第8話
「特に、理由はないんだけど……」
兄に真正面から見据えられて、私は再び落ち着かなくなった。言葉を宙に浮かせながら、うまい言い方をなんとか見つけ出そうとする。
「研修中に、ちょっと思うところがあったというか」
我ながらまったく要領を得ないと思った。苦し紛れで言葉のあいまにコーヒーを飲んでも、いきなり生ぬるく感じられる。
思えば、確かに、どうして私はここに来たのだろう。
千代田線が日比谷駅のホームにすべり込む瞬間に、どうしようもなく兄に会いたくなったのだ。それ以外に表現のしようがなかった。
新人研修でたまたま昔住んでいた家に行き、中国人母娘からの集金に失敗した。今日の行動をまとめてしまえば、それだけのことにすぎなかった。だが、それと、今私がこの家にいることがどう繋がるのか兄には理解できないだろうし、私にだってわからない。
もし一から説明するとして、どこまでさかのぼればいい? 電力会社の新人研修をひととおり説明してから、今日の出来事を順を追って話せばいいのか。でも、村林まで登場させる必要があるとは思えない。必要としているのは、もっと、もっとシンプルな……。
私はゆっくりと顔を上げた。黙ったまま、空になったマグカップの底を見つめているのに自分が耐えきれなくなったのだ。
訴えるように一度まばたきすると、兄が私を覗き込んだ。
「うん?」
兄は不思議そうに、でもどこか楽しんでいるように、小首を傾げた。
それは腕のいい老給仕が、音を立てずに椅子を引いてくれるのに似ていた。
さあどうぞ、ここがあなたの席ですよ、と。
「お兄さんは、お姉ちゃんに会ったら、なんて言う……?」
言ってから、自分が驚いた。
そんなことを訊くつもりはまったくなかったのに。リビングがしんと静まり返る。兄は軽く目を見開いて私を見つめてから、顎に指をかけて思案のポーズを取った。
私はいったい何を言ったのだろう。既に後悔していた。兄にそんな質問をぶつけるのは失礼だった。姉は別の男と子どもを作り、結婚直前に兄を捨てたのだ。事情を知っていて話さなかった私は、充分共犯者だった。私に訊く権利はない。
だけど同時に、兄がなんと答えるのか、たまらなく知りたかった。
なんて答えてもらえれば、私は満足する? 兄は怒るべき? それとも姉を許してほしい? むしろ何も言わないでほしい? なんて答えなら、私は息をつける?
兄はそのまましばらく考えていた。高鳴った心臓の音が、自分の身体からはみ出しそうだった。50メートル走の直後みたいに、喉の奥が干上がり、握った拳の内側に汗が溜まった。
「そうだねぇ……」
思わず身を固くする。
「子どもを、抱っこさせてもらう?」
数秒間、反応できずにぽかんとしていた。口をだらしなく開いたまま、まじまじと兄を見つめた。
「そんな、きょとんとしないでよ」
私は心底驚いていた。そんな私と間逆に、兄はいたってけろりとしている。
「なんで……」
「いや、だってもしかしたら僕の子どもの可能性もなくはないわけだし……。って、まあ99.9%ないと思うけど」
兄が自分で自分にツッコんでいる。
「遼子の子どもなら、きっといい子だろうねえ。今さら何を話せばいいのかは正直わからないけど、子どもを見れば、僕の知らない時期の遼子が、なんとなくわかるんじゃないかな?って気がする」
それに、と兄は付けくわえた。
「単純にいたわってあげたいと思う。どういう経緯であれ、子どもを産み育ててきた女の人のことは。それって、すごく偉大なことだよ」
私は再度、まじまじと兄を見た。信じがたい男の顔を見た。呆気にとられている端で、こみ上がってくるものを感じる。
「なんていうか、ほんと、お兄さんは……」
何か眩しいものが、身体から湧きあがっている。
「そもそも、『なんて言う?』って質問の答えになってないじゃないですか……」
気づけば、私は声を出して笑っていた。くつくつと横隔膜が振動するのが止まらなかった。「えー」とか「だってさ」とかいう兄の声を聞きながら、ソファに背を沈めて天井を仰ぐ。
私は私の薄暗い穴が、たっぷりの液体で満たされるのを感じる。そこからシャンパンの泡のように、金色の細かい気泡が切れ目なく立ち上がっている。あらゆる管を通って、四肢の隅々まで行きわたる。指先や、脳や、瞼の裏で、ぱちぱちと軽やかに弾けて、ほろ酔いのような心地になる。
そして私は思い知るのだ。
自分が思っていた以上に、はるかにずっと、私は愛してしまっているのかもしれない。
この家を。この空間を。この時間を。この兄という存在を。
きっと愛してしまっている。
泊まっていけばいいのに、という兄の誘いは丁重に断った。22時前。まだ飲み会は続いているだろう。ずいぶん遅れてしまったけど、今からでも行こうと思ったのだ。そう伝えると、兄は「同期は大事にしたほうがいいからねぇ」と言って引きとめなかった。
「来週、配属が発表になるんですけど」
玄関先で見送られながら、私は振り返って言った。
「改めて報告するので、そしたら飲みに行きましょうね」
今度は家の近くではなくて、社会人らしく、互いの会社の中間地点がいいなと思う。
「お店考えとくよ。でも今夜はとりあえず、同期と楽しんでおいで」
兄が目を細めて頷いた。少年のようなのに、保護者みたいな顔も似合う。改めて不思議な人だと思う。
「あとね、お兄さん」
「ん?」
私は鞄を肩にかけ直すと、玄関からスリッパをはいた兄を見上げた。
「同期に、お兄さんのこと、話してもいい?」
兄は一瞬不思議そうにしつつも、口角を上げて応えた。
「もちろん」
私の唇の端もきゅっと上がる。そのまま軽く手を振って、夜の空の下に出た。後ろで玄関のドアが閉まる音を聞きながら、私は道を歩きだす。
携帯電話を開くと、さらに何通かのメールと、いくつか着信が残っていた。その中には村林からのものもあった。村林のメールには、「みんな待ってるから、遅くなっても気にせず来なよ! ラスボスは最後に来るもんだしね。今夜はオールだっ!!」と書かれていた。不覚にも、ラスボスってなんだよ、と思わず独り笑いしてしまった。ちょうど停留所にバスが来ていて、乗り込んでメールの返事を打つ。バスが駅へと走り始める。
私は心の中で姉を呼ぶ。お姉ちゃん、お姉ちゃん。
姉抜きの人生を、どこかで受け止めきれずにいた。いつまで経っても仮住まいのようで落ち着かなかった。姉も兄も関係ないところまで走り抜けたいとも思った。加害者意識と被害者意識が絡み合って、自分でも何を求めているのかわからなかった。
古いアパートの光景が甦る。変わっていなかった町が見える。
捨てられたのだ、と思っていた。でも、私を捨てたのは私だったのかもしれない。
繋がって続いていくものを信じていなかった。脱ぎ捨てるように、細切れに生きていこうとして、かたくなに拒み続けていた。
でも、お姉ちゃん。
あなたの婚約者は大した人だった。ずっと疑っていてごめんなさい。きっと、結婚していれば世界一いい夫になったろうに。それだけが残念だけど、仕方ない。分岐した人生を無理やり戻すことはできない。いくつもの電車を乗り換えながら進んでいくしかない。
姉に再び会えるとき、どんな言葉が出てくるのか、私にはわからない。ただ、幸せであってほしいと思う。今は無理でも、この先どこかで会えればいいなと思う。
ぐるりと巡り巡って、いつか最後に帰せる場所で。