第7話
「しっかり者で、とても落ち着いていますが、子どもらしさに欠ける部分があります」
「なんでも平均点以上にこなしています。半面、積極的に興味のあることがないようです」
小学校の通信簿は、たいていそんなふうに書かれていた。
終業式のあとに教室で通信簿を受け取ると、定規で横線を引くようにまっすぐ文字列を追って、そっとランドセルにしまった。読み返したりはしなかった。読む前から大体のことは想像がついていたし、たとえ嬉しい内容じゃなかろうと、書きかえられるわけじゃない。ただ、自分は教師という職業とは相性がよくないのだろうな、というのはわかった。
子どもらしさに欠けるから、興味のあることがないから、それがなんだというのだろう。時間にルーズだとか忘れ物が多いとか、短所らしい短所なら直すこともできる。私はつとめて真面目にやっているだけなのに、なぜ自分ではどうしようもないことをわざわざ指摘されなければいけないのだろう。誰にも迷惑をかけず、問題を起こさず、生きているだけだ。
母が生きていた頃は、通信簿を見せるのが苦痛だった。母のため息を増やすかと思うと気が重かった。ただでさえ、私の存在は母を圧迫しているというのに。終業式の日はいつも時間と気持ちを持て余しながら、川沿いの道を歩くのがきまりだった。昼前に学校が終わったって、家には誰もいない。結局、小学校高学年になるまで、夕方まで時間をつぶす上手い方法をみつけられないまま、昼食も摂らずにあてもなく歩いた。ただし、川を渡ることはなかった。学校から、子どもだけで川向こうに行くなと言われていたのを守っていたというのもあるけど、それだけではなかった。川は幅が広く、水量が多く、少し淀んでいて、どちらかというとお堀のような感じがした。
ときどきひとり、小石を川に投げて遊んだ。川面にぶつかる瞬間の音を聞こうと思って耳を済ませるのに、毎回車や工事の騒音でかき消された。私は自分が小石になって、川に落ちる場面を想像した。たぶん、やっぱり誰にも気づいてもらえないのだろうなと思った。別に悲しくはなかった。ランドセルごと川に沈んでいく空想は、むしろ小気味のいいものだった。膝をかかえて、小さくなって、誰にも気づかれないまま、ひっそりと川の底に沈んでいく私。川の底は静かで、薄暗く、自由だろうと思った。
そして、誰も私に干渉しない。
「紫野ちゃん……紫野ちゃん?」
聞き覚えのある声がして、舟が引き上げられるように目が覚めた。知らないうちに眠っていたのだ。
反射的に頭を上げると、目の前に私を覗き込んでいる顔があった。夜の色のなかでも、困ったような笑っているような独特の表情はすぐに判別がつく。2か月ぶりのその顔、その声。
「ああ、起きた。紫野ちゃん、大丈夫?」
兄は心底驚いたという顔で、しゃがんだ状態のまま、私をじっとみつめた。考えるよりはやく、私の喉が応対する。
「ごめんなさい、待ってるうちに寝てたみたいで」
自分の予想より、声はしっかりと出ていた。兄がくだけた安堵の笑みを浮かべる。
「帰ってきたら、玄関に人影があってびっくりしたのに、それが紫野ちゃんだったからさらにびっくりしたよ。一体どうしたの?」
「ごめんなさい。驚かせるつもりはなくて……」
慌てて立ち上がったせいで、ふらりと足元が揺れた。兄がとっさに私の腕を掴む。一瞬にして、2か月前の夜の出来事が思い出された。春の晩、私はこの玄関ポーチで、兄にずっと嘘をついていたことを告白し、別れを告げたのだ。なんだかいきなり恥ずかしくなって睫毛を伏せた。私はいったい何をやっているのだろう。
「本当に大丈夫?」
兄は私の戸惑いに気づいていないのか、子どものような目で覗き込んでくる。
「帰るって連絡しようと思って、何度か電話したんですけど……」
「わ、ごめんごめん。僕、今日ケータイ家に忘れて出ちゃって、会社の人にも怒られたんだよ」
それが実に兄らしい回答で、私は思わず噴き出してしまった。笑った私を見て、兄もはにかむように微笑んだ。30歳にしては幼すぎる笑顔だと思うけど、ずるいところがないのが、この隆之介という兄なのだ。
「とりあえず、中に入ろう?」
鍵ががちゃりと回ってドアが開くと同時に、慣れ親しんだ匂いが家から広がった。この家だけの匂いが、私の中に満ちる。物言わぬ許容を勝手に感じて、私の心は自然と生気を取り戻していく。
「汚くてごめん。2週間くらい仕事がバタバタしてて……」
リビングには新聞やクリーニング済みのシャツが乱雑に放置されていて、確かに片付いているとは言い難かった。私が住んでいた頃は、極力物をしまうようにしていたから、一気に男の独り暮らしっぽい雰囲気が出た感がある。ただ、食べ物のゴミや空のペットボトルは一応まとめてあるようで、そこが兄らしいなと思った。
「そんなに汚くないですよ」
キッチンに立った兄が、電気ケトルに水を入れる。手伝おうとすると、手振りで断られた。
「紫野ちゃんがいた頃に比べたら全然……。まあ、座って」
促され、ソファの端にちょこんと座ってみる。壁時計を見ると20時半過ぎだった。ずいぶん眠ってしまった気がしたけど、実際は30分くらいだったようだ。
「食事は?」
そう尋ねると、彼は申し訳なさそうな顔をした。
「ごめん、食べてきちゃった。せっかくなら紫野ちゃんと待ち合わせればよかったね」
私は首を振る。
「飲み会とかはないんですか?」
「一応、誘われてたんだけど……。このところまともな食生活してなかったから、飲む気分じゃないなと思って、大戸屋のサバ定食食べて帰ってきちゃった」
兄がマグカップをふたつ持って、ソファへとやって来た。スーツの上着とネクタイを脱いだ下には、薄くドットが入った水色のシャツを着ていた。ちょうど、お腹の部分に私の視線が合う。数秒間凝視して、私は口を開いた。
「お兄さんさあ、ちょっと太ったよね?」
「ええっ!?」
兄が極端なくらい悲痛な声を上げた。
「特にお腹のあたり、やわらかいフォルムになりましたよね。昔はもっと少年体型だったと思うけど……」
「気にしないフリしてたけど、やっぱりそうかな~」
ローテーブルにマグカップを置いて、兄が悶絶した。その姿を見て、唇の端が薄く上がってしまう。ああ、この感じ。兄に対して遠慮する部分があるのと同時に、いつも少し意地悪したくなってしまう。兄が素直に反応してくれるのが、楽しくて仕方ないのだ。
「運動してます? 以前はたまにテニス行ってましたよね」
「最近さっぱり行ってないね。三十路越えると、急にいろいろ面倒くさくなって……」
兄が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、私はますます生気を取り戻していた。インスタントのブラック。兄は自分のカップには牛乳を入れていた。何も言わなくてもわかってくれている。
「そりゃ、紫野ちゃんは若いし細いけどさ」
兄がついに不服そうな声を出した。私はマグカップを両手で支えながら笑う。
「責めてるわけじゃないですよ。ただ、こうして見ると、お兄さんも普通のサラリーマンなんだなって。というか、仮にも独身の御曹司が、金曜の夜にサバ定食なんて、ちょっと色気なさすぎじゃないですか?」
30歳で、独身で、大企業のおぼっちゃまで、それどころか顔も性格も悪くない。本来ならこの時間、義理の妹とまったりコーヒーなんて飲んでいる場合じゃないはずだろうに。
しかし兄は気を悪くするでもなく、てらうでもなく、平然と言ってのけた。
「でも、おかげで紫野ちゃんに会えたから」
美味しそうにコーヒーを飲み干すと、静かにカップを置いて、兄は尋ねた。
「で、今夜はいきなりどうしたの?」
今度は、私がギクリとする番だった。




