姉と妹 5
「嫌じゃ嫌じゃ嫌じゃあああああああああ!!風呂は一昨日入ったばかりじゃろうがあ!!なぜお主はそう隙あらば我を風呂に入れたがるんじゃああああああああああああああ!!」
「その一昨日にお風呂に入る前より、身体を汚したんですから、当然の帰結です、血糊は時間がたつと落ちにくくなるんですから、今すぐ洗います。」
「ああああああああああああ!痛いぃいいいいいいいいいい!!!尻尾を引っ張るなああああああああああああああああああ!!!!」
「そりゃ、クリスやメリィを襲った獣を返り討ちに屠った返り血とかなら、私もここまでしませんよ、なんですか、血抜きするつもりで庭に置いておいた鹿かじって血まみれとか……アホですか、その辺の飼い犬でも待てくらい言えば聞く分別はありますよ。」
「神である我の眷属が我の為に狩ってきた供物を我が口にして何が悪いんじゃああああああ!!その時はすごいお腹減ってたんだからしょうがないじゃろお!!」
「神として供物をお求めなら、神を称えるために恭しく設けられた祭壇で、しかるべき態度をもってお受け取りください。野良犬のごとくそこにあったから拾い食いとか恥を知りなさい恥を。」
「いやああああああああ!!だから尻尾!千切れる!ちぎれる!なぜそこまでして我を洗うううううう!!」
「あなたの飾り毛に埋もれてうとうと惰眠を貪る側の立場も考えてください。そんなに鉄臭いと落ち着かないんです、私が。」
「お前お前お前ー!!神格である我に対する敬虔とかそういうのもっと感じさせて!?!惰眠なら自分の寝床でして!?我はお主の布団ではなくて、我、神ぞ!I,m God!Yes!God!」
「そのような高貴なお方であればなおのこと、それにふさわしいお姿で在りましょうとそう申し上げております。貴方様がかようにみずぼらしい様でありましたら、それこそ神狼の一門の恥、そのような事態を許容はできかねます。」
「もっともらしく言葉を飾っておるが、要は我の飾り毛でお主が遊びたいから洗いたいってだけの話じゃろうに!!」
「正しく私をご理解いただけているようで恐縮です、ではお風呂へ参りましょう。疾く。」
「ぬおおおおおおお!一体誰じゃ!こんなわがまま勝手の聞かん坊を我らの一族の君主と定めたのは!!!」
「その件につきましては後ほど鏡をお持ちしますのでそれでご確認いただければ。」
「だから尻尾を引っ張るな怪力ゴリラああああああ!!いくから!風呂は行くから!やーめーてー!!」
「……。」
門を通った邸宅の庭に、白銀の神狼は、確かに居た。少し高い男性の声で、ずっと悲鳴を上げたり叫んだりしていたが。居るには居た。
そして神の尻尾を、そうと知った上で引きずりながら少しすこし私情も交えながらの説教をしている、怪力ごり、否、黒いフードを纏った、マルメロよりも年下にしか見えない背丈の低い、眼鏡をかけたあの小さな女の子が、件の……。
あれが、互いが互いに尊敬を抱き、慈しみ合っているという、魔女と神狼。
多分そうなのだろう、いやワンチャンまだ何かの間違いの可能性が。
「姉しゃまっ、ガルナしゃまっ、喧嘩はだめだよーっ。」
「く、クリしゅぅううう!たしゅけてええええ!お前の姉がひどいんんじゃああああああ!!」
確定した。してしまった。
二人の元に駆け寄っていった、小さな少女に泣きついているのが神狼、小さな黒い女の子が、魔女。
何とも言えない顔をしているマルメロの表情を確認してから、ルーナを見上げると、顔を逸らされた。
「主様、マーナガルム様っ。……ただいま戻りました。」
それでもさすがに見かねたのか、大きくわざとらしい咳払いを一つしてから、私を抱えたまま彼は二人の間に割って入った。マルメロも、少し遠慮がちにその後に続く。
マーナガルム。クリスのガルムという呼び方は愛称のようだ。
そう呼ばれた巨狼と、こうして近くでみると殊更小さく見える黒フードの少女の目線はこちらに向いた。
「なんじゃそれは。」
白銀の狼は先ほどまえは魔女の少女に引きずられるのに抵抗しようと、伏せの体勢だったが、のそり、上体を起こしてルーナを、否、ルーナに抱かれた私とマルメロに視線を向けた。
私達よりもはるかに高い位置から私達を見下ろす瞳は鋭く冷たく、殺意までは無いが、明らかに歓迎はしていない、そんな色を立ち込めさせた巨大な神が目の前にいる。
先ほどまでの冗談めかせたやりとりが記憶にあっても、それだけで、存在感と威圧感に圧倒されそうになる。
マルメロが腰を抜かしてその場にへたりこんだが、私とて、ルーナに抱かれていなければ分からなかった。
「今更威圧して、体裁保とうとかだいぶ手遅れです。お客様、うちの駄犬が失礼いたしました。」
「駄犬ってお前。」
「ルーナとクリスが連れてきた以上は、お客様です。」
「いやそっちではなく駄犬ってお前。」
露骨に威圧してきた巨狼とは対照的に、黒フードの少女、魔女の方の態度は柔らかいように感じた。
頭にかぶっていたフードを外しながら、彼女は穏やかにほほ笑んでいた。
見た目だけの話をするなら、マルメロよりも下、10歳に届くか届かないかくらいの年齢と伺える。
クリスの鮮やかなピンクブロンドの髪色とは異なり、彼女は黒。
少し青も混じった私の黒髪よりもさらに黒味が強い髪をみつあみで左右にまとめているのが、殊更彼女を幼く見せている。
瞳の色も違う。クリスは太陽のような金に対して、彼女の瞳は夜に青く輝く月の色のよう。その輝きを、少し無粋と感じさせるデザインの丸眼鏡が飾る。
顔立ちも、可愛らしく整い、小動物のような愛くるしさはあるが、クリスのように将来はきっと美人になるだろうと思わせる、そういう飛びぬけて惹かれるほどの魅力まではない。
服装も、ところどこに青の差し色はあるが、基本黒のフード付きの地味なマントをだぶだぶに纏っている。魔女らしいといえばそうだが、魔女と呼ぶには、彼女はあまりに可愛らしすぎる。
華も乏しく、端的に言えば地味。素材自体は悪くないから、適切に着飾ればまた印象が大きく変わるのだろうが……、見た目の印象を一言で表現すると、「黒い子犬」。そのような少女だった
ただ、大の大人が数人がかりでやっと動かせそうな、神狼の巨体を、尻尾を素手で引きずっていた光景を思い出すと、見た目通りでないことは明らかだろう。
「お姉しゃんのほうが、サクラしゃま、妹しゃんが、マルメロしゃま、お姉しゃまに御用事なんだって。」
「ありがとう、ご案内と、それにおつかいご苦労様。ご褒美は何がいい?」
お使いの成果である籠を両手で掲げながら、私たちの紹介を終えたクリスの額に、彼女は口づけを落とした。クリスはご満悦に歯を見せて笑う。
「ホットケーキに、はちみついっぱいかけていい?」
「寝る前に歯磨きをちゃんとするなら、はちみつもバターも、好きなだけね。」
こうしてみると年の近い、仲のいい姉妹にしか見えない。わぁい、と手を上げて喜ぶ妹、それを嬉しそうに見つめる姉。
髪も瞳も何もかも違うし、彼女はおとぎ話の中の『魔女』。姉妹と言っても直接的な血縁のそれではないだろうが、そんなことは関係はないだろう。本人たちが、その絆を疑わないのであれば。
「さて。」
黒髪の魔女は、私たちに改めて向きなおすと、優雅なカーテシーで一礼を向けた。
「人としての名と記憶を失いました身の故、『魔女』、私の事はそうお呼びください。サクラ様、マルメロ様、本日はこのような辺境の地にはるばるご足労いただきました事、嬉しく思います。何分、このような僻地ですので大したおもてなしもありませんが、ご容赦のほどいただけましたら、幸いです。」
「あ、あの……。」
そのように丁寧な挨拶は予想外で、間抜けにも私は返事に詰まった。失礼のないように、そう事前に注意されていたにも関わらず、先ほどの巨狼とは違う意味で、彼女に圧倒されてしまった。
確かに丁寧で、穏やかな笑顔だが。この笑顔は仮面だろう。巨狼のように露骨な威嚇などしてこないだけで。彼女の内心はまだ読めない。
「全く、どっかの駄犬がバカやってなきゃ、すぐにお茶の準備に入れたんですけどね。ルーナ、お客様を客間にご案内したら、すぐ湯浴みの手配をして、私の惰眠用の寝床を綺麗にして差し上げてください。お茶は私が用意しますから。」
「承知致しました。」
「お主我の事ほんとに敬う気持ちある?今日我の扱いひどない?」
「私の貴方へ扱いに関してはこれが平素です。」
「おねーしゃま、私は何したらいい?」
「クリスは籠をそのまま倉庫に置いたら、一旦私の所へ。あとはルーナのお手伝いを。」
「はーい。」
彼女がこうして冗談も交えた言葉を身内と楽し気に紡いでいる時の空気がきっと本来の彼女で。
「さて、マルメロ様、ご自分でお立ちになれますか?ご無理なら私がサクラ様同様にお運びいたしますよ?」
「だ、大丈夫、で、ですっ、も、申し訳ありません、お見苦しいところをっ……。」
腰を抜かしてへたり込んだままだった妹に手を差し伸ばしながら笑顔の仮面を張り付けた今の彼女が、魔女としての彼女なのだろう。
想像していた『魔女』とまるで何もかも違う。可愛らしい無垢な子供に見えて、それは外見だけ。
目の前の『黒い子犬』の、この幼い愛くるしい容姿は、獲物の目を欺くための罠なのかもしれない。




