昭和(戦前)
(1)世界恐慌
憲政会加藤高明首相が病死し後継の若槻礼次郎は、陰謀力あり、国内では銀行の破綻を隠蔽し、国際では欧米諸国と対等に渡り合う交渉外交をした。陰謀は政治を蝕むので、避けるべきだった。
外務大臣幣原喜重郎は、陰謀力あり、欧米諸国と渡り合う交渉外交を展開した。交渉外交は、歴史用語としては協調外交となっているが、これは間違いである。交渉外交は、様々な策を弄することによる陰謀外交である。当時も現代も、外交は全て陰謀外交・交渉外交である。幣原外交は、外交として普通の態度だった。日本の外交は、多くの時代この普通の外交ができていない。
恐慌の危機に登場した長州人田中義一首相は、組織指導力あり、中小銀行を財閥の下に再編させ、特別高等警察組織を作り労働運動の日常的弾圧を可能にした。自ら外交に乗り出し積極外交と呼ばれたが、内向きの能力しかなく自国利益のみを追求するわがまま外交でしかなく欧米諸国から軽蔑された。
後継の民政党(憲政会の後身)浜口雄幸首相は、顔はライオンだがキツネ陰謀力の持ち主で、陰謀力ある幣原喜重郎を起用し再び陰謀交渉外交を展開した。日本の国益をうまく守っていたが、自国利益のみを追求する軍部は不満だった。
浜口内閣の井上準之助蔵相は、組織指導力あり、国際経済無理解の内向き経済政策で世界恐慌の波をもろにかぶる失態となった。
(2)ファシズム
経済が危機に陥ると財界政界が自国利益のみを追求する傾向が強くなり、外には戦争を仕掛け侵略し、内には民主主義を抑圧し個人の自由や反対意見を抹殺する態度になる。
異彩力あるテロリスト井上日召は、財界の要人を次々に暗殺した。
若手軍人橋本欣五郎は、知略に秀で、クーデタを計画した。計画の策士は、突進力ある二人の人物、北一輝と大川周明だった。
北一輝の思想は右翼でなく、天皇象徴民主主義だった。客観史観の大川と共に、現代日本にとり不可欠の人物だった。226で死刑になったのは、突進力によりその民主思想が普及し支持を集めることが怖れられたから。北の死により、日本はファシズムへ向かう。
(3)軍部政権誕生
政友会犬養毅首相は、基礎力あり、軍部の牽制に一時成功していた。
松岡洋右は、組織指導力あり、ゆえにその外交は内向き自国利益追求に終始し国際連盟を脱退した。
515後の海軍斎藤実首相は、正義力あり、しかし独善に陥り不満から皇道派が激化した。
皇道派は、向上心に富む荒木貞夫をリーダーに、知略ある真崎甚三郎が支えていた。若手の相沢三郎中佐は、人望があった。
統制派というが、激化していないというのが正確。海軍岡田啓介首相・陸軍林銑十郎共に、基礎力あり。
226後の官僚広田弘毅首相は、陰謀力あり、民主主義勢力を弾圧した。ただ陸軍大臣寺内寿一は、正義力が裏目に出て独善になり、内閣の支持を落とした。
後継林銑十郎首相は、基礎力あったが、軍部にはもの足りず短命。
後継の公家・近衛文麿首相は、人望力あり、軍部財閥政党国民から多大な支持を集めた。しかし軍部の強硬の言いなりになり、反対意見を一切封じ自由を抑圧し国民の心身の全てを国(戦争)に捧げるファシズム体制を作り上げてしまった。
陸軍東条英機首相が最大悪者のように言われているが、組織指導力により、内向きに陸軍のためにだけ行動しただけである。
後継陸軍の小磯国昭首相は、外交力あり、サイパン陥落による国内の混迷を収拾し戦争を継続した。
後継海軍の鈴木貫太郎首相は、困難な無条件降伏をやり遂げた。