戦場へ
部下からの報告は、赤毛からすれば現実味を感じないほど絶望的な内容だったに違いない。そこに私からの挑発も重ねてやったのだ。
赤毛の男が驚愕に目を見開き、怒りと困惑をむき出しにしたような表情で大口を開けたのも無理はないだろう。私が今まで見たこともないほどの動揺ぶりだ。
しかし、すぐに気持ちを立て直したのか、額に手を当てて俯き、ぶつぶつと何かを呟き始める。
耳を澄ませば、数字を数えているらしい。「1、2、3……」と、小さく刻まれるカウントは6で止まった。アンガーマネジメントか。彼の様子をこちらはただ見守る。そののちに顔を上げた彼の表情は、いつもの冷静さを取り戻していた。
「賊の数は?」
彼は、まずは基本に立ち返ることを選んだらしい。その言葉に、部下も一度襟を正して背筋を伸ばす。平静を保ってはいるが、兜で半分隠れた顔から覗く、瞳の光がおちつかない。内心かなり動揺や迷いで揺れているようだ。私は少しばかり興味を覚えながら、彼らのやりとりを傍観していた。
「敵勢力の構成を報告いたします。確認されたのは成人男性が二名、加えて、成人男性の身長を上回る白銀の巨狼が一頭。そして、それよりもやや小型の銀色の狼が十頭、以上です。」
赤毛に報告を終えた兵士は、ちらりと私を伺うように視線を向けてきた。兜に隠れた顔をよく見れば、先ほど私に歴史について質問してきた兵士の一人だ。
この地下に駆け込んできてから今まで、私の存在に意識を向けるどころではなかったであろう彼が、今の私の姿を確かめた途端に表情を驚きで歪めたのも無理からぬ話だろう。ほとんど裸同然に剥かれ、何かの体液が乾きかけて肌にこびりついている、そんな無惨な姿なのだから。何があったのか、誰がこの蛮行を行ったのか、察しがつくのも無理はない。
「クスハ様……!これは……!」
「白銀の巨狼……!?」
兵士は私の無残な姿に狼狽し、声を荒げたかと思えば、赤毛は報告の内容に動揺して声を荒らげる。互いに異なる情報で混乱し、収拾がつかない様子は、端から見れば喜劇じみているが、当人たちの心中はさながら地獄のようだろう。私はそんな彼らの動揺を、ただ黙って見つめていた。
「まさか……それは……。再度確認する。こちらの戦力の壊滅、それに異はないのですね。」
赤毛の男は露骨に狼狽しながらも、報告の意味を噛みしめ、半信半疑ながらその可能性を理解してしまったのだろう。報告の真偽を問い直す様子は、もはや現実逃避のようにも見えた。
問いかけを受けた兵士は、一度私を伺うように視線を送った後、優先順位を判断し、赤毛の問いに対してきびきびと答えた。
「はい、報告に相違ありません。」
兵士は短く返答し、再度姿勢を正した。その態度は軍属らしく整然としているが、しきりに私を気にしている様子も伺えた。内心の動揺は全く収まっていない事が見て取れる。
「……だから、私はあらかじめお伝えしたはずですよ。このまま私を捕らえていれば、向こうから迎えに来ます。そして、私を客人として扱えば、あのお方の怒りも和らぐ、と。」
茶化すつもりはなかったが、つい口を挟んでしまった。少しばかり意地悪な気持ちが顔を覗かせたのは否めない。私が語った真実を「魔女の戯言」と切り捨て、自らの都合の良い妄信に逃げ込んだ末の現実に、それでもなお抗おうとする彼の姿勢には、どこか愛嬌すら感じてしまうのだから。
眉を潜ませながら目を白黒させる赤毛の様子には、思わず吹き出しそうになった。けれど、ほんの数秒の逡巡の後、彼はすっとその表情を消した。感情を押し殺したような、焦点の定まらない座った瞳をしていた。
赤毛は私にも、報告を終えた部下の兵士にも一瞥すらくれず、無言で歩き出す。その足が向かったのは、壁に立てかけられていた彼がその杖を手にした瞬間、まるで何かの決意を固めたように見えた。その硬直した肩や、わずかに震える指先が、彼の内心を隠しきれていない。
「神と人の差が力であるならば、それを制した者こそが、神であるのだ。」
独り言だろうが、私は生憎と耳が良く、聞きたいわけではないが聞こえてしまった。いつかも誰かから聞いたような内容だった。
(……そういう開き直りが、いい結果になるとは思えませんが。)
それで彼がこれから何をしようとしているのか、推理は容易かった。手にした偽りの神狼様の力をもって、本物を討つ。それは、彼の信じる正義と誇りを守るための、最後の賭けなのだろう。もはやそれしか、今の彼には残されていない。
その姿があまりにも痛々しく、私は憐憫を抱かずにはいられなかった。
「ご武運を、と、一応申し上げておきましょうか。」
そう声をかけたが、返事はない。彼は私の声など届かないように、ただ無言で部屋の出口に繋がる階段を登っていった。
静かに閉じた地下牢の扉の音は、妙に無慈悲で、乾いた響きとして耳に残った。それは、彼が選び取った破滅への足音のようで、私はその背中を見送りながら、彼の姿を目にするのはこれで最後だろう。そんな予感がしていた。
「……魔女殿。」
共に場に残された兵士が、私に呼びかけるまでに少し間を空けたのは、赤毛が戻ってこない事を確かめてからにしたかったのだろう。
「貴女は我らが陣営においては咎人と見做され、その立場ゆえに相応の処遇を受けざるを得ません。ゆえに、一部の非道な扱いについて、私が庇護を申し出ることは叶いません。しかしながら、神の御教えに仕える身として、いや、一人の人間として踏み越えてはならぬ聖域はあると信じております。無論、謝罪によって贖えるものではございませんが、それでも……。」
彼は私が閉じ込められている牢にゆっくりと入ってきた。視線をなるべく逸らしながらも、羽織っていたマントを脱ぎ、そっと私の身体に被せる。その苦々しい表情とともに紡がれた言葉を、私は首を小さく横に振ることで遮った。
「……貴方はどうなさいますか?殿方ですから、しがらみも多いのでしょうけれど、あまり一つの視点にこだわりすぎると、自ら選択肢を狭めますよ?」
私の言葉が誰を差す意図なのかを察したのだろう。彼は少し苦い笑みを浮かべ、立ち上がって私に背を向けた。
「……神狼様の事実を信じてくれた貴方であれば……。」
私がそう声をかけると、彼は再び口を開いた。今度は彼が私の言葉を遮るように、高らかでありながらも、強い意思を秘めた声色だった。
「誠に心苦しいことながら、私の立場においては貴女の枷を解き放つことは許されません。しかしながら、この場の様相が外敵の知るところとなるのは、もはや時の問題かと存じます。どうか、天恵の導きを信じ、しばしの間、耐え忍ばれますよう。」
彼の言葉には、私を思いやる気持ちと、彼自身の立場に対する葛藤が混じっていた。それを感じながら、私は彼の背中を見つめていた。
「貴女にこのような言葉を向けるのは、天を駆ける竜に風の流れを説くようなもの。しかしながら、人の世の驕りを正し、大地を浄めるのは神狼様の御心。」
そこで男は一度言葉を止め、わずかに私に振り返った。その口元には、晴れやかな笑みが浮かんでいた。
「ならば、その御意志に身を委ね、己が炎に焼かれることもまた、崇高なる奉仕であり、進むべき神道と心得ております。」
私が言葉を伝えれば、神狼様は間違いなく彼の身を案じてくれる。それを感じ取り、彼は私の言いたいことを先回りしてそう言ったのだろう。
「……最後に真実へ辿り着けたことこそ、神狼様のお導きなのでしょう。貴女と巡り合えたことに、心より感謝いたします。……ヴァルドとエリオットも、きっと、最後は今の私と同じ気持ちであったと思います。」
その一言だけを残し、彼は赤毛と同じように、私の返事を待つことなく、牢から出て行った。そして、牢の鍵を閉めることなく、この部屋の出口に向かい、静かに階段を登り始めた。
ヴァルドとエリオット。知らない名だが、おそらく私の歴史の授業を、彼と一緒に受けていた二人の事だと思う。
……あの物言いでは、そういう事なのだろう。
あの二人に殉じるためか、あるいは、真実を知ることによって、初めて気づいた罪でもあったのか。
彼の胸中がどんなものであったのか、今となっては私には知るすべもない。だが、見送った背中から感じたものは、揺るぎない信念と覚悟を持つ、殿方のそれだったように思う。
それでも。私の話を信じてくれたあの三人が、神狼様を前に、笑顔を浮かべている光景を見たかったと、私はどこかでそう感じていた。その名残が、少しだけ私の胸に、ひっそりと差し込んでいた。
………………。
こうして一人になってみると、ふと感じる寂しさが、なんとも呑気だとは思う。
牢はもはや、私を縛るものではない。抜け出すことなど容易いはずだ。しかし、手錠と首輪の戒めは、今も変わらず私を束縛している。無闇に歩き回るのは危険だ。ここでじっと待つ方が無難だと、今はそう判断した。
待つ。
……誰を。
その思考に至ると、再び自らの現状を突きつけられる。薄汚れた身体に、己の弱さを、無力さを感じずにはいられない。あの方が、もし今、私を見たらどう思うだろう。彼の目には、私の姿がどんな風に映るのだろう。
その考えに、胸が申し訳なさだけで締め付けられる。彼の顔を思い浮かべるだけで、心が重く沈み込み、冷たい感覚が広がる。何もできず、ただ待っている自分に、申し訳なさが増していく。
気を紛らわせる相手がいなくなると、ようやく私は自分がどれほど傷ついていたのか、心も体も、今更ながら痛感する。過去の痛み、そして今なお汚された身体を抱えて、私は一体どうすればいいのか。どんな顔で彼を迎え入れればよいのか。もはや自嘲めかせて、笑う事しかできなかった。
・・・・・・・・・
時計塔の屋根の上、夜空を白く染める吹雪が吹き荒れる中、アリスは長い金髪をなびかせながら、眼下に広がる混沌とした街の光景を見つめていた。あちこちで舞い上がる砂埃、夜闇を切り裂くように燃え上がる炎、そして無残に崩れゆく建物たち。その光景を前に、彼女は大きくため息をついた。
「バカなのあいつら。壊した建物の中に魔女ちゃんがいる危険性とか、考えもしないの?」
アリスの嘲笑混じりの声は吹雪にかき消されることなく響き、隣で同じく街を見下ろしていたマルメロが軽く頷いた。吹きつける風に舞うスカートを片手で押さえながら、彼女は微笑ましげに応じる。
「マーナガルム様も、思った以上にレオン様たちの抑止力になってないですね。まあ、殿方ってやつは、いくつになっても戦争ごっことなれば盛り上がっちゃうものなんでしょうね。」
皮肉めいた口調ながらも、どこか楽しげな表情のマルメロ。その隣では、サクラが腕を組み、真剣な眼差しで街の様子を見つめていた。暴食者たちが暴れまわり、街の一角を丸ごと飲み込むような勢いで喰らいつくしていく。その戦果は圧倒的で、行っている側からすればこれは戦争と呼んでいい代物ではない。まさに「ごっこ遊び」も同然の光景だった。
「……本当に、あの方たちを敵に回さずに済んでよかった。」
感嘆とも畏怖とも取れる低い声でつぶやくサクラの視線は、街を蹂躙する破壊的な力に釘付けになっていた。吹雪と戦火の中、三人は街の終焉を見つめ続けていたが、次第に話題は魔女の幽閉場所に移っていく。
「領主館の地下、一番頑丈な建物ですし、易々と壊されは……」
サクラが珍しく楽観的な言葉を口にしかけたが、アリスの冷静な指摘がそれを遮った。
「するでしょうから、まぁ私が直接伝達に行くわ。今から止めに行けば間に合うでしょ。伝達の札だって安いもんじゃないんだから。」
アリスは皮肉げに肩をすくめ、視線を街の混乱から外さない。その目線の先では、暴食者たちが残虐行為を繰り返し、煙と炎と悲鳴が交錯する最前線が広がっていた。サクラが眉をひそめる一方、マルメロは軽く苦笑し、アリスの決断に納得したように頷いた。
魔女の幽閉場所の特定は、予想以上にあっけなかった。街の通りを逃げ惑う人々の中で、数名の護衛を連れて寝間着姿のまま荷物を馬車に積み込んでいる貴族らしき男を見つけたのだ。
混乱の中でも丁寧な挨拶を欠かさず、礼儀正しく丁寧な言葉と殺意を込めた笑顔で応対した三人。ほどなくして彼の部下たちが地面に這いつくばる頃には、最初は傲慢な態度だった彼も、「重要な囚人であれば領主館にいる可能性が高い、別塔か、地下か、そのあたり」と命乞い混じりに情報を漏らすことになった。
領主館の位置を確認するのは難しくなかった。高所から街を見下ろせば、小高い丘の上に建った、一目でわかる壮大な造りの館があり、マルメロの探知魔法が地下に潜む気配を察知するまで、少し時間はかかったが、隔離された場所に小さな気配が一つ、おそらくあれだ。
魔力の気配が極端に小さい事が、逆にそのような仕掛けがあるのだろうと推測もできればなおのことだった。そんなものでもなければ、彼女なら一人で勝手にそこから這い出ているはずだと。
「……抜け道も気になるんですよねー。せっかくマーナガルム様が橋を落として逃げ道を封鎖しましたけど。この戦況じゃ逃げるしかないってバカでもわかりますよ。抜け道使って敵さんが主様連れて逃げ出すって線もありえなくないですから、先に抑えておくべきでは?」
マルメロが口にした危惧は、先ほどの男が逃げようとした際、馬車の進行方向が唯一の門ではなく、別の方向へ向かっていたことだ。
城塞都市であれば、出入口が一つということは考えにくい。特に身分の高い者たちが集うこの街では、非常時のための隠し通路や秘密の抜け道が設けられているのは当然だろう。あの男は、それを知っているからこそ別の方向へ逃げようとしていたのかもしれない。
ならばその方角の先を検分して潰しておくべきではないか?と。
「いや、それならば私達が、すぐ飛び出せる位置で主様の傍に臥せよう。万一その状況が発生してしまえば、魔王には申し訳ないが、私達が主様を確保すればいい。それ以外の木っ端どもが多少逃げる程度はこの際見送っていい。それに、そいつらを後から追いかける形になったとしても、こちらはそれで間に合う戦力だ。」
サクラが風に髪を遊ばれるまま、冷静に言葉を返す。マルメロの意見はもっともだが、わざわざその通路を探して潰すよりも、既に居場所が知れている対象を、運ばれないように保護する方が話が早い、と。
「そういう体裁で、救出の一番のりを奪いたいかしら。まぁでも、二人の意見はもっともね。ごめんなさいね、うちの坊やが我儘いわなきゃ、私達で魔女ちゃん助けてそれで終わる話なんだけど、手間増やしちゃって。」
アリスは指先で軽く髪を撫でる仕草をしながら、冗談めかせた言葉を重ねるが、サクラの提案自体は受け止めたようだ。マルメロも小さく笑いながら軽く頷く。
その言葉に、サクラは軽く微笑んだ。
「……そういうつもりはないのですが、参りましたね。」
彼女は一瞬視線を落とし、静かに息をついてから、再び遠くの戦場に向けて目を向けた。
「ですが、もう目と鼻の先ですよ。」
サクラの視線は再び遠くの戦場に向けられた。魔王たちの進軍は、もはや領主館のすぐ近くまで迫っているようだった。戦闘の音がますます激しさを増し、空を赤く染める炎の柱が立ち上っている。無数の人々が焼かれる悲鳴が風に乗って響き、まるで戦場全体が息を呑むかのように、暗闇の中で破壊の嵐が続いていた。
……街はもはや、蓋をあけた地獄の窯の中身が漏れ出したような光景を呈していた。彼らの進んだ跡に在った建物は次々と崩れ、街路はもはや歩く場所もないほどに瓦礫で埋め尽くされていた。
「それじゃあ、私はあのバカたちの頭を少し冷やしてくるから、もしもの場合はうちのぼうやに気を遣う必要はないわ。魔女ちゃんの安全を最優先に行動して。」
アリスは言葉を終えると同時に、軽やかな動作でカーテシーを二人に向けた。雪を舞わせる冷気の中で、その姿がどこか優雅に見える。返事も待たず、アリスはそのまま足元の屋根を軽く蹴り、舞い上がるように宙を舞った。彼女の靴底が雪の積もった屋根を滑る音が静かな夜空に響き、風を切るようにして飛び立つ。
彼女の体は、まるで風に吸い込まれるように戦場の最前線へと向かっていった。広がる戦火の中、炎が天空を赤く染め、煙が夜空に立ち昇る。遠くでは、爆音と共に建物が崩れ、空気が揺れるような衝撃を感じる。その中を、アリスの姿は次第に小さくなり、やがて闇の中に消えていった。
「そういえば、どういう関係なんですかね、アリスとレオン様って。」
時折彼女は魔王をぼうやと呼ぶ。そこから伺える関係が少し不透明だが、今する話でもないだろうと、サクラからの返事がなかった事をマルメロも特に気にしなかった。
それよりも、今は自分たちの仕事を全うしなければならない。先んじて目標の安全確保のためにと、アリス同様に塔の屋根を蹴った。マルメロも同じように続き、瞬時に夜空へと舞い上がる。風が二人を迎え、雪が舞い散り、冷たい空気が肌を撫でる。
遠くに燃え盛る炎や崩れた建物の煙が立ち上る街を背に、二人は一緒に進んでいく。爆音が時折響く中、サクラとマルメロは暗闇に向かって溶けるように消えていった。
・・・・・・・・・
領主館の重い扉を開けた。その瞬間、冷たい風が廊下を抜けてきて、顔をひと撫でしていった。
夜なお明るいと感じる程の炎の柱が見下ろす街を照らし、音もなく焼け落ちていく建物の残骸が見え隠れする。何もかもが今、崩れ去ろうとしている。このままではこの館も、あの炎に巻かれるのはもはや時間の問題だろう。
足元に、しつこく絡みつく領主の足音が聞こえた。
「し、司祭どの!も、もうよい、大事なのは儂と儂の家族だけじゃ!もう町など見捨ててよい、儂の安全だけでも教団の方で……首都への転移の札の数枚くらいはあるのじゃろう!金ならいくらでも……!」
その声が耳に入るたびに、胸の奥がぎりっと痛むのがわかる。なんだこの醜悪な豚は。いや、豚に失礼だ。豚の方がよほど愛嬌もあるし、喰らえば貴重な栄養にもなる。こいつのどこに助ける必要性を感じろと言うのか。
私はじっと足元を見下ろした。自分で自分が無能だと気づくことすらできずに、みっともなく泣きじゃくるしかできないこの愚者を、蹴り飛ばしてしまいたい衝動を抑えるために、心の中で鉈を何度も振り下ろす。
その間、必死に仮面の笑顔を取り繕いながら、私は言葉を紡いだ。
「領主様。ご心配であれば、最低限の荷物を選別して疾く、ご家族を連れて抜け道より一時安全な場へご避難ください。私が賊を掃った後にごゆるりと戻れば……。」
……だが、返ってきたのはまた、下品な男の泣き声とともに続く言葉だった。
「……ここまで焼かれた街の復興にいくらかかると思っとる!わしの財産など吹き飛ぶわ、こうなればもう立場などいらぬ、末端の田舎の領主なんぞケチな身分はもういらぬ!どうか、これからは安全な中央で……階級は今より下位でもよい!なぜじゃあ、なぜ何もしとらん、儂の土地がこんな……!」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、男は震える声で訴えてくるが、私は心の中で吐き捨てる。何もしなかったからだろうと。
賊の目的は魔女の救出のはずだ。それならばもっと静かに、隠密に事を起こすと思っていたが、蓋をあければこれだ。魔女の救出という大前提にのっかかった乱痴気騒ぎ。ここまで街を蹂躙する熱意を抱かせる感情とは、考えるまでもなかった。
貧民街の惨状を思い出せば、理由はいくらでも想像できた。あの場所に住む者たちは、もはや犯罪が日常となり、何も恐れずに暴れまわっていた。だから、こうなった。この賊は、やつらの代弁者だ。
足元で必死にすがりつくこの男を見下ろしながら、私は再び心の中で思う。こいつの目を覚ますのは、もう無理だろう。
「……どうぞお急ぎください。」冷ややかな声でそう言った。
もはやこの男に構うだけ無駄だと、歩む足の速度を速めた。向かう先は、熱気と狂気に満ちた戦場。町は既に壊滅寸前だ。もう一分一秒も無駄にするわけにはいかない。
頼みは、杖に秘めた神狼様の神力。あの魔女を捕らえたのも、この力があればこそ。
目を閉じ、深く息を吸い込む。冷徹な心でその息をゆっくりと吐き出しながら、杖を力強く空に向かって掲げた。気を集中し、内なる魔力が渦巻くのを感じる。
刹那、魔力が急激に膨れ上がり、空気が一瞬で変わる。周囲の静寂が破られ、渦巻くエネルギーの音が耳に響いた。それは、まるで世界のすべてを巻き込んで変容を引き起こすような音だった。
放たれた神秘的な輝きが周囲を照らし、闇の中からひときわ大きな影が現れる。その影は、まるで大地を揺るがすような重さを持って、徐々に形を成していく。
一瞬の後、目の前に現れたのは、巨大な白色の狼神狼、マーナガルムの現身。獣のような瞳が、忠誠を訴えるようにじっとこちらを見据えていた。彼の体躯は圧倒的で、まるで大地そのもののような力強さを感じさせる。
私はその背に飛び乗り、すぐさましっかりと体勢を整える。鞍も鎧もなく、ただ素手でその背に跨るだけだったが、何一つ不安はない。まるで最初からその背に乗ることが運命づけられていたかのように、私は神狼の上での自分の位置を確立した。
私の決意に応えるように、神狼は低く唸りながら一歩を踏み出す。その足音は、重く、そして確かなものだった。その一歩が地面に響き、戦場に向かう力強い進行の始まりを告げる。
そのまま、巨躯は戦場に向かって一直線に駆け出す。力強い脚の動き、風を切る音、そしてその背から伝わる生き物の本能に満ちた力強さが、私にさらなる勇気を与えてくれる。
前を見据え、片手に収めた杖をしっかりと握り直す。目の前に広がる戦場が近づいてくる中、もう躊躇いはなかった。神狼から伝わる存在感、躍動感、これがあれば、相手が魔王とて後れをとるつもりはないと、戦場に踏み込む事への恐れはすぐに、高揚感に書き換わった。
「私の信じた教義が、偽りのはずではない……!」
これならば、相手が何者であれ討ち果たせる。魔女を捕らえた際の高揚と興奮が蘇った勢いも手伝い、決意と自信を胸に、私は神狼とともに駆け抜けた。
戦場へ。