第2話 少女と吸血鬼
自分の祖父母すら生まれていない過去では無限と思われていた空、それを覆い隠す暗雲から雨が降り始める。コンクリートで舗装された地面の水溜まりに雨粒が落ちるたび、水面に波紋をを広げていく。
今朝の天気予報どおりの時間に降り始めた雨を、二階の自室で日本語の自習をしている李織はノートから顔を上げ、窓の外を見上げて小さく呟く。
「雨、降ってきちゃった」
大丈夫かな? と今日限定の下校時刻を過ぎても帰ってこない大好きな親友兼先生のことを心配する。
沙莉は雨が降るのを知っているだろうが、傘を持っていってはいなかった。
「よし、帰ってきた時に困らないようにしよう」
玄関を開けた沙莉は絶対に雨でずぶ濡れになっているはずだから、入ってすぐに拭けるように玄関横の靴箱の上に乾いたタオルを置いといて。それとお腹も空いているだろう、なにか食べやすい温かい料理を作っておいてあげないと。
健康的な足を折り曲げて座っていた座布団から立ち上がる。パタパタと足音を立てて、クローゼットに入れるために畳んでおいた乾いたタオルを玄関横の靴箱の上に置く。棚から取り出したエプロンの紐を締めながらキッチンに向かい、両腕の袖をまくり上げる。
捻り開けた蛇口の注ぎ口から流れ落ちる清水で手を洗い、指を絡め背筋と一緒に全身を伸ばす。
(う〜ん。沙莉はこういう時、何で喜ぶかな?)
湿度が高くなり始めている部屋で一人、少女は何を調理するのか思考をまわし始めだした。その背後では日頃から丹精込めて育て飾っている観葉植物の葉が、起動させておいた除湿機の起こす暖風で揺れていた。
◆
廊下の窓はガラス部分が多く、開放的な印象を与えてはいるが、曇りのち雨というあいにくの天気なので、鉄格子のみで構成された檻に閉じ込められているようだ。
昼頃から降り出した雨粒が窓を連続して叩く音が鳴り続ける。
遠くからゆっくりと足音が近づいてくる。足音の持ち主はベットの近くにある、背もたれが反った椅子に音をたてぬように静かに腰掛けたようだ。
それは寝た子を起こさないような優しく落ち着いた雰囲気を感じさせる。
背中に感じるのは全身と心を包み込んでくれる柔らかな白、耳元を吹き抜ける細い微風。
深い暗さに覆われた視線が少しずつ薄い暗さに明るくなっていく。ボンヤリとした頭が徐々にはっきりとしてきているのが分かる。
自分がいる場所は、足を踏み込んだ廊下の突き当たりの部屋、とは別の部屋なのだろうか全方位からギチギチと迫りくる圧迫感が感じられない。
背中に感じていた全身と心を包み込んでくれる白は新品同然のようなフワフワのベットで、耳元を吹く微風はカーテンを軽く押している風のようだった。
少し黒いシミらしきものは花の花弁を思わせるように広がっていた。建物の経年劣化を嫌でも示していた。
(見覚えのない。……知らない天井だ)
「どうやら、目を覚ましたようだね。そろそろだと思っていたんだ」
どこかで聞いたことのあるセリフを心の中で呟いていると、右横から声が聞こえた。それは先ほどの優しく落ち着いた雰囲気の正体であり、私が気絶することになった原因である吸血鬼の片割れだった。
「ぅ、ぁ、ぁあ」
「?」
「ぅぁあああああ! あああああああああ!!」
私は肌の下を駆け巡っていく恐怖心に抗うことも思考することも出来ずに、反射で力強く掴んだ絹の枕を投げたり、悲鳴を上げながら吸血鬼とは反対の方向に転げ落ちた。
沙莉の一連の行動を“なぜか“危険と感じた吸血鬼は、転げ落ちる彼女を止めようと手を伸ばすが、沙莉が投げ飛ばした絹の枕が顔のど真ん中にぶつかり中断されてしまった。
「そんな動いちゃダメだよ、さっきまで気絶してたんだか……ぁ!」
だが、沙莉が赤のカーペットの敷かれている床にぶつかることはなかった。
なぜなら、反対側にいたはずの吸血鬼が沙莉の身体を優しく支えていたからだ。
「言ったでしょ、動いちゃダメだって。怪我でもしたら大変だよ。それに感情に呑まれるのは危ないんだよ」
優しくも少し呆れた、沙莉を心配する声が耳元で打たれる。
「なんで……、助けたの……?」と驚いている沙莉を諭す言葉を発する。
しかし、その行動は吸血鬼であるが人道的には正しいが、沙莉の心は許してはくれない間違いであった。
その間違いとは吸血鬼の片手は腰に手を回しているのに違って、もう片手は沙莉の胸を掴んでしまっていたからだ。
床にゆっくりと降ろされた沙莉は、座りながら小刻みに肩を震わせていた。長い前髪に隠れている顔は俯いているために、吸血鬼の少年から表情を伺うことできない。
女心が分かるはずのない年頃の吸血鬼の少年にとっては、その行動は彼女の羞恥心と尊厳を存分に恥ずかしめるのには、あまりにも充分すぎるほどだった。一人アワアワしている吸血鬼は、自分がどのような行為をしたのか理解するのに時間が掛かっているようだ。
そんな吸血鬼を一発で理解をもたらしてくれるのが、沙莉の放つ渾身の平手打ちである。
あまり興味の湧かない野球の試合を観戦しに野球好きの親と一緒にスタジアムに行った時、相手球団の投手が放つ自慢の変化球のボール。それに吸われているかのように錯覚してしまうほど綺麗に振られたバット。
その役割が相対する二つの道具がぶつかり合った瞬間、湧かない興味も球団も関係なく皆が歓声を上げるような暇もなく、呆然と空を駆け抜けるボールを眺めてしまうような、気持ちのよいホームランが打ち上げられた時の音に近いのかもしれない。
その音を聴くと、心を縛る鬱蒼とした気分もスッカリ元気な気分にすり変わってしまうのだろう。ストレス発散には向かないだろうが、皮肉にも、これが人間にとって最も効果的なストレス発散方法なのかもしれない。
2
吸血鬼といえど、不意打ちを喰らえば人間の、それも女子高生の平手打ちで身体が宙を舞うこともあるだろう。
「ッ……!?」
どこか怪我したのか心身ともに焦りに焦っていると、沙莉の放った平手打ちが頬にクリーンヒットした吸血鬼は不意打ち以前に警戒を一切していないため、宙に放物線を描きながら部屋の隅まで舞い飛んでいった。頭から床に落ちると、古い木材を使用しているから小さな欠片が崩れ散った。
ハッ、と自分のしたことに気づいた吸血鬼は誠心誠意心を込めて謝ろうと、黄金比もビックリの土下座寸前の体勢になるが、目線に入った光景に驚いてしまい直立した両腕の動きを止めてしまった。
その光景を前にすると、某猫とネズミのように顎が外れて床に落ちてしまった。視線もどこに向けるのが正解なのか、ほんの一瞬で分からなくなってしまった。
なぜなら、腰に両手をあて顔を赤くしている人間が、スカートの中に潜む少し背伸びした黒いパンツが見えているのが気付いているのか気付いていないのか分からないが、こちらに対して下手な睨みを利かせようとしている。
「……………………」
「……………………」
意図せず、互いに沈黙することになった。この気まずい時間は数秒間ほど続いたが、それは初心な吸血鬼からしてみれば、数秒ほどでも数時間が経過したような錯覚をしてしまう。
どんどん加速していく冗談のような転換は困惑を繰り返してしまう。妄想と曖昧な記憶が混ざり合った闇鍋のようになって、両者の脳髄を流れていく。
この静寂を破ったのは沙莉のほうだった。何かを思い出したような顔をした後には、すぐに踵を返して扉に向かっていく。
扉が閉まる音が鳴り、部屋に一人の吸血鬼が残された。直立させていた両腕をゆっくりと下ろし、息を吐く。
あれほど長い時間、触れてはいけない気まずさを感じたことはなかった。肺の中で枝分かれした管が詰まりそうになるのは、これが初めてのことだ。
「さてと……ッ!」
驚いたのは脳内に電流に似た感覚が走ったからだ。
血携、血縁関係のある吸血鬼同士のみが可能な血脈を介した連絡をする本能的な特性だ。
それが吸血鬼の少年に知らせることは、姉であるもう一人の吸血鬼の能力の発動。その能力は自身の理性と感覚を完全に遮断して、肉体を両指に通した糸で操る人形のように動かす。
狂気と経験に物を言わせた能力だ。それ故に弱点の多い能力でもある。
本来、能力が発動したからといって驚くようなことはない。だが、その発動が”暴走”だとしたら──。
この能力は狂気に呑まれることもあり、時折、暴走してしまうことがある。それが人間のいるという最悪なタイミングで起こってしまうと、すぐに彼女を襲いに行くだろう。
その能力の暴走は、まず頭を抱えるように両手で抑えてゆっくり歩いているはずだ。もし彼女が見つかったら、為す術なく殺されることになる。
暴走を止めるためには鮮血を与える必要がある。吸血鬼の能力の暴走は大抵、鮮血を与えれば収まる。
だが、人間の鮮血を与えるわけにはいかない。鮮血の味を覚えた吸血鬼は生きた生物を襲うようになってしまう。
そうならないように阻止するために急いで扉に向かって走る。
◆
沙莉は行きと同じく右手に持ったスマホのライトを頼りに、少々薄暗い廊下を歩いていく。外に目を向ければ、降り注ぐ雨粒が窓ガラスにぶつかって弾けている。
一歩一歩と歩を進めているのと同時に、床の古い板材が軋む音が鳴る。こうしていたらどこかで床が抜けてしまうのでないかと思わざるを得ない。
不安が思考に積み重なってくると、無意識に足がガクガク震えてきてしまう。どうにか落ち着けようと、考えている時にも不安は止まることなく積み重なってくる。
(早く帰って、心配性な李織を安心させないと)
連絡を入れずに遅く帰ったことが何度かあり、その度に李織に泣きつかれたのを思い出すと、早く帰るために早足になる。
不安から遠のいているはずなのに、なぜか恐怖が迫ってきている気がしてくる。歪にひび割れた不安定な不協和音の形を持ったソレが迫ってきている感覚。
脳内で響きわたるソレを塞ぐように、スマホを持っていない左手で周りを照らしているでこめかみを抑える。時間が経っていくのに連れ、歩みを進める足が縺れていく。
「ッ……ッん……!」
遂には苦しむ声が漏れ出す。全身を絡め取るように知らない誰かの手足が回されて、徐々に締め付けられてきてくる圧迫感、直に生温かい肌と密着して押し付けられている気色の悪さが、肌を舐め回されているかのように感じる。
いつもの日常に戻ろうとする意思を捻じ曲げるように、思考の片隅に『もういいのでは……もう、憂鬱のした環境にいることなく。化け物が存在している非日常のほうが断然、快適で開放的なのではないか』。
そんな楽観的な思考が館から離れようとする正常な思考を侵食していく。私の両手を天使と悪魔がそれぞれ片方ずつ持って手を引っ張っているかのようだ。
引っ張っる力は時間の経過と共に強くなり、私の身体を引き千切るような強さになっていく。思考の侵食は止まる様子もなく、視線と右足が後ろに向かっていく。
沙莉が両手で頭を抑えながら振り返った廊下にはもう一人、同じく両手で頭を抱えるように抑えて苦しんでいる吸血鬼がいた。
2
その吸血鬼は廊下の奥に存在する部屋で、私を介抱らしきことをしていた吸血鬼の服を脱がして血を吸おうとしていた美少女……の方だ。よく似ているから、おそらく双子かと思うが、なぜ人間ではなく、同じ吸血鬼の血を吸おうとしたのかは知らない。
もしかしたら、ちゃんとした理由があるのかもしれないが、進行形で人生の路頭に迷いに迷っている沙莉にとっては、自身の死に関わる脅威に他ならない。
だが、そんな脅威を無くせるような力は沙莉には無い。力があったとしても、扱えるわけがない。
いきなり拳銃を持たせて、離れた的の真ん中を撃ってみせろと言っているようなものだ。
素人が拳銃を扱えるわけもなく、安全装置の解除方法に正しい持ち方、狙い方も分かるわけがない。撃てたとしても弾丸はあらぬ方向に飛んでいき、反動をモロに受けて顔や手に大怪我するのが目に見えてるだけだ。
そんな沙莉の取ることのできる最終手段は、とてもシンプルなものだ。
──逃走のみ。
あれに捕まったら間違いなく死ぬ。
そんな思考が脳を支配されながら、沙莉は走っている。息を整えたいと思うが、後ろを振り向きたいと思うが、迫りくる死という恐怖がそれを許さない。
自分はどんな死に様になるのか、世間からどのように報じられるのか知りたいが、目の前にある好奇心を振り切ってまで生きたいと思っているのだ。
そりゃそうだ、誰だって死にたくはない。
自殺する人だって、皆、苦しくて辛い思いをして、亡くなる。
事故だろうと他殺だろうと関係なしに、死にたくはない。
「ゲホッ! はっ……はっ……はあっ」
部活なんて一度も入ったことはない。先輩に剣道部に入らないかと誘われたが、やんわりと断った。
そんな私が、人間じゃない吸血鬼から逃げ切れるわけがない。
吸血鬼の少女は喉が潰れているような声を捻り出しながら、尖った牙が覗く口を開いていき、
「血ガァ、ニンゥゥゲェエーンゥゥウ!!」
明らかな殺意を剥き出して、沙莉の首へと噛みつかんとする。
ぐちょり、肉を抉る音が鼓膜に響いた。骨にまで達しているようで、歯を噛み締めたような音がする。
痛みはしない、血が吸われる感覚もない。
牙から分泌されているかもしれない物質の効果によって、神経が麻痺しているわけでもない。
ただ単純に噛まれていない。私が噛まれていないのだ。
「危ないから……離れていて。僕が止めるからっ」
噛まれるという恐怖を前に尻もちをついた私を庇ったのは、吸血鬼の少年だった。
噛まれた左腕は骨が露出しており、スーパーで見る生肉とは、似ているが違う繊維が千切れているのが見て取れた。
赤い血が絶え間なく流れており、私の足元にまで徐々に広がってきていた。
「わ、分かった……」
私は気分の悪さを感じながら、どうにか立ち上がって下がる。
重傷を負った少年は痛みなど気にしてはいない様子で、血に飢えている少女の吸血鬼を抑え込もうとしていた。
だが、純粋な力は向こうのほうが上のようで、少年の腕の骨が強靭な牙によって噛み切れそうになっているのだ。
「くっ……!」
少年は歯を食いしばるが、すぐに抑え込むやり方を変えたのだろうか。骨を噛み切らせたのだ。
裾の布を噛み締めて、噛み切られた骨より先を引き千切った。
「ッ〜〜〜〜〜!」
吸血鬼といえど、痛覚はある。どれほど痛いのか想像することを拒否するしかない。
骨を折ることも痛いが、自ら折ると更に痛いのは容易に想像がつく。加えて、骨だけでなく筋肉なども一緒に引き千切ったのだ。
そこまでして、少年が作り出したのは骨の刺突武器。噛み切られた骨を刺突に使用するために、邪魔な部分を引き千切ったという訳だ。
「嘘でしょ……」
私は呟いていた。
なんで……そこまでするの。吸血鬼にとって血は生きるために必要でしょ。
それなのに、気絶してる間にいつでも血は吸えたはず。してなくても、襲おうと思えば吸えるのに。
私は分からなくなっていた。他の人より伝承については知ってるからこそなのだろうか。
なんで……? なんで、私を助けるの?
少年は吸血鬼であって、エスパーではない。考えているだけの疑問に答えが返ってくることはない。
「血ガァゥ、タァリィナゥァァイィ!!」
ほんの少しの静寂を破ったのは少女の吸血鬼。今度は明確に少年を噛み付こうと飛びかかる。
「ッ!」
少年は左腕を少女に向かって突き出す。噛み切られたことにより、先端の尖った骨が露出している腕を。
「ウゴォッ!」
限界まで開かれた口の中に突っ込まれた腕は、喉の筋肉に突き刺さり、少女の動きが止まった。
少年が腕を引き千切ったのは、ただ武器にするためだけではない。このようにして拘束器具として使うためでもある。
「僕の血を飲んで、落ち着いてくれ……」
少年が口にすると、腕の断面から血がこぼれ落ち始める。少女の喉が唸り出した。
少年から流れでる血を飲んでいるのだ。
少年の血になんらかの効果があるのか、少女は凶暴性がなくなっていく。
最後には眠りについた。
こうして、何度目かの吸血鬼の少女が有する能力の暴走は終わったのだった。




