9 おしまいは突然に
「羽水が退院するそうだ」
「はあ……」
モリセンは電話口で、藪から棒にそんなことを言った。春休みが明ける前日のことだった。こんなときは何と返せばいいのだろう?
「お、おめでとうございます……」
「うむ。それでな、松葉杖がないと移動できないから、買い物ができないんだそうだ」
おっ、何だか嫌な予感がしてきたぞ? 僕は先手を打って守りを固めた。
「お断りします」
「まだ何も言っていないだろう? 羽水に聞いたら、学校で友人と呼べるのはお前だけだと言っていたが」
友達になった覚えはありませんと答えると、モリセンは「お前、酷いこと言うなあ」と苦笑いした。
「なあ、頼むよ。羽水の買い物に付き合ってくれないか?」
「嫌ですよ。ヒロミさんに頼めばいいでしょう」
「ヒロミにも頼んだよ。けれど仕事の都合で、どうしても時間が取れないそうだ」
「そう言われても……」
断ろうとして、待てよ、と脳裏に閃くことがあった。お見舞いに行った帰り、ヒロミさんは「今度モリセンとのご飯に誘ってあげる」と言ったじゃないか。
うん、確かに聞いた。となれば、これはヒロミさんに貸しを作るチャンスではないか。
僕が「やっぱり行きます」と答えると、モリセンは素直に喜んでくれた。電話のこちら側では、僕がニヤニヤ笑っているとも知らないで。
清水駅のロータリーで、僕はレンの到着を待った。電話で聞いた話では、病院からタクシーで来るらしい。
しばらくして一台のタクシーが停まり、中からモデル体型の女が降りてきた。あれがレンかな、と近寄ってみて、僕はぎょっとした。
「あっ、鐘梨さん! こんにちは」
「こんにち……は……」
なんとレンは、母親が着ていたのとお揃いの、ヒョウ柄のコートを着ていたのだ。こんな格好した奴と並んで歩け? めちゃくちゃ目立つじゃないか。
一時の浮かれた感情で物事を決断してはいけない。僕はこの頼みを引き受けたことの、軽率さを呪った。
駅を挟んで反対側には、商店街や高校、ハイツ清水に続く大通りがある。午後の人通りは、陽気が暖かくなってきたせいか、ゆっくりと流れている。
僕たちに共通の話題は少なく、自然とヒロミさんから聞いた話を持ち出すことになった。
「ヒロミさんに聞いたけど、レンってウスイ食品のご令嬢なんだって? 知らなかったよ」
「あはは……誰かに話すと『お前、頭おかしいのか?』って言われるんで」
なるほどね。レンってオタクって言うか、挙動不審っていうか、根暗オーラがにじみ出てるもんな。どんなに綺麗な恰好をしていても、視線が足元に固定されている時点で、会話の信用性は大きく下がる。
僕だってヒロミさんから話を聞いていなかったら――そして何も無くなったレンの部屋を見ていなければ――信じられなかっただろう。
「そうだ! レンタルDVD捨てられてました!?」
「うん。でも拾って、返却しておいたから大丈夫」
「良かったぁ~」
レンは胸をなで下ろす。僕は少しだけ、彼女の領域に足を踏み入れてみたくなった。
「ねえ、最初に会ったときレンの部屋で見ちゃったんだけどさ。洗ったコンビニの弁当箱が山積みだったよね」
どうしてあんなことを、と視線で問う。レンは長いまつ毛を瞬かせてみせる。
「母さんは何でも捨てちゃうでしょう。だから自分のモノは極力持たないようにして、捨ててもいいモノを記録として取っておくことにしたんです。他の人が日記帳をつける感覚ですかね」
「そっか……あの部屋は全体で一つの日記帳だった訳だ」
なんてむごい……。たとえるなら手足をがんじがらめにされた状態で、指先だけで絵を描くような努力を、レンは続けていた。それも、いつ風が吹いて消されてしまうかも分からない、砂の絵だ。
「足が治ったらね……」
不意にレンが足を止めた。僕も立ち止まり、彼女の方を振り返る。
「私、学校辞めるんです」
「えっ?」
「高校に入るとき、父に『一人暮らしで普通の生活を経験してこい』って言われたけど。母は私が一人暮らしには向かないって判断したみたいで」
「まさか、お母さんが退学届を出しちゃったとか!?」
レンはうつむいたまま何も言わない。
僕はレンの肩をつかんで揺さぶった。彼女が勇気を振り絞れるように。
――なんで母親のせいで僕たちが苦労しなきゃいけないのさ!?
――そんなお母さん、こっちが見捨ててやりなよ!
それは僕と父さんを捨てた母に言ってやりたい言葉だった。きっと僕は知らず知らずのうちに、自身の体験をレンに重ね合わせていた。
けれど。
「お姉さんは森田先生が拾ってくれたけれど、私も王子様に拾ってもらえる保障は無いから――」
レンはひんやりとした右手で、僕の左手を引きはがした。僕が持つ17年の人生に負けない重みを、レンもまた背負って立っていた。
「あの、歩き始めませんか? 今日中に当分の着替えと、コインランドリーまで持っていくバッグが欲しいんです」
「ああ、うん……」
こうなるともう「母には逆らわない」というレンの誓いを変えさせるだけの言葉が思いつかなかった。
色々なモヤモヤを心の中に押し込めて、歩き出そうとした、そのとき。
「あ! 波瑠、ちょうど良かった!」
「えっ?」
通りの反対から声をかけられる。手を振っていたのは、クラスメイトの京子だった。
「波瑠に聞きたいことがあったんだよ。今ちょっといいかな?」
「ごめんね、今、羽水さんと買い物に行く約束をしてて……」
「すぐ済むから!」
そう言って京子は大通りをダッシュで横切ると、息がかかるくらい近くまで僕に寄ってくる。
――なんとなく怖い感じがした。
「何? どうしたの京子?」
「正直に答えて。この前、波瑠とモリセン、デートしてなかった?」
「は?」
なんのことだろう。突拍子もない質問に、頭が真っ白になる。
「ロータリーのバス停でさ、転んだ波瑠をモリセンが抱き上げてたでしょ」
「え? そんなこと……」
……あった。レンのお見舞いに行く途中、転んだ私をモリセンが起こそうとしたときだ。
でも京子の言い方は大げさすぎる。モリセンが手を貸す前に、僕は自分で起き上がった。
「2人って付き合ってるの?」
「付き合ってないよ! モリセン、いつもヒロミさんって人と電話してるじゃん」
「浮気なんて、いくらでもできるでしょう!? 波瑠、携帯見せて」
「え、ちょっと、何するの!」
「やましいことが無ければ携帯ぐらい見せられるでしょ!」
思いこみの激しい京子には、もう僕の声は届いていなかった。ジャケットのポケットから、力任せに携帯を抜き取られる。
レンは僕と京子を交互に見て、おろおろしているだけだ。
そして京子は見てしまった――ヒロミさんからもらった、僕とモリセンのツーショットを。
やっぱりね、という京子の声が、硬質ガラスのような青空に吸い込まれていった。