第31話 見張る者たち
はじめまして。鉄菊と申します。
本作は「机上の空論」と嗤われ続けた経営学者が、異世界の弱小領地に転生し、誰も知らない”理屈”だけで成り上がっていく物語です。
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忌み地へはノルドと二人で向かった。
オルドは村の守りに残した。留守に狼が来ぬとも限らない。ロゴスは戦うために行くのではなかった。あくまで遠くから柵の内を"知る"ために。討つにはまだ何もかもが足りない。だがこの目で一度敵の巣を見ておかねば、次の盤は組めなかった。
二つの谷を越え、国境の稜線が近づくにつれ、木々がねじれ、下草が病んだように黄ばんでいった。ノルドが言った通りの忌み地だ。やがて風下の木立の陰から、ロゴスはそれを見た。
二重の丸太の柵。幾棟もの建物。細く立ち上る煙。揃いの革鎧の見張り。――四年前の森の施設と瓜二つの光景。ロゴスの腹の底が冷えた。
「……坊主」ノルドがふいに声を殺した。その手がロゴスの肩を掴んで地に伏せさせた。「動くな。囲まれておる」
ロゴスの背に氷が走った。いつのまにか木々の陰、岩の蔭――四方に人の気配があった。足音はなかった。ただそこに"いる"という圧だけが。柵の見張りとはまるで質の違う静けさ。獲物を見つけた狩人の静けさだった。
一本の杖の切っ先がロゴスの喉元に突きつけられた。その杖の頭に彫られた紋を見て――ロゴスは息を呑んだ。
ギルドの紋ではない。四年前、あの森で幾度も見た、ギルドとは異なるあの一党の紋だった。
「……セレナ一党」ロゴスの口からその名が零れた。
杖の主がぴくりと動いた。フードの奥の目が鋭くロゴスの顔を覗き込む。若い男の声がした。
「――なんで俺たちの名を」その声が途中で止まった。「……待て。この顔。この理屈っぽい目つき。……嘘だろ。おい、まさか」
フードが跳ね上がった。現れたのはロゴスより少し年上の、精悍な若者の顔。四年前より背が伸び、頬に古い傷が増えていた。だがその悪童めいた目つきは変わっていなかった。
「――変な奴!」若者が叫んだ。「生きてやがったのか! ……リノだ、俺だ! 四年前、キメラに弾き飛ばされたリノだよ!」
ロゴスの胸が熱く詰まった。森で別れ際、「生きてたら、また会おうぜ」と笑ったあの若い魔導師。その約束がいま、この忌み地の木立の陰で確かに果たされた。
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一党を率いる女が木立の奥から進み出た。
セレナ。四年の歳月は、その静かな佇まいを少しも損なっていなかった。ギルドとは異なる紋の杖。見る者の底まで見透かすような深い眼差し。かつて森でロゴスに向けた、あの"何かを見極めるような"視線。それがいままた、まっすぐに彼を射ていた。
「大きくなったわね」セレナは静かに言った。「そして……ずいぶん遠回りをしてきたようね。エンポリアの領主にまで昇って。王都に召し上げられて。そしてまた、この辺境へ。……あなたの噂は風の便りに聞いていた。あなたが正しいことをするほど、都合の悪い者が湧いてくる。……森で言った通りになったでしょう」
「……ええ」ロゴスは頷いた。「あなたの言葉を、この四年でいやというほど噛みしめました」
「それで」セレナの目が細くなった。「王都の高みにまで届くあの手に、いちばん大きく翼をもがれたあなたが。なぜまた、こんな忌み地の柵の前に立っている」
ロゴスは懐から割り符を取り出した。ギルドの紋の焼き印。
「このもう半分が。あの柵の内にあるからです」彼は言った。「私の逃げ帰った故郷の谷に、鋼を持たせた狼が放たれた。辿ればこの施設に行き着いた。……四年前の森と同じ拵えだ。中で何が造られているのか。私はそれを知り、そしていつか止めねばならない。この谷に生きる村人のためにも」
セレナはしばらく無言でロゴスを見ていた。それから初めて、その硬い口元をほんのわずかに緩めた。
「――私たちは五年、このテロスの施設網を追ってきた」彼女は静かに言った。「森の第七施設をあなたが崩してくれて。それから私たちは残りを一つずつ辿ってきた。この国境の施設は、そのうちの一つ。ここではいま、新しい"獣"が育てられている。四年前のキメラより小さく、賢く、飼い慣らしやすい、群れの獣が。……国境の警備が手薄になった隙に外へ放って"盗賊"に仕立てる。あなたの谷を襲ったあの狼どもも――半分は人。半分はここで造られた"馴らし獣"よ」
ロゴスの背筋が凍った。あの練れた足の盗賊。人だと思っていたその群れに。四年前のあの歪な獣の血が混じっていた、というのか。
「私たちだけでは、あの柵は崩せない」セレナは続けた。「私たちは魔法は使える。だが数がない。たった六人だ。柵の内には揃いの槍が幾十といる。……見張ることはできても、討つことはできなかった。この五年、ずっと」
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(――二正面だ)
ロゴスの頭の中で盤が静かに回りはじめた。
(私には村の守る力がある。垣根も隊列もオルドの剣も。だが魔法がない。あの馴らし獣に村人の槍衾だけで当たれば、四年前の二の舞だ。……セレナたちには魔法がある。だが数がない。柵の幾十の槍を崩す地の力がない。……私たちは二人とも、片方の翼しか持っていない)
そして二人には同じ敵がいた。テロス。その施設網。村を痩せさせ、財務府にすら触れさせぬ、あの王命の根。
「セレナさん」ロゴスは言った。「私は村の守りに追われて。あなたたちは施設の監視に追われて。……このままでは私たちは、それぞれ別々の正面で同じ敵の片翼と戦い続け、いつかすり潰される。二つの戦を別々に抱えたまま、どちらも勝てずに」
「……何が言いたいの」
「二つの正面を一つに束ねましょう」ロゴスはまっすぐに彼女を見た。「私たちは互いの"欠けた片翼"を持っている。あなたたちの魔法と、私たちの地の力。片方だけではあの柵に届かない。だが二つ合わされば――初めて届く。私たちは敵を共にしている。ならば別々に疲れ果てるより、背中を合わせるべきだ。……敵の敵は味方だ。少なくとも、あの柵を崩すその一戦のあいだは」
セレナは長いあいだ、その深い眼差しでロゴスを見つめていた。かつて森で"見極めるように"彼を見た、あの目で。今度はその見極めの答えが出たのか。彼女はゆっくりと頷いた。
「……いいでしょう」セレナは言った。「森であなたを救ったとき。私はあなたの中に"敵にも味方にもなりうる、大きな何か"を見た。……ずっと見極めかねていた。あなたがあのテロスと同じ道を行く者か。違う道を行く者か」彼女の目に静かな光が宿った。「今わかった。あなたは違う。あなたは力で人を造り変えようとはしない。仕組みで人を生かそうとする。……いいわ、ロゴス。この一戦、背中を預ける」
リノが横でにやりと笑って、ロゴスの肩を小突いた。
「言ったろ、変な奴。また会おうって。……今度はいっしょに、あのいけ好かない柵をぶっ潰そうぜ」
忌み地の木立の陰で。四年ぶりに再会した二つの"片翼"が、一つの盤の前に並んだ。柵の内では今日も細い煙が上がっている。その内側に何がいて、どれほどの守りがあるのか。討つにはまだ、それを知らねばならない。だがロゴスの片翼は、いま確かにもう半分の翼を得た。
(続く)
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【今回の理論メモ】二正面作戦の回避――同時に二つと戦わない/「敵の敵」は味方にできる
軍事の鉄則の一つに、「二正面作戦を避けよ」というものがあります。前と後ろ、右と左――二つの正面で同時に敵と戦うと、力が二つに割れ、どちらにも勝てずにすり潰されてしまう。歴史上、大国が滅ぶときは、しばしばこの二正面に自ら足を突っ込んでいます。だからこそ賢い戦い方は、「戦う相手を一度に一つに絞る」こと。そのために時に有効なのが、「敵の敵は味方」という発想です。自分と同じ敵を持つ者と手を結べば、二つに割れていた力を、一つの正面に集められます。
今回、ロゴスとセレナ一党は、まさにこの状況にありました。ロゴスには"地の力(守る村・隊列・剣)"はあるが、魔法がない。セレナ一党には"魔法"はあるが、数がない。二人とも片方の翼しか持たず、しかもそれぞれ別の正面(村の守り/施設の監視)で、同じ一つの敵の"片翼"と消耗戦を続けていた。このままでは、両者ともすり潰される。ロゴスの一手は、「二つの正面を一つに束ねる」ことでした。互いの欠けた翼を補い合い、共通の敵に背中を合わせて当たる。片方だけでは届かなかった柵に、二つ合わされば初めて手が届く。
現実でも、これは強力です。あなたが複数の問題や対立を同時に抱えて疲弊しているなら――まず「一度に一つに絞れないか」を考える。そして、対立していると思っていた相手が、実は"同じ本当の敵(共通の課題)"を持っているなら、その相手は、潰し合う相手ではなく、手を結ぶべき味方かもしれません。すべての戦線を同時に張るのは、最も愚かな戦い方。力を一つの正面に集めるために、時に、昨日までの他人と背中を合わせる。それが、弱い側が大きな相手に届くための、賢い道なのです。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
「変な奴、生きてやがったのか!」――リノとの、四年ぶりの再会です。
地の力を持つロゴスと、魔法を持つセレナ一党。
互いの欠けた翼を、一つに束ねます。
次回、二つの翼で、あの柵の中身を量りにかかります。
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