第三章 「覚えました」
それからも彼は私のシフトに合わせてラストにやって来た。
自意識過剰なんかじゃなくて、彼は「次は、いつ来るの?」と聞いてくる。私が正直に答えると、その時間に本当にやって来た。
その度に、色んなことを話す。
看護学校に通っていること。看護師を目指していること。
中学は陸上部、高校ではチアリーディング部として大会に出たこと。
そして、来年の一月に看護師試験のため、バイトを辞めること。
いつしか、私は彼の名前を知らないことに気が付いた。
こんなに何度も会って、他の誰より仲良く話しているのに──名前がポッカリ抜け落ちている。
彼も、いつも私を「君」と呼ぶ。
その日も、いつもの様に彼がやって来る。
私は彼を見付けると手を振る。彼も手を振り返してくる。
私はバーで待つ。
レジで話すのは憚られるけれど、バーならホイップ、ソースを乗せている間に彼と話が出来る。
「このカスタムが好きなんですか?」
いつも彼は、このカスタムを頼む。
やることが沢山あるカスタムだけれど、この長い時間を私はいつの間にか好きになっていた。
「そうだよ。ダークモカチップフラペチーノのロースト抜きで、ホイップ多め、チョコソース普通で、キャラメルソース多め」
「覚えました」
バーゲンセールカスタムと私は心の中で名付けた。
「僕は、ゆうきって言うよ」
ずっと知りたかった答えを唐突に告げられ、私の頭はフル回転を始める。
「ゆうきさん……ゆうきさん……」
何度も何度も、心に刻む。紙とペンが欲しい。
絶対に忘れないように。
「覚えました」
ゆうきさん。ゆうきさん。
何度も心の中で呼ぶ。
すると、私の胸元のネームプレートを指差し
「君は、さえちゃん」
そう言ってゆうきさんは笑った。
それから暫くお店に来ない日が続いた。
一日目は、たまたまかなと思った。
ラストの時間になっても、自動ドアの前に見慣れた影は現れない。
いつもなら、その少し前から意識しなくても視線が入口の方へ吸い寄せられていく。
ガラス越しに見えた瞬間、『あ、来た』と心の中で小さく声を上げるのが、半ばルーティンみたいになっていた。
代わりにやって来たのは、仕事帰りのスーツ姿の人達と、静かな閉店前の店内だけだった。
ホットコーヒーを片手に、真剣な顔でラップトップを打つお客さん。
テーブルに残された砂糖の小袋や僅かに零れたミルクの跡。
それらを一つずつ片付けていく。手元だけは忙しい。
「今日、ラストのお客さん少なそうですね」
今年入って来たばかりの結人くんが裏から戻って店内を眺め、呑気に言い放つ。
緑色の髪に少し猫背気味の立ち姿。真面目で優しい男の子だ。
うん、と相槌を打ちながら、心の中では同意していない。
「今日、鈴のお客さん見た?」
思い切って結人くんに尋ねる。
結人くんは大人しい男の子で、人を茶化したりしない。だからこそ、少しだけ勇気を出して聞けた。
「鈴のお客さん?」
「えーと……感じが良い常連さん分からない?明るくて、人懐っこそうな……結構、皆と話していると思うんだけれど」
自分で説明しながら、思った以上に具体的な言葉が口から出ていることに気付いて、慌てて口を閉じる。
「えーと、すみません。どんな人か分からないです」
結人くんは本当に申し訳無さそうに眉を下げる。
「そっか」
それ以上、特徴を足すのは止めた。
ダークモカチップフラペチーノのロースト抜きとか、ホイップ多めとか……。
口に出した瞬間、それが特別扱いの告白みたいになってしまいそうで怖かった。
たった一日会わないだけで、ブラパッドを入れ忘れたみたいに、胸の辺りが少しだけかぱかぱする。
いつもと同じエプロンを着けて、同じ様にオーダーを読み上げているのに、制服だけがほんの少し自分に合っていない気がした。
二日目は、マストレーナのスチーム音に紛れて、何度かドアの開く音に顔を上げてしまった。
シュワッとミルクを温める音、ガラガラと氷を掻き出す音。
それらに混ざって、自動ドアが開く音がする度毎に、条件反射みたいに首が入口の方へ向く。
だけど入って来るのは知らないお客さんばかりで、鈴のネックレスが小さく鳴る音は一度も聴こえなかった。
スプーンがカップにぶつかる軽い音や、スマートフォンの通知音ばかりがやけに耳につく。
「さえさん、さっきからドアの方ばかり見てません?」
レジに居た灯里ちゃんに言われ
「え、そう?」
と笑ってごまかす。
自分では意識していなかったけれど、指摘されると急にそこだけ浮き上がって感じる。
一番仲の良い栞ちゃんがグラインダの前から顔だけひょこっと出して
「何か気になることでもあるの?」
と不思議そうな顔で私を見る。
左右に付いたお団子頭の栞ちゃんは、少しでも様子が違うと直ぐに気付く。
何も言わずに首を振り、私はいつもの顔に戻る。
自分ではそんなつもり無かったのに、身体の方がフライングしているのが、なんだか悔しい。
目だけ先に期待して、耳のがそれより捜してしまう。
心の中の私より、身体の方がよっぽど素直だ。
「元気無いなら、いつものやつ作ろうか?」
私の元気が無い時に頼むカスタム。栞ちゃんは心配してくれているみたいだ。
「ううん。本当に何も無いよ」
そう言いながら、自分の声の温度を確認する。
本当に何も無いみたいに聴こえるだろうか。
マスクの内側で精一杯の笑顔を作る様に、私は口角を上げた。
三日目には、ラストの時間が近付くのが少しだけ嫌になっていた。
来ても来なくても、そこで一回、胸の中がざわつくことを、身体の方が先に覚えてしまったみたいで……。
あの時間が近付いてくると、心臓が勝手に準備運動を始める。
そして実際には何も起きないと分かると、今度は疲れだけがどっと押し寄せてくる。
わざと時計を見ないように、テーブルの拭き残しを探したり、カトラリを必要以上に補充してみたりする。
ペーパーナプキンの山を丁寧に整え、ガムシロップの向きを揃え、ストックスペースの中まで無意味に綺麗に並べ替える。
「さえさん、そこもう充分綺麗ですよ」
バーに立つ一四七センチの小さな天使──天羽ちゃんが不安そうな顔で私を見つめる。
私の手元と、ぴかぴかになったテーブルとを見比べて、首を傾げている。
「仕事は完璧に──でしょ」
そう返すと、天羽ちゃんは
「さえさんは真面目ですね」
きらきらした目で私を見つめて、続ける。
「私も、さえさんみたいに早く仕事を完璧に出来る様になりたいです」
その言葉は素直に嬉しい。
仕事に関してだけなら、真面目だねと言われるのは悪くない。
真面目なのは仕事の話。
心の中は全然、整頓出来ていないのに。
鈴の音を聴かない三日分の思考と感情が、棚卸しされないまま段ボールに詰め込まれて、裏の隅っこに積み上がっているみたいだった。
四日目の夜。
今日も来ないだろうと半ば諦めていたのに──不意に心臓をトントンとノックされた。
お店のドアは自動ドア。叩かなくても開くクセにと心の中でだけ小さく毒吐く。
アシンメトリの白いシャツに黒のタンクトップ、黒いワイドパンツ──見慣れたその組み合わせが、何事も無かったみたいな顔でレジに向かう。
いつものカスタムが流れてくる。
私はシールにペンを走らせる。
出会い頭に一言。
「僕の名前、覚えてる?」
いたずらっ子の様な顔。
私は、カップをクルッと回して、書いた文字を正面に向けてやった。
『ゆうきさん!今日もありがとうございます!』
ゆうきさんの驚いた顔。嬉しそうな顔。照れた顔。
一瞬でくるくる表情が変わり、ゆうきさんは両手で顔を隠す。
「これは……本当に嬉しいよ!本当にありがとう!」
私は何でもない振りをして笑った。
でもその時、胸のドキドキの理由を一番知られたくなかった相手──自分の頭には知られてしまっていた。




