雲海を裂く
雲を掬うのが好きだった。
手で触れるとすうっと切れて、指先に雫が付く。そうしてびしょ濡れになった僕を、母さんは叱るどころか一緒に空を飛んでくれた。母さんに抱かれ、雲を突き破り夕日を眺めるあの時間が、僕は大好きだった。
母さんが雲下人に撃たれたのは十二の頃。もう二年になる。
僕の足元にある墓の下に、母さんの亡骸は埋まっていない。雲下人は、仕留めた『獲物』をすべて持ち帰ってしまうからだ。胸を打たれ、網へと落ちていった母さんが、どうなったのか僕には分からない。ただ、雲下人の身に纏う服には時折僕達の物とよく似た羽が使われている。その先は、考えたくもなかった。
後ろに倒れた。柔らかい草が僕の背中を受け止める。上を見上げると、ずっとずっと遠くから太陽が僕を見下ろしていた。薄いヴェールの様な雲が間を通って、影を作る。ぽかぽかした身体に風が涼しかった。
「おーい、ラズーイー!」
僕の名前を呼ぶ声がする。この声は、幼馴染のキキロだ。僕は起き上がると、後ろを振り返った。キキロは、ふわふわとした白い羽を背中にたたむとふわりと僕の前に着地する。
「キキロ! どうしてここに?」
「私も、ラズーイのお母さんにはお世話になってたから。これ、ほんの気持ちだけだけど」
そう言ってキキロが抱えていた花を僕に差し出した。キキロの髪の色にそっくりな、黄色いタンポポ。真っ赤なチューリップや、色とりどりのポピーまで沢山だ。その中には、母さんを思い出すオレンジの花もある。
「ありがとう。母さんもきっと喜ぶ」
僕はそれを、墓石の前にそっと手向けた。風がそよぎ、何枚かの花弁が散る。それは青い空を舞ったかと思えば島の外へ、真っ白に広がる雲の海へと落ちていった。
僕達は、雲の上に浮かぶ無数の島の上で暮らしている。その名は翼人。太陽の愛をいっぱいに浴び、風と共に生きる空の子だ。
ぼうっと遠くの海を眺めていると、僕の手をキキロがそっと掴んだ。
「どうしたの?」
俯いているキキロの顔を覗こうとするけど、顔を背けられてしまった。首を傾げているとゆっくりと顔を上げたキキロが、少し不安そうな顔でこう言った。
「ラズーイ。ちょっと、いい?」
*___*
空の青がだんだんと薄れて、代わりに暖かい色になっていく。雲の海も、黄色に輝いて影が出来ていた。赤くなろうとしている空の中を、キキロに手を握られ連れられる。
「ひゅー! お熱いねぇ!」
上を見上げると、流れる浮島の上から首だけを出した双子がにやにや笑って見ている。僕はキキロに握られた手を見ると、つい慌てて振り払ってしまった。
「そんなんじゃない!」
「ひゃー! こわー!」
ケラケラと高い声を上げながら首を引っ込めた双子の後を睨んでいると、キキロは下手したら気が付かないくらい弱く僕の袖を引っ張った。
「キキロ、どうしたの? 今日、なんか変だよ?」
普段のキキロと言えば、その髪の色に負けない程明るく、にこにこしている。どちらかと言えば元気すぎるくらいで、さっきの双子にからかわれたら真っ先に否定し追いかけるのはいつもキキロの役目だ。でも、僕の手を引いてからは俯いたまま、小さな声で喋るだけでとても弱々しい。
「お願いだから、ちょっと来て」
やっぱり何かおかしい。そう思いながらも僕は袖を引かれついて行く。だが、その先を見ると僕は羽を止めた。雲が壁の様にそびえ立っている。海や太陽に近い明るい色の雲ではなく、影を落とす暗ぼったい雲の壁。時折雲下人が出てきて、危ないから近付いてはいけないと先生や群れ長から耳が痛くなるほど聞かされた。それはキキロも知っている筈だ。
「そこから先は危ないって先生や群れ長が言ってたよ?」
キキロは一度周りを見渡すと、近くの小さな浮島の影まで僕を引っ張った。
「なんでこんなところに。何かあるの?」
「……たいこと」
「え?」
俯いたキキロが、ぼそっと何かを呟いた。もう一度、次は聞き逃さない様に顔を近づけるとキキロは僕の肩を掴む。
「ラズーイ、私ね、ずっと言いたかったことがあるの!」
「な、なに?」
キキロは何度か口をぱくぱくとさせながら、言葉になりきっていない声をいくつか漏らす。夕日が差し込み、彼女の顔を赤く照らした。僕の胸が、何故かどくんと脈を打つ。顔が熱い。日が差したから? きっとそうだ。僕の顔も多分、夕日で赤く染められている事だろう。まだ言いたいことが浮かばない。でも、僕は口を動かした。
「ぼ、僕も、言いたいことがあるんだ!」
僕が肩に手を乗せると、キキロは目と口を丸く開いて固まった。それからゆっくりと口を閉じ笑いかける。
「じゃあ、一緒に言おう?」
「う、うん」
お互いに、息を思い切り吸い込む。爆発しそうな心臓が、より一層高鳴った。頼むから、今だけは静かにして! ふう、と一度深呼吸。視線を向けると、キキロもまた息を吐いたところだった。笑い合い、それからもう一度息を吸い込む。
「ずっと__」
「ずっと前から__」
「好きだ!」
思わず目を瞑る。僕だけが先走ってしまったのか、キキロの声は聞こえない。僕の思い違いだったんだろうか。胸だけが、どくどくうるさい。ぎゅっと瞼に力を入れ、身体を強ばらせる。すると、キキロの手がするりと僕の肩から離れた。
「キキロ?」
目を開けると、キキロは俯いたまま動かない。そしてゆっくり僕の方へ倒れ掛かってきた。
「ちょっと、どうしたの? ちゃんとしてよ」
その身体を受け止めると、手が滑って危うく落としてしまいそうになった。動いてくれないキキロを抱えなおすと、ふとキキロの服に目が行った。赤い。夕日よりも。
それが何なのか、僕はすぐに見当がが付いた。いや、違う。そんな訳ない。これは夕日だ。今日の夕日は、いつもに増して真っ赤なだけなんだ。
ゴーン。ゴーン。ゴーン。
鐘が三度鳴る。三度の鐘は、危険の合図。それに示し合わせたかのように、雲の隙間から黒い塊がいくつも浮き上がってきた。その上には、暗い色の布で身を包んだ、変な仮面をつけた人影が乗っている。僕等によく似た姿形。でもその背中に翼はない。一目でわかる。雲下人だ。
僕達の最も近くから出てきた雲下人が、銃を構えている。その口からは、もくもくと煙が出ていた。違う、違う、あれは雲だ。
「キキロ、しっかりして! 僕等も逃げないと、速くしないと!」
たん、たん、たたたん。
翼を必死にばたばたと動かす。二人分の重さは、まだ小さい僕の身体では持ち上げるので精いっぱいだ。悲鳴が聞こえた。甲高い、僕よりももっと小さい子の声。僕はその声に唇を噛みながら逃げる。
ゴーン。ゴーン。ゴーン。
鐘は鳴り続ける。皆が、あちらこちらへ逃げ惑う。
「誰か、誰か助けて! キキロが、キキロが動いてくれないんだ!」
たん、たたん、たたん。
僕の声は、銃の音と誰かの叫び声で掻き消えた。涙で前が見えない。翼も痛くてうまく動かない。恐らく、弾がかすめたのだろう。僕の飛ぶ姿は、きっと、不格好だ。
「キキロ、僕は君を守るよ。あいつらになんて連れてかせない、触れさせない。頑張るよ、僕頑張るから。だからお願い、目を覚ましてよ」
キキロの身体をぐいっと起こすと、その顔を覗き込んだ。目が半開きのまま、固まっている。視線を降ろすと、胸が真っ赤に染まっていた。滴るほどの血で、真っ赤だ。翼の力が抜けていく。
ぱんっ! 左腕が熱くなった。掌がうまく握れない。キキロの身体がずり落ちた。
「待って!」
下へ向かって、思い切り翼をはたいた。痛い、痛い。でも、そんなことを言っている場合じゃない。キキロは、キキロだけは連れていかれたくない!
白い海に落ちていくキキロ。そこには、大きな網を張った雲下人が待ち構えていた。だめ、だめだ!
網は、ぽすんとキキロの身体を受け止めた。雲下人が、手を伸ばす。僕はそこに、自分から飛び込んだ。
*___*
ざわざわと声がする。目を開けると、僕は檻の中に居た。冷たくて堅い檻。外は、大きなテーブルにずらりと椅子が並んでいる。図書館の絵本の中で見た、パーティーでもするみたいな景色だ。その席に着いているのは、雲下人。服装は違くとも、翼のない、仮面を被った僕達と似た生き物なんて他に居ない。
雲下人達が歓声を上げた。よく見ると、大きなお皿が運ばれてきた。いいにおいが、ここにまで届いている。テーブルの一番奥、一人だけ豪華な椅子に座った雲下人が喋り始めた。
「今日も勇敢な戦士達が、私達の食卓の為に狩りに出かけた。危険を冒し、私達を上から守ってくれる戦士達、そして今日まで元気に育ってくれた彼等に祈りを捧げよう」
お皿がいくつも運ばれてくる。細い骨付きの肉に、指程のおかずが沢山乗ったお皿まで、色々だ。
コト、と奥の席に一つの皿が運ばれる。それは僕の頭と同じくらいで、てろんと黄色い何かが垂れていた。
「おや、今日は毛を抜いてはいないのか。斬新だな」
いや、待って。ドロっとしたものが上からかかっているが、それでも、よく分かる。あれは、あの黄色い髪は__
「では皆。今日もこうしておいしい食事にありつけることに感謝を込めて」
「待って!!!」
「「いただきます」」