第十話 出発の前夜。
トイレの掃除はルーシーの活躍により終わり、俺は自分の胸に抱えたもやもやを解消することはできないまま、彼女のお情けに甘んじることしかできなかった。
お客が完全に捌けてから、ルーシーがギルドの扉に鍵をかけたあとで、俺たちは厨房に最も近いところで向かい合わせに座り、夕食をとった。
それでも温かいスープと、パンを食べていると、気持ちは穏やかになっていく。胸の中のしこりは無くなることは無いが、今は小さくなっていった。……このまかない以外にも、俺はルーシーに借金をしているのだ。昼間に世話になった分の経費も、後で払わなければならない。
そう考えながら、いまだ自分に返せるアテが無いことに気が付いた。ルーシーもそのことに気づいているのだろう。しかし、それについては言及せずにいてくれている。……それならば、せめて今日一日の活動を途中経過として話さなければ、と思った。
「なあ、ルーシー」
「うん?」
「今日の午後、ジェリと街を歩いて、俺なりに情報を調べたんだが……」
俺の話をルーシーは静かに聞いていた。といって俺が出会ったのは、路地裏で妄言をまき散らしているパックという老人だけだ。ただ、彼は見たところルーシーよりも5倍は年上だ。彼女が知らないことを経験している。
「……で、ウルタース・ン・ケーという名前に聞き覚えはあるかい。パックさんが言うには運命の支配者らしいんだが」
「……ハァト。あんたその話を本気で信じているの?」
「念のためだよ。先入観で決めつけたら、見落としがあるかもしれないだろ? 特に俺はコンラッドの街、というかこっちの世界自体が初めてなんだし。でも、ルーシーの反応でわかったよ。……あともう一つ、それを信仰する謎の集団とかは……」
「聞いたことないわ」
ルーシーは肩をすくめながら言った。それを聞きながら俺は、少し悲しい気持ちになった。ルーシーやジェリの反応を見ていると、これまでパックの話を聞いてあげられる人はいなかったことは予想がついた。もっとも、話を聞かなかった彼女たちが悪いとは思わない。ただ、彼の不安をそのまま受け止めてくれる存在が周りにいなかったのは事実だ。そうなってしまったのは、彼自身のせいかもしれない。彼が何かしらの要素を軽視して、生きてきた結果なのかもしれない。
ただ、俺は彼の話を聞いた。それは、別の目的があったからだが……。話を聞いていたその間だけでも、彼の心がほんの少しでも、軽くなっていれば良いな、と思った。
「それだけかしら?」
ルーシーの言葉で、俺は思考を切り上げた。まだ聞きたいことは残っている。といっても、それはさほど重要なことではなかったが。
「もう一つ。ルーシー、君はコンラッドの街から出て、他の街に行ったことがあるかい? もしくは、行ったことのある人の話を聞いたことがあるか?」
「あー……。実は、無いのよね。みんなが街の外を危険視しだしたのは、私が生まれる前かららしいわ。外に出た人を探しに行くって冒険者は、少し前まではいたのだけれどね」
「パックさんは、他の街に子供の頃、行ったことがあるらしい」
「それ信じるの? というか、もしそうだったとしても、この街の現状はずっと変わっていないのだから、特に意味はないんじゃない?」
俺はルーシーの発言をじっと考えていた。それはその通りだ。コンラッドの街は少なくとも100年の歴史がある。そして、それだけの歴史があっても、今この街が相対している得体の知れない失踪事件について、住民たちは決定的な解決策を見出せていない。たたただ、恐れ、距離を置くことしかできないのだ。これまでに何か手立ては打ったのだろう。それらはことごとく失敗し、ただ住民の数が少なくなるだけだったのだ。そうして、いつしか、何もしなくなった……いや、できなくなった、ということが正しいか。
「ねえ」
俺が再び考え事をして黙っていると、ルーシーが話しかけてきた。
「ん、なに?」
「やっぱりジェリからの依頼、やるの?」
「うん。約束したしね」
「怖いとは思わないわけ?」
俺はまじまじとルーシーの顔を見た。もしかして、心配してくれているのだろうか。そうだったら素直に嬉しかった。
「そりゃ……怖くないといえば嘘になるけどさ。ただ……」
そこで俺は言葉を切った。俺はもう一度、前の世界で死んでしまった身だ。特に楽しいことはなかったし、それどころか思い返せば嫌なことばかりだった。やりたいな、と思ったことに対して、それをやる機会も運も実力も無かった。……ただ、最後に、授業を抜け出して、一人でサボった時の高揚感だけは覚えている。その直後に死んでしまったけれど。
俺はそれだけの人間だった。広い視野で見れば、なんでもない、吹けば飛ぶような存在だった。十数年間生存することはできたけれど、結局はあぶれたコオロギの一匹だった。そして、狭い視野、つまり俺個人だけの目線から見て、特段印象に残る要素がある人生だったのか、と自問してもそんなものは何も無い。
ただ、何も感じなかったのか、と問いかければ、そうではない。
それはほんの少しの微弱なものだったかもしれない。俺自身も理性によって軽視してしまうような、ほんのささいなことだったかもしれない。ただ、胸の奥が、ほんの少しだけ、ちくりとする経験は、何度かあった。それらは何かを生み出したりはしない。俺自身を幸せにするものでもないだろう。
しかし、存在はしていた。
それの証人は俺しかいないけれど。
俺の短い人生に確かに存在していたのは、その痛み。
そしてもっというなれば、それを感じる俺という存在、俺の心。
それは確かに在る。
「ただ……?」
ルーシーは俺の切れた言葉の先を興味深そうに繰り返した。
「ただ……俺は、自分の心が、それをした方が、なんだか良さそうだなって感じたことを、ただやりたいだけなんだ」
「……」
「つまり、自分のために、やりたいことを選んでやっているだけなんだよ」
ルーシーは疑わしそうな目をしていた。
「ジェリの前でかっこつけちゃったから、引くに引けなくなっているんじゃないの?」
「え? ううん……どうだろう」
俺は一度、ジェリの依頼を受けると決めた時のことを思い出してみた。小さな女の子が頑張ろうとしているのを見て、自分もそれにあてられた可能性はあるのか。そして、そんな自分でいたい、などということも思ったりしたのだろうか。
「ふふ、それももちろんあるかも」
俺はそう答えていた。ルーシーは呆れたような、微妙な表情をした。それでも、俺は良いと思った。だって、それは俺がやりたいと思ったことには違いないのだから。
「そう思ったんだから仕方ないだろ。見栄を張っているのかもしれないけれど、それがやりたいんだから。そのために、俺はできる範囲の自分の準備をしたしね」
「準備? 袋小路の老人の話を聞いただけでしょ?」
「そうさ。俺がやりたいことをするには、まず俺が心の準備をしないと」
「それでいったい何の準備ができたっていうの?」
「俺が、俺のまま、この意味の分からない失踪事件のある世界に、挑んでいくための準備だよ」
「意味がわからないわ……」
ルーシーは泣き出しそうな顔になっていた。それを見せられると、流石に俺も可哀想になったので、もう少し説明することにした。
「ルーシー……俺の前にも、外を調査しに行った冒険者たちはいたよな」
「……うん」
「彼らは多分装備とかもしっかり整えて、きちんと人員を編成して行ったと思うんだ」
「そうよ……でも戻って来なかった」
ルーシーの目は潤んでいた。今にも涙が零れ落ちそうだった。
「俺はね、今の段階では、成功して帰ってくることなんか考えていない」
ルーシーの目が見開かれた。
「俺は、的に矢を当てたいんじゃなくて、引くべきだと思った時に、矢を放とうとしているだけなんだ。そのために必要な準備は、当たりそうな方法を考えることではなくて、矢を持って弓につがえる心を持つことなんだ」
「……」
「その心を持つために、俺は俺のできる範囲で、準備をしたんだよ」
ルーシーは絶句していた。俺は、これが正式なギルドの依頼じゃなくて良かったと思った。正式な依頼だったら、彼女の言い分も聞かなくてはならないだろう。しかし、これは俺が勝手にやっていることだ。だからルーシーは文句を言うことはできない。それを言う権利があるとすれば、ジェリぐらいだろうが、そっちはそっちで対処できる。
「はあ……」
ルーシーの深いため息が聞こえてきた。俺はただそれを聞きながら、黙っていた。
「ハァト……あんたに言うことはもうないわ。……毛布持ってきてあげるから、今日はそこの暖炉の傍で寝なさい」
「ありがとうルーシー。晩御飯もごちそうさまだ」
「……」
彼女は返事をせずに、一旦奥に引っ込むと毛布を持ってきた。そして、俺の方を見ることなく、それを手渡した後、背を向けて上の階へと上がっていった。
ほどなくして食堂のランプは消えた。俺は大きな暖炉の近くまでいくと、毛布にくるまって横になり、目を閉じた。
次回も月曜日更新です!




