第1話
初等部の音楽の授業で、歌の発表会が行われていた。
「なんてヘタな歌。カエルのほうが、もっと上手に歌えますわ」
歌い終わったキリアを金髪の女子児童――アイシャ・イグリス伯爵令嬢――が笑った。
音楽室に笑いが起きる。無邪気な嗤いがキリアを包み込んだ。
音楽の先生はみんなに笑わないよう注意しているが、効果はない。
そんな中で、笑わなかった児童が一人だけいた。キリアの婚約者であるエリオットだ。深い緑の目が心配そうにキリアを見ている。
小さく震えているのを、彼は見逃さなかった。
キリアは俯いた顔を真っ赤にして、スカートを両手で握りしめる。
顔を上げることが出来ない。みんながどんな目で自分を見ているのか、それを見るのが怖い。青い瞳に涙が浮かぶ。
歌は下手だと自覚している。どうしても、耳で聞いた音が口から出てこない。
何度も曲を聞いた。何度も練習した。
それでも、微妙に音程が外れて口から出てくる。どんなに努力しても、改善することは出来なかった。
こんなに笑われるくらいなら、もう歌いたくない。
「僕はキミの歌が好きだよ」
エリオットは励ましてくれた。しかし、その励ましよりも、キリアにはみんなに笑われたショックのほうが大きかった。
それ以降、キリアは人前で歌うことが出来なくなってしまった。
☆
二人の出会いは八歳の時。貴族としてはよくある幼い頃のお見合いだった。
キリアのエスカード伯爵家、エリオットのバラクッド伯爵家がセッティングしたお見合いで、二人は初めて顔を合わせた。
キリアは母の陰に半身を隠して向かい合っていたが、エリオットは不満そうにする様子はない。
「エリオット、庭を案内してあげなさい」
「はい、おかあさま!」
エリオットは元気に返事をして、キリアに近づいた。いきなり距離を詰めず、手を伸ばしただけでは届かない距離を取る。そして、スッと手を伸ばした。
その手はキリアが手を伸ばさない限り、彼女には触れない。
キリアは恐る恐る彼の手を取った。エリオットは優しく手を握り、庭へ案内する。
そよぐ風がキリアのダークブラウンの髪を揺らした。エリオットの黒いくせ毛は強いらしく、そよ風ではなびかない。
エリオットのエスコートは終始優しかった。強引に引っ張ることはしない。大声を張り上げることもない。
キリアのスカートが汚れそうなところは歩かなかった。
次第にキリアの緊張は解けていった。ふと、キリアは花壇の端で元気のない花を見つけた。
「お花さん、げんきがありません」
彼女の言葉で、エリオットはようやく花壇の端で踏まれた跡のある花に気が付いた。茎がぽっきりと折れ曲がってしまい、治りそうにない。
すると、キリアは大きく息を吸った。
彼女の口から出たのは、穏やかな旋律。お世辞にも上手いとは言えない、拙い歌声だった。
それでも、エリオットにはとても綺麗なものに思えた。
折れた花にキラキラと輝く光の粒が降り注ぐ。瞬きをする間に、どんどん花が頭を持ち上げていく。地面に倒れていた花弁が太陽を向いた。
「これで、だいじょうぶ」
キリアが初めて笑顔を見せた。少し長い前毛の間から、青い瞳が笑った。
エリオットは目を白黒させてキリアを見る。
「今のは、おとまほう? ぼく、はじめて見たよ。すごいね!」
「お歌はじょうずじゃないですけど、お歌だとまほうが使えるんです」
キリアは照れたように頬をかく。
「こんなことができるなんて」
幼いエリオットは、ただただ驚くことしかできなかった。
次にその効果を実感したのは、彼が高熱を出した時だった。
(お茶会、休んじゃった。キリア、怒ってないかな)
エリオットは約束していたお茶会に行けず、キリアが怒っているのではないかと心配していた。
そんなエリオットの元に、キリアはやってきた。心配してお見舞いに来たのだ。
「エリオットさま、おかげんいかがですか?」
ベッドの隣に来て、キリアがエリオットの顔を覗き込む。エリオットは少しだけ顔を傾けた。額の上に置かれた氷嚢がわずかに揺れる。
エリオットは息苦しい中、言葉を絞り出す。
「ごめんね、お茶会にいけなくて……」
「げんきになったらいつでもできますよ」
キリアは微笑む。それからエリオットの手を握った。手まで熱がこもっている。キリアは心配が大きくなった。
このまま、熱が下がらずエリオットが死んでしまったら。
嫌なことほど、深く考えてしまう。キリアは首を横に振り、ゆっくりと息をついた。
紡がれる拙い旋律。優しい音がエリオットの耳をくすぐる。エリオットは穏やかに目を閉じた。
温かな光が、エリオットとキリアの手を包み込む。
それを見ていたバラクッド家のメイドが目を丸くする。キリアのメイドは慣れているため、格段驚いた素振りはない。
歌が終わると、光も消えた。
エリオットの呼吸が穏やかになっている。顔の赤みはまだ引いていないが、表情から苦しさが和らいだようにも見えた。
「どうですか?」
キリアは眉を寄せる。エリオットはゆっくりと目を開け、大きく息をした。呼吸が楽だ。
「息がしやすくなった気がするよ。ありがとう」
「このていどのことしか、まだできなくて……」
「じゅうぶんだよ」
しょんぼりとするキリアに、エリオットは笑顔を向けた。
数日後、エリオットはすっかり元気になった。あれほど高熱で怠かったのが嘘のようだ。
(きっと、キリアのおかげだ。今度はぼくが、キリアをたすけなくちゃ)
幼き日の誓いを、エリオットはずっと心の真ん中に置き続けている。
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