第二十七話 再始動
目の前の異形は微動だにしなかった……はずだった。俺は奴から目を離すことはしなかった。だが、奴の姿は消えていた。街道の両脇は相変わらずまばらな木が生えていた。そして、その奥には緑の木々の壁が……。
その時、俺ははっとした。緑の木々の壁と、俺を遮っていたはずの異形はいなくなっていた。そして……街道を正面からこちらに向かってくる何かがいた。それらは四本の脚で街道を蹴り、数体で群れを成して疾駆してくる。
「う、わ……!」
俺は目を疑った。小型バイクほどの大きさの狼の群れだった。それらが迫ってきている。
俺は咄嗟にスキルを発動させて身を守ろうとした。異形に対して発動した光の道を、狼たちに対しても発動させようと思った。しかし、発動しない。
何故だ、とは思わなかった。その前に、脳裏に浮かんだのは別の想いだった。
分からない。
分からないとは、なんだ。俺は今どうなっているんだ。
俺は焦る頭で必死に考えた。体は動く。上手く働かないのはスキルの発動だけだ。異形がどこに行ったのかも気になったが、今はそれよりも迫りくる狼に対処しなければ。
しかし、同時に様々なことを考えながら、逃げようとしたせいで足元がおぼつかなくなり、俺はその場にこけてしまった。
「ぐっ!?」
痛みはそれほど感じなかった。そんなことよりも、やばい、という感覚だけ脳を駆け巡った。狼はもうすぐそこまで来ている。
その時だった。
「狼だ! 旅人が襲われているぞ!」
男の声が背後から聞こえてきた。そして、数人の足音が近づいてくる。
俺がそちらを振り向こうとすると、「伏せろ!」という怒鳴り声が続けざまに飛んできた。
一瞬だけ視界に映ったのは、複数人の男たちが、俺を挟んで狼とは反対側の方から駆けてきており、そして手に弓を持っていることだった。
「っ!!!」
俺が咄嗟に地面に腹ばいになった直後に、頭上を何かが音を立てて通りすぎていった。そして、続けざまに獣の悲痛な鳴き声が上がった。
「爆竹だ! 爆竹も鳴らせ!」
男たちは次々と俺を飛び越えていった。俺は地面に伏せていたが、怒号と、何かの乾いた破裂音と、金属が地面にぶつかる音が聞こえてきた。
そっと顔を上げると、十数名の武装した男たちが、手に持った剣で狼に斬りかかり、その群れを蹴散らしていた。
俺は腹ばいになったまま戦場から離れるように移動した。男たちは馬にひかせた荷車と共に来たらしい。その陰から様子を窺うつもりだった。
武器もなく、覚えたばかりのスキルも発動しないのだ。助けが入ったのなら、ここで無理をする必要などない。
戦況は人間側が優勢だった。街道を塞ぐように横一列に並んだ前衛は、片手に盾を構えて身を隠しながら、盾の隙間から剣で突く、といった動きを繰り返していた。そしてその後ろから、手に持った細長い筒を投げつける後衛がいる。彼らの連携により、ばらばらにとびかかるしかない狼たちは攻めあぐね、じりじりと後退を余儀なくされていた。盾の隙間からの刺突は、致命傷を与えるまでにはいかなかったものの、着実に手傷を負わせている。
そして突如、辺り一面に響くように、狼の遠吠えが聞こえてきた。それを聞いて盾の壁の前で様子を窺っていた狼たちは、くるりと身を反転させると、街道を全速力で戻っていった。
「逃げるぞ、矢だ! 矢を放て!」
盾を構えて前線を張っていた男が街道の端に寄って道をあけながら、再度声をあげた。その声は最初に、俺に伏せるように言った声だった。
前線が左右に分かれると、投擲をしていた者達が再び弓に矢をつがえ、放つ。唸るような風切り音をさせながら、数本の矢が狼の背に向かっていった。命中したかどうかまでは分からなかったが、どうやら危機は去ったようだ。
「気をつけろ! 当たっていたとしても、そうでなくても警戒を怠るな。前衛はそのまま進め! 後衛は次の矢をいつでも放てるようにして前衛に追従しろ。狼の死体があってもうかつに近寄るな! もう一度矢を打ち込んでから近づけ!」
声を上げていた男はそう言ってから、ようやく俺が倒れていたあたりを振り返った。そしてそこに誰もいないことを確認するとぎょっとしたように振り返った。
「います! ここに! います!」
俺は咄嗟に荷車の後ろから身を乗り出して、手を振った。男は少しだけ驚いた様子だったが、片手を上げてこちらを静止した。
「確認が済むまで、もう少しそこにいてくれ!」
男は通る声でそう言った。俺は頷きながら、その場を動かずに言う通りにした。その時、前進していた者達の方が騒がしくなった。
再び起こる掛け声、そして獣の断末魔。そして……。今度こそ静かになった。
「オトム……終わったぞ。追撃の矢が当たったのは一体だけだ。最後の抵抗を見せたが、それもたった今仕留めた」
戻ってきた男の一人が、俺に荷車の後ろで留まるように指示した男にそう声をかけた。
「あぁ、警戒していてよかった。逃げ遅れていた旅人も無事だったようだ」
オトム、と呼ばれた男は俺の方をちらり、と見た。
「君、もう大丈夫だ。緊急だったから大声を出してすまなかったな。とりあえず動くことはできたみたいだが、どこか怪我はしていないか?」
「……」
俺は目を見開いていた。
オトム……。彼の名前に、俺は聞き覚えがあった。ジェリからの依頼。それを書いた紙。そこにあった名前だ。彼はジェリの探していた父親だ。……そして彼が今ここに存在するということは、あの異形は、俺との取引を受け入れ、この世界の可能性を全て戻す、という行動を実行したのだ。
「どうした……?」
オトムは固まっている俺を怪訝な表情で見た。
「いえ……大丈夫です……。怪我はありません……それより、オトムさんや他の皆さんの方こそ……大丈夫だったんですか」
俺は、戻ってきた男たちを見回し、そしてもう一度オトムに視線を戻しながら聞いた。
「俺たちは……まあ、こういったことには慣れているからな。コンラッドの街から出れば、獣やそれ以外にも様々な脅威と出会う。まあでも、俺たちは特に街の周囲での戦いには慣れているからな」
「……いえ、そうではなく……」
「しかし、君は運が良かったな。丁度俺たちが、隣の街への隊商として出発したばかりでさ。もし出会えていなければ、本当に危ないところだったぞ」
「え……?」
オトムは何気なく言ったようだった。しかし、俺は目を見開いた。
出発したばかり、と言ったか。
「あの、オトムさん……。俺、実はジェリちゃんに言われて、貴方を探しにきたんですよ。コンラッドの街から貴方がいなくなって、もう一ヶ月経つんです」
俺はおずおずと言った。
「おや、君は俺の娘のジェリを知っているのか。……一ヶ月? はは、何を言っているんだ。俺たちは今日コンラッドの街を出てきたばかりなんだぞ。ジェリは……まああの子が寝ている間に出発したから、出かける際には挨拶はできなかったが、もしかしたらそのせいで拗ねているのかもしれないな。でも、君にそれを信じさせてしまったのは申し訳ない。そうやって誰かを巻き込む嘘をついてはいけないと、しっかり言わなくてはならないな……」
オトムは眉根を寄せると、深刻そうにつぶやき、俺に対して頭を下げた。
「い、いえ……本当に……大丈夫です。顔を上げてください」
俺は慌ててそれを押しとどめた。オトムの記憶は、ここ一ヶ月の空白は無いようだ。となれば他の男たちも同様なのだろう。
可能性が無くなった空間が、元に戻り、本来あったはずの歴史が再度構築されれば、そこに出発した彼らもまた存在することができるようだ。しかし、その記憶には若干の改変があるらしい。オトムは隊商としてではなく、既に行方不明になった人を探すために街をでたはずなのに、そうではなくなっている。
となれば、コンラッドの者達の方はどうなっているのだろう……?
来週も月曜更新!




