62.プロムの夜
北の宮のとある一室で、俺は女官たちの着せ替え人形にされていた。着替えくらい自分でできるというささやかな主張は、さっき全員に黙殺されたばかりだ。
「しかし、男がこのように着飾らずとも」
いいのではないでしょうか、と言い終わるよりも先に睨まれた。あえなく黙った。
「右手を上げてくださいませ」
「……はい」
言われるがままに右手を上げると、カフリンクスが取りつけられる。
「左手を上げてくださいませ」
「……はい」
今度は左手の袖口にカフリンクスが取りつけられた。
今までお目にかかったこともないような高そうな品だ。なんとかという宝石で大変珍しいものです、と女官が教えてくれた。教わったそばから忘れたので、なんとかとしか言いようがない。
「こちらにお掛けください」
「……はい」
今度は髪にぺたぺたとクリームを塗られ、オールバックに近いような髪型に変えられてしまう。
最後にショールカラーのジャケットを羽織らされると、普段とはまるで別人だった。馬子にも衣装とはこのことだと思う。
別に騎士の制服でよかったのだ。あれだって、王家主催の夜会に着ていったっておかしくない格調の高い装いだ。
鏡の中の自分がやや不服そうにこちらを睨んでいる。
「せっかく王太后殿下がご用意くださったのですから」
「……はい」
ため息をついて鏡から視線を逸した。
「それに騎士の御役目で行かれるわけではないでしょう」
「……はい」
それは、確かにそうなのだ。今日は完全なるプライベートで参加する夜会だ。
「では行ってらっしゃいませ。ローレン公爵代理がお待ちですよ」
「はい」
さっきから「はい」しか言っていないが、ローレン公爵代理という単語を聞いてようやく気を取り直した。
そうなのだ。今日は王立学園の卒業パーティーの日だ。カナハ・ローレン公爵代理も当然参加することになっており、彼女のパートナー役は俺が務めることになっている。
……その、婚約者として。
王宮から借りた馬車で公爵家を訪ねると、ハンナさんが迎え入れてくれた。
「少々お待ちくださいませ」
いつかと同じ応接間に案内される。
それで退室していくのかと思いきや、ハンナさんは興味深そうに俺の観察を始めた。この人、暇なのか。
「騎士の制服で来られるのかと思いました」
「……俺もそれでいいと申し上げたんですが」
ジルムーン女王とルナルーデ王太后がえらくはりきって、一式をあつらえてくれたのだ。俺の言い方から正確にその事情を察知したらしく、ハンナさんはにやにやしながら「ああ、なるほど」と頷いた。
「似合わないでしょう。笑ってもいいですよ」
「いえ、決して……ああ、私から申し上げるのはやめておきましょう。では、こちらでお待ちくださいね」
そんなことを言ってしずしずと退室していく。
やはり手持ち無沙汰だった。いつもと違って刀がないのもいけない。つねに左の腰に提げている重量物がないので、体がそちらに傾いているような気さえする。
刀の代わりに持たされたステッキは、武器替わりになるわけでもなし、強く握ればそれだけで折れてしまいそうで心もとない。ステッキだけでなく、コートも帽子も実用性からはほど遠そうだ。
そういう普段縁のないものをひととおりいじり終えたところで、彼女が現れた。
一瞬どころでなく、言葉を忘れて見入ってしまった。
桃色がかった淡いベージュのドレスだ。よくよく見ると、生地よりやや薄いベージュの糸で花の刺しゅうがほどこされている。八重咲の花だ。ケープルビナだろう。
全体的に淡い色調のドレスだが、胸のやや下で結ばれている黒のリボンと同じく黒の手袋のおかげか、決してぼやけた印象にはなっていない。
まとめ上げられた髪の上で光るのは、あの三日月とケープルビナの髪飾りだ。
見とれていると、
「……おかしいですか?」
彼女が首を傾げた。少し不安そうだ。
おかしいだなんてとんでもない。
「見とれてしまいました」
正直に告白するとカナハ嬢は目を丸くした。それからくすくすと笑い声を上げる。
冗談だと思っているのかもしれない。冗談なんかじゃない、本気だ。
「とてもお似合いです。誰にも見せたくないくらいだ」
夜色の目を見つめ、真剣に言う。
「……まあ。ふふ、ありがとうございます」
今度はちょっと照れたように笑った。かわいい。
「……見て。あなたの色です」
おまけに胸元の黒いリボンをつまんでそんなことを言うのだから、もうどうしようもなかった。
抱きしめたい衝動に駆られたが、彼女の後ろからこちらを睨んでいる老執事や、にやにやしているハンナさんが視界に入り、寸前で耐えた。
「あなたも、そうした装いがとてもよく似合われます。上背がおありだからかしら。髪も、普段と雰囲気が違われて……」
そこまで言ったところで、彼女の頬がぽっと紅潮した。
ああ、そんなことをしたら余計にかわいい。
あまりにあまりで、俺は明後日の方向に視線を逸らした。直視したらまずい。
「──おほんっ。そろそろお時間ですし、向かわれてはいかがですか」
執事に冷静に言われ、現実に引き戻される。
そうだった。遅刻するわけにはいかない。これから学園に行かねばならないのだ。この屋敷から三十分はかかる。学園付近が目的を同じくする馬車で混むことを考えると、もうそろそろ出るべきだった。
「行ってらっしゃいませ」
「行ってまいります」
家人総出で見送られ、公爵家の屋敷を出発する。ぽつぽつと会話を交わしたり沈黙したり、のんびり馬車に揺られることしばし、やがて王立学園の正面門にたどり着いた。
御者が外から扉を開けてくれ、まず俺が最初に下りた。
周囲には、俺たちと同じく卒業パーティーに出席する生徒の姿がちらほらある。その中には見覚えのある顔もいくつかあるが、ひとまずカナハ嬢が馬車から下りる手伝いだ。
車内に向かって手を差し伸べると、黒の手袋に覆われた小さな手が重なった。その手をそっと握り返し、一歩退く。
カナハ嬢が馬車を下りた拍子に、ピンクベージュのドレスがふわりと揺れる。
「ありがとうございます」
彼女が微笑む。
「いえ」
小さく頭を振りながら腕を差し出すと、彼女の手がやわらかく絡まった。
ちょっとくすぐったく思いつつ背筋を伸ばす。
……礼を言うのは、俺のほうだった。まさかこうして堂々と彼女をエスコートできる日が来るとは、思ってもみなかった。
俺ひとりではとてもここまでやって来られなかった。自分で自分に目隠しをして、ずっと迷いながら歩いていたのだから。
まず彼女がその目隠しをほどいてくれた。
そうして初めて、自分の歩く道がいくつも枝分かれしていることに気がついた。目は見えるようになったものの、どの道を行けばいいのかまったくわからなかった。
神様だったりユキムラだったりジルムーン王女だったり王妃だったり、本当にいろんな人のおかげでここまで来たのだ。
背を屈め、カナハ嬢の瞳を覗き込んだ。
気がついた彼女が顔を上げ、俺を見上げる。
その夜色の目の中心には俺が映っている。
……奇跡みたいだ。
「では、参りましょうか」
「はい」
彼女が笑った。頬を少し赤らめ、夜空と同じ色の目の中に俺だけを映して、花が綻んだように、にっこりと。
──第二部 了
お付き合いいただきましてありがとうございました!
これでいったん完結とします。




