第30話 割り符の先
はじめまして。鉄菊と申します。
本作は「机上の空論」と嗤われ続けた経営学者が、異世界の弱小領地に転生し、誰も知らない”理屈”だけで成り上がっていく物語です。
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勝利の翌朝から、ロゴスは浮かれる村をよそに、一枚の割り符を飽かず見つめていた。
魔法ギルドの紋。断ち割られた木の片割れ。このもう半分を握っている者が、どこかにいる。この痩せた谷へ鋼を持たせた狼を放った者が。
「相手を知らねば、次は勝てません」ロゴスは囲炉裏端で、オルドとノルドに言った。「昨夜は守れた。ですが、それは相手が私たちを"鍬しか持たぬ百姓"と侮って、少数を寄越したからだ。……次はこちらの手の内を読んで来る。数も備えも変えて。私たちが昨夜の勝ちに酔っているあいだに、向こうはもう次の盤を組んでいる」
(――昨夜の勝ちは"守り方"が正しかったからだ。だが守りだけでは、いつか押し切られる。相手がどこから何をどれだけ送り込んでくるのか。それを知らねば、私はずっと来る波を数えて怯えるだけの案山子だ)
「敵を知り己を知れば。……昔の兵書にそうありました」ロゴスは続けた。「百たび戦っても危うくない、と。私は己の谷の手の内は掴んだ。垣根も隊列も、この目で鍛えた。……足りないのは"敵を知る"ほうだ。この割り符のもう半分が、どこにあるのか。狼がどこから湧いて来たのか。ノルドさん。その足跡を逆に辿れますか」
猟師は干し肉を噛む手を止めて、にやりと笑った。
「谷の獣道なら、わしの庭だ。……昨夜逃げた連中の退き足を追ってやる。ただし深追いはせん。獲物を狩るには、まず巣を見つけて遠くから見張る。それが猟師の流儀よ」
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ノルドが三日、留守にした。
その間ロゴスは、村を遊ばせなかった。オルドの隊列稽古を続けさせ、垣根を補い、林の際にノルド仕込みの鳴子を増やした。守りを固めながら、彼は待った。焦ってこちらから闇雲に討って出れば、それこそ相手の思う壺だ。動くのは相手の巣の形を掴んでから。
四日目の夜半、ノルドが帰ってきた。その顔から、いつもの飄々とした色が消えていた。
「……坊主。厄介なものを見た」猟師は囲炉裏の火に手をかざしながら、低く言った。「連中の退き足を追った。谷を二つ越えた奥。国境の稜線に近い、深い窪地だ。人が住むには水も悪い、痩せた忌み地でな。村の者も近づかん。……そこにあった」
「何が」
「柵だ。丸太を深く打ち込んだ、二重の柵。中に幾棟もの建物。煙が上がっておった。……そして見張りがいた。昨夜の盗賊のなりではない。揃いの革鎧に、揃いの槍。……あれは山賊の塒じゃない。あんな忌み地にわざわざ人と銭を注いで囲った、"何かの拵え場"だ」
ロゴスの指先が、冷たくなった。
柵。幾棟もの建物。煙。人里離れた忌み地。――四年前の記憶が鮮やかに蘇った。故郷の森の奥。誰も近づかぬ場所に隠されていた、あの施設。中で造られていた歪な獣――キメラ。そして、その崩落の瓦礫の上に立っていた、見覚えのある顔の影。
「ノルドさん。柵の内に。……獣の気配はありましたか」ロゴスは掠れた声で問うた。「馬でも犬でもない。もっと大きく、もっと歪んだ。……嗅いだことのない匂いは」
ノルドの眉が寄った。
「……あった」猟師は静かに言った。「風下に回ったとき。獣の糞の匂いに混じって。……肉の腐ったような、鉄錆のような。犬でも猪でもない、嗅いだことのない匂いが。わしは四十年、山を歩いた。……あんな匂いの獣は知らん」
囲炉裏の火が爆ぜた。ロゴスはしばらく動けなかった。
(――ここにもあったのか)
テロスの研究所は、国内に十ヵ所以上。四年前、故郷の森で私が崩したのは、そのうちの一つに過ぎない。……その残りの一つが、よりによって私が逃げ帰ったこの故郷の谷の、すぐ裏手に。
(いや……違う)
ロゴスの思考が、冷えた水のように澄んでいった。
(順序が逆だ。私が逃げ帰ったから、ここに施設があったのではない。……私が逃げ帰ったこの痩せた"誰も欲しがらない谷"だからこそ、連中はここに施設を隠したのだ。人が来ない。役人も来ない。奪うものもないから、誰も見張らない。……無主の忌み地。それは村の畑と同じだ。"守る者のいない場所"は、盗賊にも黒幕にも、いちばん都合がいい)
そして、その隠し場のすぐ隣で、落ちぶれた自分が垣根を引き、兵を鍛え、"守る者のいる土地"に変えはじめた。連中にとっては、長年安全だった秘密の拵え場の目と鼻の先で、厄介な小僧が目を覚まし、勝手に明かりを灯しはじめたようなものだ。
(だから狼を放った。奪うためではなく。……私にこの谷の"目"を開かせないために。私がこの谷を隅々まで見る力を持つ前に、潰しておきたかった)
合点がいった。すべての糸が、この忌み地の柵の内へ繋がった。割り符のもう半分は、そこにある。狼を放った手も、そこにある。そしてその先には――結界札の王命。ギルド。凪いだ目の若い男のいる、王都の高み。
「ロゴスどの」オルドが低く言った。老武人の目が鋭く光っていた。「見つけた、というなら。……どうする。あんな柵と揃いの槍に、鍬の百姓をぶつけるのは、昨夜の比ではないぞ」
ロゴスは割り符を握りしめた。まだ討つ段ではない。敵の巣の形は掴んだ。だが、その中身も守りも、こちらの備えもまるで足りない。焦れば四年前と同じ地獄を、今度は村人ごと味わうことになる。
「討ちません。まだ」ロゴスは静かに言った。「まず、もっと知る。……あの柵の中で何が造られているのか。守りはどれほどか。そして――私は独りでは、あれに手が届かない。仲間が要る。剣も、算盤も、そして」
彼は火を見つめた。ふと遠い森の記憶の中で、ギルドとは異なる紋の杖を掲げた女の姿が蘇った。合成の研究に反対し、森の施設を見張っていた、あの一党。
(――もしあの人たちが、まだこの国のどこかでテロスの施設を追っているのなら)
「魔法を使える味方が要る」ロゴスは言った。「四年前、あの森で私を救ってくれた人たちが。……もしまだ同じ敵を追っているのなら。この忌み地の柵の外にも、きっと"見張る目"がいる。私たちが辿り着くずっと前から」
外の闇の、その奥。国境の稜線に近い忌み地で、煙を上げる柵の内を、誰かがいまこの瞬間にも遠くから見張っているような。ロゴスには不思議と、そんな確信があった。
(続く)
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【今回の理論メモ】孫子「彼を知り己を知れば百戦殆からず」――勝利は、戦う前の"知る"で決まる
古代中国の兵法書『孫子』に、最も有名な一節があります。「彼を知り己を知れば、百戦殆うからず」――敵を知り、自分を知っていれば、百回戦っても危うくない。逆に、どちらも知らずに戦えば、必ず危うい、と。ここで大切なのは、"知る"が剣を交える前の準備段階に置かれている、という点です。戦いの勝敗は、戦場での勇気や技だけでなく、その手前の「情報」で大きく決まってしまう。ロゴスが勝利に酔わず、まず割り符の出どころを追わせたのは、この理屈に立っていました。「相手がどこから、何を、どれだけ送り込むのか。それを知らねば、来る波を数えて怯えるだけの案山子だ」と。
そして、"知る"には順序と作法があります。ロゴスは闇雲に討って出ませんでした。猟師ノルドを放ち、敵の退き足を逆に辿らせ、まず「巣の在り処」を遠くから突き止める。深追いはせず、見張る。狩人が獲物の巣を先に見つけて観察するように、です。焦って自分から仕掛ければ、それこそ相手の思う壺。動くのは、敵の形を掴んでから。この「まず知り、それから動く」という規律こそ、弱い側が強い相手に無謀死しないための、生命線なのです。
現実の仕事や交渉でも、これはそのまま効きます。新しい市場に飛び込む前の調査、相手の手札を読む下準備、自分の強みと弱みの棚卸し――華々しい行動の前の、地味な「知る」作業を省いた者から、罠にはまっていきます。動く前に、どれだけ知れるか。勝負はしばしば、剣を抜く前に半分ついているのです。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
勝ってなお、まず「敵を知る」。孫子の教えどおりの一手です。
辿り着いたのは、四年前と同じ拵えの、忌み地の施設。
テロスの研究所網が、故郷の裏手にありました。
次回、その柵の外で、四年ぶりの再会が待っています。
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