた」ヨストが目を丸くした。
「ええ」
「一年、誰も読めなかったぞ」
ロゴスは懐から折った紙を出した。三行だけ書かれた紙である。城下の木札のために書いたものの写しだった。
「ヨストさん。南へ出る荷に、これを一枚混ぜていただけませんか」
「なんだこりゃ」
「受け取りの書き方です。いつ。誰の手で。いくら」ロゴスは言った。「この順を見て、書いた者が誰か解る人が南に一人います」
ヨストは紙を灯にかざし、鼻を鳴らして懐へ入れた。それから思い出したように顔を上げた。
「……そういや、三月前にも来たな」
「どなたが」
「あの書き置きを見せろと言ってきた男だ。若い。この辺の言葉じゃなかった。王都の言葉だ」親父は樽を叩いた。「見せなかったよ。読めもしねえ紙を、なんでみんな欲しがるんだ」
カシウスの手が柄へ動いた。ロゴスは目でそれを止めた。
三月前。網はまだ、あの人を掴んでいない。
外へ出ると南の峠が暮れかけていた。稜線の向こうは他国である。
「値の決まるところ、ですか」ニケが呟いた。「……どこです、それは」
「関の先です」ロゴスは言った。「荷の値は運んだ者が決めていません。通す者が決めています。……あの人は、それを見に行ったのです」
(続く)
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【今回の理論メモ】バリューチェーン――利は工程の連なりのどこかに寄って落ちる
商売を「安く仕入れて高く売る」という一つの行いだと思っていると、儲けの出どころを読み違えます。実際には、物やサービスが客の手に届くまでには工程が連なっています。仕入れ、加工、運搬、通関、保管、値決め、販売、集金。これをつなげて見る道具がバリューチェーン(価値連鎖)です。
肝心なのは、利益がこの連なりに等しく落ちないことです。利益は、いちばん代わりのきかない工程に寄って落ちます。汗をかいた工程ではありません。他に頼み先がない工程です。運ぶ人はたいてい代えがききます。だから物流の現場がどれほど骨を折っても、利益は往々にして別の場所に溜まります。
これは自分の仕事を測るときにも効きます。あなたの会社は連なりのどこにいるのか。そこは代わりがきくのか。代わりがきく工程にいる限り、努力は値切られ続けます。逆に、狭い関所のような工程を押さえた者は、荷を一つも運ばずに取り分を取れます。
もう一つ。誰かが急に遠回りを選んだときは、その理由を「道」ではなく「工程」で疑ってください。長い道を選ぶ人が増えたなら、途中のどこかで誰かが値を吊り上げています。人は面倒だから遠回りするのではありません。近道のほうが高くついたから遠回りするのです。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
今回の背骨は「荷が分かれている」。道の話に見えたものが、実は工程を握った者の話でした。
消えた通商の柱が、逃げる前夜に何をしていたか――ここが今回のいちばんの見どころです。
次回、ロゴスは峠を越えます。値の決まる場所へ。
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