#1 第百一噺
『夜寝る前に、決して水を飲んではいけません。』
紬は幼い頃より、母にそう言い聞かされ続けていた。
「どうしてダメなの?」
と紬は幼稚園年長の時に、姉に向かって恐る恐る尋ねてみた。
「は?何言ってるの?ダメなものはダメでしょ!うちの村では大昔からそう決まっているの!」「でもなんで?」と、前髪を一直線に揃えた長い髪の少女が食い下がる。
「あのね……」と、年の離れた姉、沙因が呆れたような顔をしながら、妹に近付いていった。
「う~んまあそうね……貴女も春から小学生だし……もうそろそろ理解できるかもしれないわね……わかったわ。ちゃんと説明しておいてあげるから今後は四の五の言わないで、村の言い付けはきちんと守りなさいよ?」「はあい。」「三神の丘にあった武家屋敷にね、昔、凄く綺麗な女の子がいたんだって。」
「え~、あのお屋敷に人なんて住んでないでしょ~。100年前からお化け屋敷だったって愛衣花ちゃんが言ってたよ~」「バカ!まさかアンタ達あそこで遊んだりしてないわよね!」「遊んでないよ~。」
「……とにかくね。」と長い黒髪の後ろを鼈甲のバレッタで留めた長女は、「……その家の女の子がね、お母さんの言いつけを破って、夜寝る間際に白湯を飲んでしまったそうなの。」と言った。「……ふうん。」と呟いた幼い妹の喉が、ゴクリと鳴る音が聞こえた。
「……次の朝よ。その女の子はご不浄様の呪いに穢されてしまったの。……。言い伝えによると、女の子のお布団には、一夜のうちにタンポポがびっしり生えていたらしいわよ。」
「うわ~キモちわる~い」
…………。
人がよく目にしているタンポポの黄色い花は、実は一つの花ではなく、200本近い舌状花と呼ばれる花の集合体だった。花びらに見えている部分は、それぞれが独立した花であり、繋がった5枚の花びらを持っている。
その黄色いブツブツの花達は絡まり合いながら、少女の寝巻きの下半身から、左右に開いた足首に向かって布団の上に密集して咲き、
酸化の進んだ菜種油のような強い臭いを発していた。
すでにタンポポは、湿り気を帯びた布団の表面を破り、中の綿を押し分けながら畳の奥深くにまで根を張ってしまっており、娘の部屋にしっかり自生してしまっているようだった。
ぼんやりとした表情の美しい少女は、だらしなく布団の上に脚を開き、日本人形のような長い髪を辺り一面に散らしながら、
しまりのなくなった唇の端から、糸を引いた唾液を枕に向かって垂らしていた。
「日向子さん?!!」と割烹着を着た母親が部屋に飛び込んでくる。
彼女は椿油を塗った黒髪を後頭部で団子状にまとめていている。
日向子と呼ばれたその少女は、放心した様子で部屋の何もない天井を見つめていた。
彼女のお腹の下には沢山のタンポポの花が咲き乱れ、その細い茎には緑色の腹をした半透明の小さなアブラムシが蠢いているのが見える。
重ねてそれを捕食するために集まった30匹以上のナナホシテントウが、ミチミチと静かに音を立てながら、少女の身体と、濡れた布団の間を這っているのが目に入った。
母親は狂ったように、意味の通らない言葉をわめき、まだ中等部に上がったばかりの自分の娘の脇に手を入れ、上に向かって立たせようとした。
すでに畳の上で白い布団は腐り始めていて、少女を抱え上げるのと同時に、急速に枯れていく黄色い花の周りに向かって、円を描きながら羽のない茶虫がぶわっと沸き出してきて、
やがて忙しそうにカサカサと少女の汚れた寝巻きの上を動き回り始めた。
緩い泥まみれになった日向子の下腹部から、腐った土の強烈な臭いと、クサノオウを潰した時に出るような黄色い汁がこぼれ落ちてくる。
母親が悲鳴を上げて手を離すと、少女は四つん這いになったまま、汚れた布団の上に顔から落ちた。
「でね?お腹の下にタンポポが咲いちゃったその女の子はね、それからの一生、常に特別な装身具を付けていないと生活出来なくなっちゃったんだって。」と姉の沙因が言った。
「特別な装身具?」と紬が聞き返す。
「そうよ。腰巻きの中にね、宮代様にお祓いしてもらった御札を縫い込んだドビー織りの綿布を身に付けるの。でもね、それで解決するわけじゃないのよ?その女の子はそれがないとまともな社会生活が出来なくなるばかりか、それを1日に何回も交換しなければならなかったんですって。で、その子の綺麗な黒髪は、タンポポの綿毛みたいに真っ白になってしまったそうよ。」「こわい……。」
「それだけじゃないわ。その装身具を身に付けた女子は、一生結婚出来なくなるのよ。だって…ほら、そんなんじゃ夜、旦那様と一緒に眠ることが出来ないでしょ?」 そう言う沙因の頬は、何故か赤く染まっていた。
「お姉ちゃん?」と妹は怯えた声を出し、最後に「……わかった。私、寝る前にはゼッタイお水を飲まない。」と囁くような声で言った。
「……そうなさい。」と姉は言い、すぐに興味を失った顔をして、お気に入りの男性アイドルが表紙になった雑誌を手に取った。
***************
10年後。
美しく育った次女、木守 紬は、ブリキで出来た如露から庭の向日葵の種に水を与えながら、
強くなってきた日差しに目を細め、捻れたセーラー服のリボンを片手で真っ直ぐに直していた。
黒く艶のある髪は、今では腰の辺りまで伸びていて、それを白い和紙のような帯で3回に分けて束ねている。
眉は整えたり、剃ったりすることを母親から許されておらず、自然なままにしてあったが、彼女のそれは元々形の綺麗な生え方をしており、野暮ったい感じはしなかった。
紬は、畑に縦向きに刺されたままになっていた小さなシャベルを引き抜き、それを使って軽く端の土を掘り返してみた。すると太ったミミズの光る背中が現れ、「ごめんね。」と紬は独り言を言いながら再び土を被せてやる。
白く薄い手の甲に付いた泥を払い、少女はシャベルを持ったままゆっくりと歩き出すと、昔ながらの古い縁側に腰を下ろした。
紬が生まれた頃からすでに年代物だったこの家は、14年で更にあちこちが傷んできており、紬の軽い体重が乗っただけで、ギシギシと木の隙間が擦れ合う音がした。ここ数年の間だけでも何度か家の修繕が行われ、いっそ建て替えよう、という話も出ていたが、
その度に祖母の巌とした反対に会い、話は幾度となく立ち消えになっていた。
そのせいで、木守一族が住むこの家は、継ぎ接ぎのような修理を繰り返しながらも、100年前の姿を今にとどめているのだった。
……でも、私はこの古いおうちが大好き…。
……ひんやりとした土壁。雨漏りをお鍋で受ける時に、コン、コンと奏でられる、夜の台所の音楽会。障子に貼ったお花柄の紙と糊の匂い…。
…お姉ちゃんはいつも文句を言っていて、大学に通うために、東京に出ることになった時、「ようやく、このボロ家と、天井の低い部屋ともお別れね!」と嬉しそうに言っていた。
沙因お姉ちゃんが出ていくことに対しても、お祖母ちゃんとお母さんは大反対だった……。でも、お父さんがお姉ちゃんを庇ってくれたおかげで進学することが出来たんだ。
お父さんはいつもそう。いつだってお姉ちゃんの一番の味方。……勿論、私にも優しいお父さんだけど…なんて言うか……、沙因お姉ちゃんに対しては、怒る時は凄く怒るし、手だって上げる。でも逆に庇う時はとことん守りきるんだ。
お父さんは、お姉ちゃんのことを全力で愛していたような気がする……
……私は。
お父さんに一度もぶたれたことがない。
お父さんは、いつも「紬はいい子だから」と言うけど、ホントにそうなのかな?……私はいい子なのかな?
昔、沙因お姉ちゃんがお父さんにぶたれた時、2人は1ヶ月近く口をきかなかった。
それでもお姉ちゃんはお父さんを憎んでいなかった…と、思う。
だってあの日、お姉ちゃんは、打たれなかった方の頬っぺたを自分で打っていたから。
何故、そんなことをしたか分からないけれど、その日の沙因お姉ちゃんの頬は両方赤く腫れていた。
そしてお父さんも、1ヶ月間、お姉ちゃんを打った右手を使わなかった。
お祖母ちゃんは宮代の社から神影水を戴いてきて、それで手を洗うようにとお父さんに言った……。
私は生まれてから一度も、両親にぶたれたことがないし、罰せられたこともない。大声で怒られた記憶もあまりない。
……どうしてだろう。私は、今まで本当の意味で愛されていなかったのかもしれないな……。
紬は、少し震える手で、ぺちっ、と自分の頬を叩くと、
……私は臆病だから悪いことが出来ないだけだ。いつも言い付けを守り、大人に逆らわないようにする。だから誰にも、本気で叱られることもない。
……つまらない人間だよね…
と1人で微笑むと、強く叩くことの出来なかった頬をそっと指で撫でた。
「絵になるわね~~」
笑いを堪えたような嬉しそうな声がした。
声がした方を向くと、剪定されたばかりの金木犀の生け垣の間から、ブルネットに近い、よく言えばフワフワの、悪く言えばボサボサに横に広がった髪をした少女が「ヤッホー」と言いながら手を振っている。
「なあに、蛍?その表情は?また私のこと馬鹿にして……」と、紬が恥ずかしそうに自分の手のひらを紺色のプリーツスカートの下へ滑り込ませ、太ももの下に挟んだ。
「紬?今のなあに?自分のホッペ叩くやつ。…セルフネグレクト?あ、違った…こういうのって何て言うんだっけ?リストカット?オーバードーズ??……なんだっけ?とにかくなんか悩んでるなら言ってよね~?この地域の保護者たる、宮代家の蛍ちゃんは、いつも目とオシリを光らせてますからねー。」
日に焼けた半袖セーラーの女子、宮代蛍はウッシッシ…と手刀を口にあてがいながら笑い、「今、そっち行くから待っててー」と、登っていた石台の上から飛び降りると、
ザザッと砂利を鳴らして玄関の方へ走っていった。
**************
「ねえ!聞いてよ!聞いてよ!思い出した!さっきのって自傷行為っていうんだよね!!メ(旧ツイスター)で見た!」
と唾を飛ばしながら蛍が、縁側に座る紬の横に腰を下ろす。
「ちょ……」と、紬は顔を後ろに引きながら、シャベルを盾のようにして構えた。「……別に自傷行為ではないわよ」
「じゃあ無意識に自分をぶったの??あ!実はね!蛍もなの!ここ最近、無意識っていうか、なんていうか!知らないうちに、脚にレッグカットっていうの?イッパイ傷が出来てちゃって!……あ、ひょっとしたらコレって呪い?怨念?自爆霊!?」ちゅどーーん♡と背景を爆発させながら、白いセーラーにかいた汗の跡に土をつけた宮代蛍が顔を近付けてきた。
「近いって…」と紬が体を横に滑らせる。
「……まあ、でも、貴女は宮代家の長女だしね……。呪いとか…あながち有り得ない話ではなさそうなのよね…」紬はそう言うと、ようやくシャベルを縁側に下ろし、「……見せてもらえる?……その傷っていうのを」と呟いた。
蛍はキョロキョロと左右を見回すと、スカートに手をかけ、「内緒よ」と言うと、
紬がゴクリと唾を呑み込んだ。
ガバッ!
パンツすれすれに太ももを出した親友を見て、紬は「…………」と、しばし顎に人差し指を鉤爪の形に折ってあてがい…、
それから静かに「……肉割れ……」と言った。
「肉割れ?」とスカートの形に日焼け跡が付いた白い脚を投げ出しながら蛍が首を傾げる。
「…ホタル、貴女、最近急に太ったでしょ。食べ過ぎばかりか、明らかな運動不足の兆候…日に焼けるほど外で遊んでるみたいなのに、毎日ナニやってるのよ……ちょっと立ちなさい」
紬は自分も立ち上がりながら、蛍の体を裏返し、躊躇なく彼女のスカートをベラリと捲り上げた。
「いやん♡」と蛍が言い、紬が「……こっちの方はセルライト……うら若き乙女の純潔がボコボコじゃない……」と言って溜め息を吐く。
「セルライト?…セルフネグレクトじゃなく?」
「うん。フランス語だよ。Cellule(細胞) ite(鉱物)最近、アメリカの美容業界で注目された皮膚の老廃物に関する症例よ。お母さんが読んでいた雑誌に出ていたの……待ってて。お祖母ちゃんからもらったクリームがあるから。毎晩それを塗って、よく揉み出しをすれば治るはずよ。」
紬は掃いていたサンダルを脱ぐと家に上がり、廊下の向こうにある暗がりに消えていった。
しばらくするとパタパタと足音を立てて戻ってきた紬が「はい。これ使いかけだけどあげる。」と言って、黄色い円筒形の容器を差し出してきた。
「うそ!これ、ラテナのクリームじゃん!可愛い!これ前から使ってみたかったのよねー!!」と蛍が小躍りしながら友人を出迎える。「しかもバナナの香りがするやつじゃん!」
「お子様クリームでごめんね。」
「♪カワイコちゃん、ハイ、ハ~イ!ラテナお子さまクリ~ィム(怒)!」と蛍は歌いながら、勝手に上がりこんだ縁側で、スカートを開いてクルクルと踊ってみせた。
呆れたように胸の前で腕を組んで同級生を見つめる紬は「……ところで、さっき言ってたセルフネグ…レ…?とかオーバードーズ??てなあに?」と言った。
「……あと、メ(旧ツイスター)ってなんのこと?」
「………」
「………」
笑顔で固まっていた蛍が、しまった!
と、口に手を当てて目を泳がせると、すぐに口笛を吹き出す。
スースー、と掠れた空気が唇を通過するなか、
紬の視線に気付いて
「あ、私、口笛吹けなかったぁ……」と言って、てへぺろ☆をした。
「アナタさ、前から思ってたけど、宮代様のおうちで口笛が吹けないのって…大丈夫なの??」と紬が尋ねる。
「ほら、夜蛇の儀で巫女は口笛吹かなきゃいけないんでしょ?」
「まあまあまあ、ツムギ殿、固いこと言わない。ほら、見て。ホタルね?最近指パッチン出来るようになったんだよ」と言ってピチッ、と指の間から若干湿った音を鳴らす。
縁側についた、彼女のもう片方の手のひらの下で板が白く曇っているのを見て、「……相変わらずの手汗…」と紬が言った。
「じゃ、紬ちゃん、また明日ねー」と言って蛍が立ち上がる。「クリームありがと!早速今夜から使ってみるわ!お尻にバナナ!楽しみ~」
ピューッと庭を横切ると、瞬く間に蛍の姿は生け垣の向こうを走っていき、砂煙を上げながら三神丘の方へと続く道を小さく遠ざかっていった。
…………。チイチイ。
目の前の生け垣から、緑色のメジロが顔を覗かせ高い声で鳴く。
「あら、こんにちは」と紬は小さな声で呟き、束ねた長い髪を板上にとぐろのように巻くと、縁側の下にある石台の上にしゃがみ込んだ。
すぐに隠れてしまった小鳥を探して、紬は更に姿勢を低くして、遠目に生け垣の中を覗き込もうとする。
……ふと、背中側に何かの気配を感じ、
髪を肩にかけながら、紬は縁側の方を振り返った。
…縁の下の闇の中に………、何かがいる。
紬は、砂利に膝をつけて這いつくばり、奥を見つめた。
「あ」とセーラー服の少女は思わず声を出していた。
薄暗がりの中で、
地面から割れた土が盛り上がってきていて、そこから皮を被った茶色い刺が上方に向かって飛び出しているのが見えたのだ。
……タケノコだ……。
木守 紬は、膝の砂を払い、
……これは困ったことになったわ…と思った。
…このまま放置しておくと、タケノコはどんどん育って、やがて家の床を突き破ってしまう。
紬は眉をひそめると真剣な顔をして立ち上がり、
すぐに離れにいる祖母を呼びに走り出した。




