ハッピー・バレンタインデー
イギリスでは花束(特に赤いバラ)やカード、ディナーがバレンタインデーの定番ギフトです。
そしてカードは花よりも重要で、匿名で「From Your Valentine」と書くロマンチックな風習もあります。
ロンドンの空は、バレンタインデーだというのに容赦のないチャコールグレーに染まっている。
しかし、リリーとラベンダーが住んでいるアパートの一室はまるで春が先駆けて訪れたような熱気に包まれていた。
「リリー、深呼吸して! そのドレスのジッパーを上げるから、背筋を伸ばしてちょうだい。」
ラベンダーの快活な声が響いた。
彼女はライオンの鬣のような金髪の癖っ毛をポニーテールにまとめ、母親のような手つきでリリーの身支度を手伝っている。
「ありがとう、ラベンダー。でも、私にはちょっと派手かな?」
リリーは燃えるような赤毛をハーフアップにし、鏡に映る自分を見つめた。
緑の瞳を瞬かせる彼女は26歳には到底見えない。
インテリアメーカーで働く社会人でありながら、その童顔とあどけない話し方のせいで今朝も郵便配達員に高校生と間違えられたばかりだ。
「いい? 今日はバレンタインデーよ。イギリスの女性は自分から仕掛けてなんぼなんだから!」
ラベンダーはそう言ってリリーの肩を叩いた。
約束の時間の5分前。
ドアベルが鳴るのと同時に、リリーの心臓はクリケットのボールのように跳ねた。
ドアを開けるとそこには冷たいロンドンの風を纏い、赤いバラの花束を抱えているオリバーが立っていた。
彼は地元のラグビークラブで活躍するスポーツマンで、泥臭いグラウンドが似合う逞しい体格をしているが、リリーの前ではいつも少しだけ内気になる。
「……やあ、リリー。すごく綺麗だね。」
「ありがとう、オリバー。あなたもすごく素敵よ。バラの花を持ってきてくれたの?」
リリーは花束に顔を埋めてクスクスと笑った。
その様子は、まるで秘密のプレゼントを貰った小さな少女のようだ。
「ハッピーバレンタイン、オリバー! リリーを泣かせたら承知しないからね。」
ラベンダーの冗談を背にリリーとオリバーは雨上がりの石畳を歩き、予約していたパブへと向かった。
2人は気取ったレストランよりも、歴史あるパブでサンデー・ローストの残りをアレンジした特別メニューや、地元のエールを楽しむのが粋な過ごし方だ。
「今日は試合に勝ったの?」
リリーがエールのグラスを傾けながら尋ねると、オリバーは少し照れくさそうに、試合で負った小さな擦り傷を指でなぞった。
「ああ。君に良い報告をしたくて、最後の1分まで走ったよ。リリーがインテリアの仕事で頑張っているのを知っているから、僕も負けられないと思って。」
オリバーの言葉に、リリーの緑の瞳が潤った。
彼女は幼い見た目と話し方のせいで職場で甘く見られる事も少なくない。
しかし、オリバーだけは彼女の芯の強さを「1人の女性」として尊重していた。
「私、オリバーのそういう真っ直ぐな所が好き♡ それと、渡したいものがあるの。」
リリーは少し頬を赤らめて、バッグから1通の封筒を取り出した。
オリバーが大きな手で丁寧に封を切って中身を取り出すと、そこにはインテリアメーカー勤務のリリーらしい繊細なデザインのカードが入っている。
イギリスではカードをリビングの暖炉の上に飾る習慣があるため、彼女はオリバーの部屋に映えるものを選んだのだ。
「わぁ……最高だ。ありがとう、リリー。僕からも、これを。」
彼が差し出したのは同じく1通の封筒で、中には可愛らしいテディベアのイラストが描かれたカードが入っている。
「開けてみて」と言われ、リリーがカードを開くとそこにはオリバーの力強い筆跡でこう書かれている。
『僕を支え、毎日を勝利のように輝かせてくれる大切なリリーへ。ハッピー・バレンタイン。
愛を込めて、オリバー』
「オリバー……」
「来週の試合、必ず勝つよ。君がいつも応援してくれるから。」
リリーはテーブル越しに、彼の大きな手に自分の小さな手を重ねた。
パブでの食事を終えてアパートに帰ると、気を利かせてベッドルームに籠っているのかラベンダーの姿が見えない。
リビングのテーブルの上には彼女が用意したであろう高級なショートブレッドと、温かい紅茶のセットが置かれていた。
「ラベンダーったら、本当にしっかりしてるんだから。」
リリーが苦笑いしながら紅茶を淹れると、オリバーは彼女を背後から優しく抱きしめた。
「リリー。見た目は子供みたいに可愛いけれど、中身は誰よりも素敵な大人の女性だ……これから先も、僕の恋人でいてくれるかい?」
窓の外ではテムズ川の方角から霧が流れ込み、ロンドンの街を白く染めている。
しかし、この小さな部屋の中だけは紅茶の湯気と2人の体温で、春よりもずっと温かい空気に満たされていた。
赤毛の少女のような女性と、少し不器用なスポーツマン。
彼らの物語はロンドンの夜に溶けるようにゆっくりと、しかし確実に刻まれていくのであった。




