第十五話 受け継がれた盤面
――黄ばんだ手帳の最後のページをめくり終えた時、窓の外は薄っすらと白み始めていた。
虫の鳴き声と、静かな夜明けの空気。
卓上ライトのオレンジ色の光の下で、俺――坂口淳也は、息を呑んだまましばらく動くことができなかった。
「そうだったのか……じいちゃん……」
あの日、押し入れの奥から出てきた『感状』と菊の御紋の入った懐中時計。
なぜじいちゃんが戦場での誉れを家族に隠し続けたのか、なぜ手紙や時計を固く閉ざされた箱に仕舞い込んでいたのか。
その理由が、すべての答えが、この手帳の中に刻まれていた。
ノモンハンの激戦。三浦分隊の絆。
そして、手帳に挟まれていた傷痍軍人会の白糠温泉での写真と、そこに記された手紙。
ガダルカナルで散った金三、占守島で息を引き取った太郎。
じいちゃんは手柄を誇るどころか、「自分だけが生き残ってしまった」という激しい罪悪感を抱え、亡くなった仲間の屍の上に立っている苦悩と戦い続けていたのだ。
俺は桐箱から、傷痍軍人会の古い集合写真を取り出した。
白髪交じりの五十名の男たちと妻たちの笑顔。
その写真を一枚一枚たどっていた俺は、はっと息をのんだ。
正造じいちゃんの隣で、右脚を失った姿で優しく微笑んでいる男。
手帳の端に几帳面な文字で記されていた名前。
――齋藤。
チチハルの陸軍病院で「生きて帰れ」と告げ、白糠の温泉で「生き残った俺たちの最後の務めは、家族を愛して精一杯生きていくことだ」とじいちゃんの背中を押してくれた齋藤中尉。
俺の頭の中に、幼い頃の鮮明な記憶が蘇ってきた。
三歳の頃、俺は正造じいちゃんの膝の上で将棋を教わった。
ゴツゴツとした温かい指先で駒を動かしていたじいちゃん。
だが小学生になる頃、じいちゃんは脳梗塞で寝たきりになってしまった。
一人で市の将棋大会へ通うようになった俺の傍らには、いつも右足が義足のおじいちゃんがついていてくれた。
行き帰りの道中でお弁当を気にしてくれ、「正造の孫なら、筋がいいぞ」「落ち着いて指せ」と力強く背中を押してくれたあのおじいちゃん。
「あのおじいちゃんは……齋藤さんだったんだ……」
寝たきりになった正造じいちゃんに代わり、傷痍軍人会で絆を結んだ齋藤さんが、親友の孫である俺の面倒を見ていてくれたのだ。
ノモンハンの地獄を生き抜き、戦後も白糠の湯で傷を抱え合い、命の尊さを確かめ合った仲間たちの温かい手が、時代を超えて幼い俺にまで差し伸べられていた。
俺は一階へ下り、仏壇の前に座った。
お盆の提灯が静かに揺れる中、仏壇の横に飾られた正造じいちゃんとハナばあちゃんの遺影を見上げる。
その脇には、じいちゃんが遺した古びた将棋盤があった。
使い込まれた木目と、角がすり減った駒。
俺は三歳の頃に教わった指し手を思い出しながら、静かに「歩」を一つ、前へ進めた。
パチ、と朝の静けさの中に駒の音が響く。
「じいちゃん。ありがとう」
手柄を誇らず、ただ懸命に命を繋ぎ、俺たちに未来を渡してくれた正造じいちゃん。
アンド、その命を支え続けたハナばあちゃんと、傷痍軍人会の仲間たち。
窓から差し込む夏の朝日に包まれながら、俺は胸を張って、心の中で静かに誓った。
あなたたちが命懸けで守り抜き、繋いでくれたこの命を、この平穏な時代を。
俺は誇りを持って、前を向いて生きていきます、と。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
この物語は、私の祖父が遺した傷痍軍人記章や銀の懐中時計、感状、そして大切に保管されていた手紙や史実の資料をもとに書き上げた作品です。
戦地で倒れていった仲間たちへの想い、生き残った者の葛藤、そして戦後を支え抜いた家族や傷痍軍人会の絆。祖父たちが命懸けで繋いでくれた平穏な現代への感謝を込めて、この形に残させていただきました。
読者の皆様の心に、何か少しでも残るものがあれば幸いです。




