明日の日暮れまでに、きちんとお返事をします
「姉様っ!さすがに今のは笑って済ませていい話ではありませんよっ!」
「いやクリス、お前の姉君はどうにも照れ屋が過ぎるだけだ、俺なら構わぬ……。」
「レオン様!ここでそのように甘やかすのは、違うと思います!失態に対しての態度は毅然とすべきです!」
・・・・・・・・・
……どうにも困った事態に陥ってしまった。
私は魔王、レオン様への恋心を自覚してしまった。だが、自覚したところで、その感情を認めることなどできない。私は何度も心に蓋をして奥底に押し込めようとした。こんな気持ちはただの一時的な迷いだと、そう言い聞かせながら昨晩は床に就いたのだ。
昨日の呪いの騒動を、私が「なかったこと」にしてやり過ごそうとした意図も、皆は理解してくれた。
気の迷いが晴れるまで、このまま穏便にやり過ごせばいい。そう思っていたのに、それは叶わなかった。
今や私は、まともにレオン様の顔を見られなくなってしまった。
朝食を終え、少し体を動かそうと庭へ出た。
日差しは淡く、柔らかく、葉の間を通り抜ける風が心地よく肌を撫でる。遠くで鳥のさえずりが響き、時折、風に揺れる木々の葉がカサカサと音を立てる。
苔むした石を踏みしめながら歩き、今日は穏やかな一日になるだろうかと期待していたところ、魔王様とクリスに鉢合わせした。クリスは練習用の剣を手に素振りを繰り返しており、どうやら魔王様がその練習を見ている光景だったようだ。
二人は私に気付くと、動きを止めて笑顔で挨拶をしてきた。
そこでレオン様と目が合った。それだけで、押し込めていたはずの感情が蓋を弾き飛ばし、溢れ出してきたのだ。
嗚呼、私はこの人のことが好きなのだ。心の奥底の私が囁く。
彼の笑顔を目にしただけで、ふわふわとした幸福感が胸を焼き、思考は乱され、情緒は翻弄される。頬が熱を帯びるのを自覚しながら、それを隠す術も見つからなかった。
それだけならまだ良かったのだが、私は羞恥心と混乱のあまり、無防備に近寄ってきた彼を思わず両の掌で突き飛ばしてしまった。
彼と出会った初日に、怒りに任せてそうした程の全力で。
普段、彼の軽口に対して、腕力でたしなめることはあっても、加減くらいは心得ていたはずだ。しかし、今回は違った。
庭に生えていた樹の幹に激突するまで止まらない勢いで、吹き飛ばしてしまった。さすがにこれはやり過ぎだった。
彼がどれほど頑丈であろうと、それに甘えていいという話ではない。
私の幼稚な癇癪を目にしたクリスがこれはさすがにひどい、と怒るのも無理はなかった。
「も、申し訳……ありません。」
やってしまった、そう思った時には、もう取り返しがつかない失態だった。身体についた雪や木の葉を払いながら戻ってくるレオン様の姿に、私はただ頭を下げることしかできなかった。
「姉様!どれだけ照れ屋でも、これは行き過ぎです!」
クリスの鋭い叱責に、私は言い返すこともできず、ただうつむくばかりだった。彼女の目に浮かぶ涙は、私があまりにも情けない姿を晒してしまったせいだろう。その瞳は、まるで「そんな姉様を見たくなかった」と訴えるかのように揺れている。私は、どうすることもできず、ただ縮こまりながら彼女の厳しい言葉を受け止めるほかなかった。
「まあ、とはいえ……そのような顔をされては、怒るにも怒れん。」
レオン様がそう呟いた瞬間、私ははっと顔を上げた。自分がどんな顔をしているのかはわからなかったが、きっとひどい表情をしているのだろう。彼が怒るのもためらうほどに。
むしろ、怒りに任せて怒鳴られた方がどれだけ楽だっただろう。こんなふうに優しく諭される方が、よほど辛い。胸の奥が締めつけられるような感覚に耐えきれず、再び俯いてしまう。
この状況に耐えかねて、私は二人に背を向けた。
逃げよう。
卑怯で恥知らずな考えだと自分でもわかっている。それでも、今の私にはその場に留まるだけの気力がなかった。自分の感情に押しつぶされそうで、どうにかして逃げ出したかった。
足音を響かせながらその場を駆け出そうとした。が、寸前で足を止めた。
これでどうなるというのだ。
逃げたところで、後に待っているのは、また同じ葛藤と苦しみだけ。
問題を先送りにするだけで、何一つ解決はしない。
「レオン様……。」
振り返る勇気は、どうしても湧いてこなかった。だから背を向けたまま、小さく彼の名を呼んだ。
自分でも驚くほど、声が震えていた。
けれど、その一言には、私なりの決意を込めたつもりだ。
私の背中の向こうにいる相手は、同じ屋根の下で暮らし、日々を共にしている人だ。
この感情を押し込めたまま、目を逸らし続けるのは無理がある。また同じことを繰り返すのは目に見えている。
ならば。
……ならばどうしたらいい?
逃げたい気持ちと、それを抑え込もうとする理性。その狭間で、私は身動きが取れなかった。
心臓が早鐘のように打ち、喉の奥がカラカラに渇く。進むべきだと頭ではわかっているのに、足がすくんで動かない。
いずれ答えを出さなければならない。それはわかっている。でも、私の中の何かが、それを拒絶している。
自分の弱さが憎い。それでも一歩を踏み出す勇気がどうしても出てこない。
だけど、このままではいけない。
このままでは……。
「明日の日暮れまでに、きちんとお返事をします。……貴方の気持ちに対して。だから、どうか、それまでお待ちいただけないでしょうか。」
絞り出すように口にしたその言葉は、私自身を追い詰めるための最後の手段だった。言ってしまえば、もう後戻りはできない。
覚悟が決まったのか、それともただの自棄だったのか。それすらも、今はわからない。
ただ、言葉を口にする間、胸の鼓動が耳に響くほどだった。
自身を追い詰めたつもりだったのに、意気地の無さに嫌気がさした。明日までという猶予を、浅ましく付け足してしまう自分が情けない。
それでも。
それでも、今の私にはこれが精一杯だった。
この一歩を踏み出しただけでも、私にとっては大きな前進だったのだ。
「ああ、楽しみにしている。」
低く穏やかな、どこか柔らかい声。
それを耳にした瞬間、胸がときめきに締め付けられるような感覚に襲われた。……私は、なんて脆いのだろう。
それだけで、もう限界だった。
彼の返事を聞いたことで安堵したと同時に、これ以上その場に留まる勇気は残されていなかった。
「……失礼します。」
その言葉すら声にならないほど小さく呟き、今度こそ私は駆け出した。
後ろから聞こえる「姉様っ……!」と呼ぶクリスの声、そしてそれを制するレオン様の声も耳に届いたが、足を止めることはできなかった。
私はこれでも、ありったけの勇気を振り絞り尽くしたのだ。
振り返る余力など、どこにも残っていなかった。
足が震え、進むべき方向がわからない。それでも、私は確かに一歩を踏み出した。
・・・・・・・・・
あの場を走り去ってから、急速に胸の内が冷えていくのを感じた。
さっきの言葉が、まるで自分ではない誰かが言ったもののように思えてくる。固めたはずの決意は、わずか数分で後悔の波に呑み込まれた。
(あああ、明日までに本当に思考がまとまる気が全然しない……。)
悔しさと恥ずかしさ、そして自己嫌悪が渦を巻き、胸を締めつける。
その感情に押し潰されそうになりながら、ひとまず邸宅に逃げ込もうとした。
その玄関でちょうど出てきたサクラの姿を見つけた瞬間、胸の堰が切れたように涙があふれ、衝動のまま飛びついてしまった。
「えっ、主様……な、何事ですか?」
突然泣きつかれたサクラは戸惑いながらも、私の背中にそっと手を添えた。
その姿を目にしたマルメロも、ちょうど洗濯物を干し終えたところだったらしく、洗濯籠を手に駆け寄ってくる。
「えっ、ちょっと何があったんです!?」
慌てふためくマルメロに、私は泣きじゃくりながら状況を説明しようとするが、嗚咽混じりでまともな言葉にならない。サクラが苦笑しつつ、私を支えながらマルメロに目配せをする。
「とりあえず、ここでは落ち着けません。居間ででも話を聞きましょう。」
サクラの提案にうなずいたマルメロの手を借り、そのまま甘える事にした。
居間へ向かう途中も涙は止まらず、二人に申し訳なさを感じながら、それでも心のどこかで安心している自分がいた。
「マルメロおおおお……サクラあああああ……どうしましょう、どうしましょうー……!!」
いつもの居間。窓から差し込む光は柔らかく、部屋の隅に溜まる淡い明るさが、普段と変わらない日常の風景を作り出している。木製のテーブルの上には、マルメロが淹れてくれた温かなティーポットとカップが並べられているが、その香りさえも今の私には届かない。慣れ親しんだ空間なのに、今はそのすべてが私の心を乱すように感じられて仕方がない。
私はテーブルにうなだれ、顔を隠すようにして嗚咽を漏らしていた。それでも、しどろもどろに話すうち、隣に座る二人の表情が徐々に変わっていくのが見て取れた。
最初は本当に心配そうな顔をしていたマルメロとサクラだったが、次第にその緊張感が和らぎ、やがて目を見合わせて軽く微笑みながら、心配よりも不安げな私を慰めるような仕草を見せ始める。
「私……これって、レオン様のこと、す、好きになって……しまったみたいで……どうしたらいいか……。」
二人の態度に、どこか安心したせいかついぞそんな言葉が口をついて出てしまった。言葉が出た瞬間、心の中で何かが急にざわめき、胸が締め付けられるように感じた。今まで感じたことのない不安が一気に広がり、思わず顔を上げて二人を見つめる。
「……いや、その、まずそこからなんですか。」
私の言葉に、マルメロは一瞬表情を崩し、呆然とした顔を浮かべながら、思わず小さく息を呑んだ。隣でサクラが、軽く彼女のこめかみを小突きながら、少し笑いを浮かべて言った。
「レオン様のあの態度からして、関係が成立しない結果はあり得ないと思うのですが。」
サクラが肩をすくめながら、少し微笑んで言った。
「そうですよー、主様があの方を恋しいと思うなら、そう言えばそれで終わる話ですよ。何がそんなに心配なんですか?」
マルメロも呑気に言葉を続けたが、彼女たちの答えは、私の求めているものではなくて。
「さ、最初はそうかもしれません、がっ……でも、でも。」
私は焦るように言葉を繋げるが、思いもよらぬ気持ちが込み上げてきて、それをどう表現すればいいのか分からなくなった。
「何を言いたいのですか?」とでも言いたげに、サクラとマルメロは少し不思議そうな顔をしていた。しかし、それでも二人は私の言葉の続きを辛抱強く待ってくれた。
「それもどうせ、長持ちしないと思うと……。」
「……要するに、嫌われてしまうのが今から怖いと?」
私の言葉を受けてからのマルメロの穏やかな言葉は、私の気持ちを代弁してくれた。その言葉が胸に重く響く。
だが、不思議とその言葉は私の中にすとんと落ちた。そうか、私がこんなにも怯え困っているのは、ただそれだけの理由なのか、そう気付いた瞬間、俯きがちだった顔をゆっくりと上げた。
「先の話ですし、私たちは当事者ではありませんから、簡単に『大丈夫』とは言えませんが、さすがにそれは弱気すぎるかと。」
サクラが真剣な眼差しで私をじっと見つめながら、マルメロの言葉に続けた。
「……正直申し上げますと、あのお方に主様を取られること自体、面白くない気持ちは私にはあります。しかし、彼の気持ちが軽い気まぐれでないことくらいは、側で見ていて十分にわかります。主様がそんな弱気な考えを抱くことは、彼の真摯な想いに対して失礼だと思います。」
まるで責めるようなその言葉に、私は息を呑んでたじろいでしまった。確かに、彼の真剣さを知っているからこそ、私の弱気な態度がいかに不誠実に映るかを痛感させられる。
「失礼しました。」
サクラは一言付け足し、軽く頭を下げる。
「未来なんて誰にも分からないんですから、今は今の気持ちだけを大事にしたらいいんじゃないですか?そもそも、お付き合いする前から別れる心配とか、後ろ向きすぎますよ、主様らしくもない。」
サクラの物言いだけでは重く感じたのか、マルメロが明るい声で軽やかに言葉を添える。その少し演技がかった陽気な口調が、張り詰めていた空気を少し和らげた。
二人の言葉に、気持ちに慰められはする。しかし。
「……ですがっ……。」
ですが、何だ。言いたいことはたくさんある。……どれもこれも、私なんかでは無理だし、あの人には釣り合わない。どうせ飽きられるだけだろう。せっかく私を元気づけようとしてくれた二人を、落胆させるような言葉ばかりが頭に浮かんでくる。
「……せめて……せめてこんな身体じゃなければ……私だって……。」
言っても仕方ないことをつい口にしてしまった。いや、言葉なんてどうでもよかった。ただ、この不安な気持ちを吐き出したかっただけだ。二人が甘やかしてくれるから、つい甘えてしまった。
その上で、慰めようのない言葉をわざわざ選んでしまった自分の卑屈さと性格の悪さに、深い嫌悪感が湧いてくる。
サクラとマルメロも、一度顔を合わせた後少し困り顔を浮かべていた。
「もしその身体でなくなれば、今度は何を言い訳にするおつもりですか?姉様。」
私の言葉への返事は、予想していなかった相手からのものだった。
居間の扉が勢いよく開かれ、場にいた全員がその音に反応し、そちらを向くと、そこに立っていたのはクリスだった。
私と目が合うと、彼女は演技めかせて腕を組み、まるで「話はすべて聞かせてもらった」とでも言いたげな態度で、不敵に笑ってみせた。
「く、クリス……。」
「レオン様なら、今顔を合わせると姉様の気持ちの整理の邪魔になるだろうと、チェシャ様を連れて先ほど家を空けました。明日まで戻らないそうです。」
私が聞きたかった質問に先んじて答える様子は、私とは対照的に自信満々で、威風堂々。彼女はまっすぐに私の元へ足を進めてくる。
サクラとマルメロも少し呆気に取られている中、クリスは私の前で両手を広げ、穏やかに笑った。
「戦場を明日と決めた以上、もう逃げる選択肢はありません。今、姉様がすべきことは、後悔のない準備を整えることだけです。それが何か、考えてみましょう。」
私が何も言えないでいると、クリスはそっと私を抱きしめた。
すっかり私よりも背が高くなった妹のその行動に、少し面映い気持ちが湧くが、それでも沈みかけた心に、彼女の温もりがしっかりと届いてくるようだった。
「……準備……。そうですよね!」
クリスの言葉を受けて、マルメロがぱっと明るい声を張り上げる。
私はクリスの胸に顔を埋めながら、その声を聞いていた。
「せっかくの機会ですから、明日は綺麗に着飾りましょう!どうせなら今からでも一緒に町に出て、コーディネートを考えるのはいかがですか!」
マルメロの楽し気な提案に、サクラも明るい声で言葉を続けた。
「それも一つの良い布石ですが、私としては、主様が抱えている不安をそのままにしておくのは良くないと思います。いっそ、言いたい泣き言をすべて吐き出してしまいませんか?私もマルメロも、気が済むまでお付き合いさせていただきますよ?」
「サクラ、それなら私だって姉様に付き合います。姉様は抱え込んじゃうタイプですから、たまにはみんなに甘えてもいいんですよ?」
三人の言葉に、心が少しずつ軽くなっていくのを感じる。私が言葉を失っている間も、皆は私が抱えている不安を引き出すために、必死に寄り添ってくれているのだ。
心の中で小さな声が囁く。これまで一人で背負い込んでいたことを、少しずつ吐き出してもいいのかもしれない、そんな思いが湧き上がってきた。
けれど。
「ありがとうございます。……ですが、言われてみれば、今はクリスの言う通り、準備を整える時間です。」
私はクリスの胸からゆっくりと離れ、涙ぐんだ目元を指先で拭う。
明日は戦場。そんな言葉で自分を納得させるのも、どこか滑稽だと思う。……それに妹は、どこでそんな言い回しを覚えてきたのだろうか。
「ですから、もしも明日が上手くいかなかったら。その時は、たっぷり泣きますから、その時はどうかお付き合いください。」
なんとか作った笑顔を三人に向ける。無理にでも笑わないと、きっとまた自分が崩れそうな気がしたから。
それでも、完全に前を向いたわけではない。だけど、少しだけ自分と向き合ってみよう、という気持ちだけは固まった。
「……明日、泣き言を聞かされるのならともかく、惚気話を聞かされるのは勘弁ですよ?」
マルメロの冗談めいた言葉が、ほんの少しだけ私の心を軽くしてくれた。無理にでも笑おうとしている私を、何とか元気づけようとする彼女の気持ちが伝わる。
上手く行く、という前向きな想定。今の私にはきっとそれくらいでちょうどいいのだ。
(マルメロの言う通り、今から将来嫌われる心配などしても。そもそもお付き合いを始めなければ、そこにたどり着く事さえできないのですから。)
私の根本的な不安に対しての解決へは何も至っていない。だが、その不安がいざ目の前に来た時にまた考えればよい、その程度には気持ちを切り替える事は、どうにかできたかもしれない。
まだ先は見えないけれど、一歩を踏み出せたことを、後悔ではなく自分の中で咀嚼できた気がした。
未来がどうなるかは分からないけれど、今は少しでも前に進んでみようと思う。
そして、私は答えを、明日までにきっと出す。