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第一章 工業街口駅のスターバックス

 土曜日昼過ぎのレジは、大体いつも同じ顔触れだった。


 黒いスーツ、買い物帰りの主婦、人前でイチャつくカップル。


 私は「こんにちは」「◯◯円になります」「ありがとうございました」と、マニュアル通りの言葉を繰り返しながら、その実は今日の授業の復習を頭の片隅でなぞっている。


 高校を卒業して、夢だった看護学校──臨海市(リンカイシ)医師会看護専門学校に合格した。


 それだけで終われば綺麗な話だけれど、現実はもう少しだけ手触りが荒い。


 入学金と授業料、教科書代。それから通学の定期券代。


 定期券代は学校の最寄り駅──工業(コウギョウ)街口(ガイコウ)駅のスターバックスでバイトを始めることで、交通費として賄っていた。




 平日の朝は学校。授業が終わると白い実習着からエプロンに着替えて、夜のシフト。


 帰ってから課題を済ませて、シャワーを浴びて、気付けば日付が変わっている。


 土日は昼から夕方までシフトを入れるから、学校が休みでもここまで来なくてはいけない。


 家の近くでは、定期券代が貰えない。


 あちらを立てればこちらが立たず。

 たまに『こんな生活、いつまで続くんだろう』と思う夜もあるけれど、白衣を着て病棟を歩く自分を想像すると、もう少しだけ頑張ろうと思える。


「こんにちは」


 いつものように声を出して、私は笑顔を向ける。レジの向こうに立っていたのは、初めて見る男性だった。


 年齢は分からない。スクエア型の黒縁眼鏡に黒いキャスケット、アシンメトリの白いシャツが目に入る。オシャレな人だなと思う。


「コーヒーフラペチーノのヴェンティサイズで、チョコレートシロップを追加。持ち帰りで」


 言葉はそっけないが、その声色と無表情とは言えない表情に子供の様な純粋さを感じさせる。感じが悪いお客さんではないことは分かる。


「コーヒーフラペチーノのヴェンティサイズで、チョコレートシロップを追加して、持ち帰りでよろしいですか?」


 オーダーを復唱すると、彼は軽く頷いた。


「うん。そう」


 見た目に反して、言葉が子供っぽい。掴みどころが無い。


 レジのキーを叩き、合計金額を表示させる。


 ここまではいつもと同じ。口も手も、もう勝手に動いてくれる。あとは金額を伝えて、お会計をして、『ありがとうございました』で終わり──のはずだった。


「君、凄く目が綺麗だね」


「……え?」


 思わず顔を上げていた。


 真正面から目が合う。


 仕事中の私ではなく、自分という一人の人間が、突然カウンタの上に引き摺り出された様な感覚だった。


「……あれ? よく言われるでしょ?」


 彼はごく自然な調子で続ける。


 誰かを褒め慣れている人の軽さとも違う。どこかで準備された台詞……という感じもしない。ただ、思ったことをそのまま言葉にした──という顔。


「あ……いえ……。初めて言われました……」


 そう答えながら、自分の声が少し震えているのが分かった。


 レジの表示を確認する振りをして、視線を一度だけ画面に向ける。


「あ、そうなの?僕は一目見て、そう思ったよ」


 どう返せば良いのか分からないとき、人間は取り敢えず仕事に逃げるらしい。


 私は、殆ど条件反射のように口を動かした。


「えっと……六七八円です」


 ボタンを押す指先が、微かに熱い。


 いつも通りのフレーズを口にしているはずなのに、胸の鼓動だけが早送りになっているみたいだった。


 彼はiPhoneをこちらに向ける。


「はい」


 スターバックスアプリのQRコードを読み込む。ふと目に入ったGold会員の金色。


 最後に『ありがとうございます』と頭を下げる。その一つ一つを、意識してなぞらないと崩れてしまいそうで。


「……ありがとうございます」


 そう言葉を添えた。


 彼は自然に笑顔を置いてから、バーの方へ歩いて行く。


 ドキドキと心臓の音が聴こえる。顔が赤くなっているかも知れない。恋ではない。


 ただただ、上手く接客出来ただろうか?それだけの不安が原因だったとその時の私は理解した。




 お客さんの列が途切れたタイミングで、私はバーの方へ回った。


 そこには、同じシフトの日和(ヒヨリ)ちゃんが立っていた。


「どしたの?顔赤いよ」


「え、そう?」


 自分の頬に触れてみる。


 本当に熱い。さっきスチームの湯気を浴び過ぎただけ……ということにしたい。


「さっきのお客さんに何か言われてなかった?」


「……うん」


 パッションティーのピッチャを見つめながら、少しだけ迷う。


 言わなければ、このまま何事も無かった顔で仕事に戻れる。でも、それでは胸の中で言葉が行き場を失ってしまう気がした。


「『君、凄く目が綺麗だね』って」


「え、何それ。ナンパ?」


 日和ちゃんの声が、ほんの少しだけ高くなる。


「違う。連絡先とかも聞かれてないし……」


「じゃあ告白やん、ほぼそれ」


「ちが……そんな大げさな」


 否定しながらも、心臓の音はさっきからずっと落ち着いてくれない。


 あの人の顔や声の調子まで、やけにはっきり覚えている自分が少し恥ずかしい。


「で、何て返したの?」


「……金額言った」


「そこ真面目〜〜!!」


 日和ちゃんが笑って、マスクがポコポコ笑っている。


 その笑いに釣られて、私もつい笑ってしまう。さっきまで胸の中で固まっていた何かが、少しだけ溶けた気がした。


「でもさ」


 お店の音に紛れるような小さな声で、日和ちゃんが続ける。


「そんなこと初めて言われたって顔してたよ」


「……初めてだよ。そんなの」


 自分でも驚くくらい素直に、言葉が口から零れた。


 今まで、容姿のことを褒められる機会が無かった訳ではない。髪が綺麗だねとか、エプロン似合うねとか。


 でも『目が綺麗』と言われたのは、本当に初めてだった。


「ちょっと、裏行っていい?未だドキドキしてる」


「いいよ、行って来な。落ち着いてから戻っておいで、告白された女の子」


「だからちが……」


 最後まで否定の言葉を言い切らない内に、日和ちゃんがクスクス笑う。


 私はエプロンの端をぎゅっと握って、一度だけ小さく息を吐いた。




 裏で深呼吸を二回して、鏡で自分の顔を確認する。


 さっきよりは、少しだけマシになっている気がした。多分。


 仕事は未だ終わらない。


 この後もレジを打って、ドリンクを作って、「ありがとうございました」を繰り返していく。


 でもその日のシフトが終わるまで、どれだけ他の言葉を口にしても──


『君、凄く目が綺麗だね』


 その一言だけは、レジのチャイムの音よりも、ずっと長く耳の奥に残り続けていた。

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