#7 第九十五噺
キンコンカンコ~ン、キンコンカンコ~ン……。
4時限目が終わったところで、木守紬は窓際の一番後ろの席に座る宮代蛍のところへ歩いていった。
「ねえホタル?宮代様は当分、村にお戻りにならないの?」
「ん?なあに?なんか言った?」と硬い髪をぼわんと横に膨らませた少女が顔を上げると、
ボリボリボリ……と脇腹から太ももの辺りまでを指で満遍なく掻きむしった。
「……ど、どうしたのよ?そこ痒いの?」と紬が眉をしかめて言う。
紬はそのまま蛍が、セーラー服の下に手を突っ込んで前後に激しく動かす様子を見つめていた。
「そうなのよ。聞いてよツムちゃん。ホタルね、なんと蚊に刺されたのよ!それもたっくさん!!…私、生まれてこのかた、こんなに大量の蚊に刺されたことないわ!夜寝てる間にめっちゃ刺されたみたい!見てよこれ!手のひらの中にまで刺されたわ!もう痒くて死にそうよ!」
蛍が半ば泣きながら友人の肩に縋り付くと、
紬は、「……ちょっと…。離れてもらっていいかしら……まさか蚤とかダニじゃないでしょうね。それ伝染らない?」と言って体を引いた。
「ツムちゃん、見捨てないで……グスン」
「わかったわ。わかったから……泣かないでよ。あ、鞄に確か塗り薬があったから貸してあげる。」そう言って紬が、自分の机に戻ろうとした時だった。
「The time has finally come!ついにホタルにもその時が来てしまったのね!」と、よく透るソプラノボイスが鳴り響いた。
「……あ、メイカちゃん…」
と、紬は言ってから慌てて目を伏せる。
『……余所者と付き合ってはならぬ……』
という祖母の声が頭の中で木霊し、それを振り払うように紬は頭をブンブンと左右に振ると、
長い髪のしっぽを数回、蛍の顔にぶつけた。
金髪碧眼の永遠のロリ、愛衣花・エル・ターナーは、紬のそんな様子に気付いた素振りもなく、
「嗚呼、ホタル…可哀想に……メイカは心の底から同情します……まさに女であるということはそれだけで呪い……決して他人ごととは思えないです……」としんみりとした表情で言った。
「な、なんの話よ……?」と思わず紬は、金髪ロリ少女に話しかけてしまっていた。
「?」と、謎の七分袖ワンピーススタイルの妖精が、一見すると賢そうな顔をこちらに向けながら首を傾げる。
彼女の柔らかい黄金のウェーブヘアは、教室の窓から入るジェイコブスラダーの光に照らされて、舞い落ちるコロイド状の塵が静かに渦巻く中、
明らかな校則違反の月桂樹の冠と共に鈍く輝いていた。
「……ホタル。」と、その白い天使が、宮代蛍の前の席に脚を開いて逆向きに座ると、背もたれの上で水平にした腕に細い顎を乗せ、軽く首を曲げながら言った。
「とうとう宮代家の巫女にも、世の他の女性達と同じ、月のものが始まってしまったのですね。可哀想に。…多分大量の蚊に刺されたのは、アナタのその血の匂いのせいですよ。」
「はい??」と紬が素っ頓狂な声を上げる。
「…ツム。分かります。アナタもshockですよね?…あ、メイカはモチロンまだですよ?と、いうことはこの3人のうちで、ホタルが一番最初ってわけですね……。悲しいわ……でもおめでとう。お赤飯は炊いた?こういう場合、アメリカ北部ではトマト煮のポークビーンズ、南部に行くにしたがってチリコンカンを食べる習わしがあるけど、日本人なら、モチロン餅米お赤飯ですよね。ありがたいことに、メイカにはまだ月のものが始まる兆候はないけど、やっぱりあれですかね?発毛出した頃から、始まるのかしら??」
「……メイカちゃん何を今更……。私は中1の時にもう始まっていたわよ。だいたい私たち巫女はね?基本お祓いの時に合わせてその時期をずらすよう調整するし、こう見えて結構バイオリズムには気を遣ってんのよ。」と蛍が脚を掻きながら言った。
「……因みに私も始まってるよ……。」と紬が小さな声で付け加える。「まあ、メイカちゃんがまだなのは何となく想像がついたけど……」と気まずそうに紬も、頬をぽりぽりと掻きながら言った。
「………」「………」「………」
「………ホタル?ツム?そういう大切なことは早く言いなさいよ………」と森の妖精愛衣花が呟く。
「いや、聞かれなかったから。」と紬は言い、溜め息を吐き終わると同時に、頭を振りながら自分の席に塗り薬を取りに戻った。
「じゃあ、蚊に刺されるようになったのは別の理由?」と愛衣花が言う。
「そう思うわよ。そもそも宮代の杜にこんなに蚊がいたことなんて一度もないわ!物心ついた時から、家で刺されたことなんて数えるほどしか記憶にないし!ママがちょっと留守だからって、いくらなんでも増え過ぎよ!」と、蛍が机をドン!拳で打つ。
「どこかの水が腐ってボウフラでも沸いてるんじゃない?アナタ、宮代様がお留守だからって家事を怠けてない?お風呂の水とか変えてる?」と、赤いキャップの薬のチューブを持ってきた紬が言い、
当然のように腕を投げ出してきた蛍の赤く腫れた虫刺され痕に、
……綺麗に整えた爪でバツ印を結んでやった。
「お尻の方は自分でやんなさいよ?」
そう言うと紬は、人差し指の腹に出した白い軟膏を、赤くなったバツ印の頂点に合わせて4回叩き、
口の中でブツブツと「……阿毘・羅吽・欠々・娑~婆~呵 ♡」と唱えた。
「あ!いーなー!メイカにもそれやって~」とブロンド美少女が紬に抱き付いてくる。
「え?アナタは刺されてないでしょ…」と紬が若干引きながら言う。
「じゃあ、メイカも刺されてきます~~!
そういう日本のおまじないとか私大好き!そうだ!放課後、蛇腹川の上流の方に行って遊ばない?あの場所なら蚊もイッパイいるでしょ!なんか今日凄く暑いし!Let's水浴び☆しましょーよ!」
「……いやよ……メイカちゃん、アナタ昔からあそこ行くとすぐ全裸になるじゃん……。あの聖域には基本誰も来ないけどさ、妖精ごっこは小学生までにしてよね……ホントに。」と更に深い溜め息を吐きながら紬が言った。
「……それにね、お祖母ちゃんがメイカちゃんと遊んじゃダメだって……。」
「え?なんですかそれ?いわゆる人種差別?なんか傷つく…でもまあ、そうか。そうですよね」と愛衣花が一人で納得したように頷く。「ツムのお祖母ちゃんの言う通りかもしれないですね。老化の始まった貴女達には、妖精の戯れは犯罪に近い……。」
「どういう意味よ、それ??」と紬が叫ぶ。
「……ゴメンなさい。老化は言い過ぎました。貴女達はアングロサクソンじゃないですし。第二次性徴したからって、すぐにオバサンになるってわけじゃないですよね。」と愛衣花が寂しそうに笑いながら言った。「ただこれだけは言えます。メイカみたいにまだ幼い見た目の女の子は…、全裸で遊んだからといって、決して邪な欲望の対象にはならないものなのです。ご存知の通り、子供というものは純粋で守るべき存在ですからね。メイカのように無垢な女の子は、蛇撫蛇撫池で遊ぶことをお天道様に特別に許されているのです。Do you understand?」
愛衣花は、2人のクラスメイトのことをじろじろと頭から爪先まで観察し、
「なるほど。よくよく見たら貴女達……いつの間にか女女してきてますね…… メイカちゃん悲しい。…確かに貴女達が妖精ごっこしたら、ちょっとキモいかも……」
「待たれよ!さっきから黙って聞いていれば?!キ、キモいとは何よ??」と蛍が大きな声を出す。
すると愛衣花が「だってその、無駄に膨らみ始めたお胸と太もも……。透けたら確実にSay!犯罪でしょ……あ、そうだ!ツムちゃん!貴女のお祖母ちゃんがメイカと遊んじゃダメって言うんなら……、3人でお勉強しませんか?遊ばなきゃいいんでしょ?」と言った。「ねえ、ホタルのおうちには今誰もいないんですよね?ほら、宮代様の敷地ってお祭りの時しか行ったことないから……。たまには連れてってくださいよ~。メイカ、蚊取り線香を持ってってあげますから!でんでんつむつむカタ紬ちゃん?貴女にもグルグルの蚊取り制線香を持ってきてもらいましょう。で、煙を体中に浴びれば、虫に刺されなくなるはずですよ?
それに勉強の後、3人がかりで蚊を潰しまくれば、今日中に地球上からモスキートを絶滅させることが出来るかも、し、れ、な、い、ヨ♡」
白人少女は華麗なウィンクをすると、ジプシーのカスタネットのように、手をパパン!と顔の横で叩いた。
**************
「…………」
給食の時間が終わり、生徒達が校庭に出ていった後、
教室に一人残された愛衣花・エル・ターナーは、花柄のナフキンの上に力なく金髪を散らしながら俯いていた。
食べ終わったお皿はすでに片付けられ、机の中央には、汗をかいた牛乳瓶が1本、
未開封のまま立っている。
廊下に出て待つ、木守紬と宮代蛍は、
「……毎日、毎日、懲りずによくやるわね……」と呟いていた。
「春木先生もめげないわよね。メイカがいつか牛乳を飲むとでも思っているのかしら。」蛍がそう言うと、
紬が「……でもメイカちゃんも、牛乳を一度も飲んだことがないって言ってたわよ。飲まないのに自分が嫌いってよく分かるわね。」と答えた。
「まあ、牛乳って独特の臭いがあるからね。……結局毎日、残した牛乳はどうしてるのかしら?先生が飲んでるわけじゃなさそうだし。やっぱり捨てちゃってるのよね?」
「そうね。いまだに男子がキャップを集めてるわけでもないし、率先して飲んでくれる人もいないものね……」
小学生時代、村の子供達に牛乳キャップブームが訪れた際、とある男子の机の中で数ヶ月分のコレクションが発酵し、そのせいで愛衣花・エル・ターナーが吐いたことがあった。
以来牛乳キャップ集めは禁忌となった。
「こうやって村の掟というものは増えていくのね……」
伝承の生まれる瞬間を目の当たりにした紬は、感慨深くそう思ったものだった。
今では牛乳瓶蓋の浄化は、宮代家のお祓い業務の一つに加えられている。
蛍も一度、バカな男子の家から出てきた、缶ケース一杯分の黴た牛乳キャップの『穢れ取り』を手伝ったことがある。
……あれは地獄だったわ……
御神水を十分に寝かせて作った霊水をビニール袋に入れ、そこから立ち上る強烈な臭いを収集し、それを塩水に溶かし込む。
そして、ストローを使ってそこにブクブクブク……と息を吹き入れるんだけど、その時点であまりの臭さに卒倒しそうになったわ。…ママはよくあれを平気な顔をして出来るわよね。流石に私も自分の御神水くらいにしか口を付けられないわよ。……巫女ってホント大変(涙)
で、二酸化炭素が結合すると、水の中に白い結晶が沈むので、それをろ過したものを使って、ようやく牛乳の紙蓋を浄化出来るってわけよ。勘弁してほしいわ。
蛍が教室内の金髪ロリータ少女に目を戻すと、いつの間にか彼女は俯いたまま、コックリコックリ頭を揺らして眠っているようだった。
「呑気なものね……」と蛍が呟く。
「……やっぱり牛乳全般が飲めないのかしら。」と顎に人差し指をあてがった蛍が続けて言う。「……例えば苺ミルクとか?ミルクセーキとか?そういったものから慣らしていけば、メイカも飲めるようになるんじゃないかな?」
「臭いでバレない?」と紬が言う。
「じゃあ例えば羽交い締めにしてから鼻を摘まんで、口を開けさせて飲ませるとかはどう?」と、お尻を搔きながら蛍が言う。
「……それ拷問じゃないの?」と紬が真剣な表情をして言った。
「とにかく!!こうやって給食を食べ終わるまで連帯責任で待たされる、同じ班の私達の身にもなって欲しいわよね!……ああ、また昼休みが終わってしまうわ……三角木馬……乗りたかった……」
「アナタこそ小学生かい……」と紬が言い、
……キンコンカンコ~ン、キンコンカンコ~ン……。と休み時間の終わりを報せるチャイムが木造の校舎に鳴り響いた。




