墓場を愛する従姉妹姫と留学中の王妹 8(完)
あの頃、わたしは、生きる希望を失いながらも、懸命に生にしがみつこうとしていた。
毎朝、眼が覚めるたびに、昨日と同じ牢獄にいることに絶望した。それでも、毎朝、亡き母に祈った。神への信仰はとうに消え失せていたが、わたしが幼い頃に亡くなった母の魂には、縋るように祈り続けていた。わたしには、ほかに、縋りつける相手もいなかったからかもしれない。
牢獄の外にいる人々に期待することは、とうにやめていた。わたしに『黙ってくれ』と願った見張り番のように、わたしに同情する人もいるのだろうが、彼らはわたしと同じく弱い立場にいる。そして、わたしや彼らを蹂躙できる権力者たちは、わたしの存在など忘れ去っているのだろう。
わたしは母の顔をおぼろにしか覚えていない。鮮やかに覚えているのは、母の声だ。母が、幼いわたしに、繰り返しいい聞かせた言葉だ。
『王族の私たちには、高貴な義務があるのよ』
当時、幼かったわたしが、その意味を十分に理解していたとは思えない。
それでも母は、幼いわたしが癇癪を起して泣くたびに、そういい聞かせた。
……あとから思えば、母は、母自身を納得させようとしていたのかもしれない。血筋以外何も持っていなかった母にとって、後宮は決して生きやすい場所ではなかっただろう。
わたしは、後宮より手狭な牢獄で、母と同じ言葉を自分にいい聞かせていた。
王族のわたしには、高貴な義務がある。それはこの塔で死ぬことではないはずだ。ここで死ぬのはまったく無意味な死だ。価値のない死だ。いま死ぬくらいなら、幽閉される前に舌を噛み切って死んでしまえばよかったのだ。あのとき死んでいればよかったのだ。それをしなかったのは、わたしが生きたかったからだ。今日死ぬことは、昨日死ぬことと同じくらい無意味だ。わたしには高貴な義務がある。わたしは生きなくてはならない。わたしは、生きなくては……。
繰り返すたびに、祈りがただの砂に変わっていくような気がした。
絶望はひたひたとわたしを満たしていた。
そんな頃だ。
食事の受け渡しは、扉の下部に付いていた鍵付きの小窓からだったから、わたしは見張り番の兵士の顔を見たことがなかったし、彼らがわたしを見たこともなかっただろう。
それでも、わたしの手や足といった身体の一部は見えていただろうし、生きていることもわかっていたはずだ。
だからきっと、師匠がわたしに最初に呼びかけたときは、『まだ(心が)生きているか』と尋ねたのだと思う。
※
酒の入ったグラスをテーブルに置いて、わたしはディゾルドに向きなおった。
薄緑色の瞳は、薄氷のごとく冷やかになって、感情が読み取りにくい。
おそらく怒っているのだろうと判断して、わたしはなだめるように微笑んだ。
わたしのために怒ってくれる気持ちはありがたいけれど、これは、わたしにとっては良い思い出の話なのだ。
「……わたしに話しかけてきたその人は、一日中、わたしと話をしてくれた。わたしと話して大丈夫なのか、王に目をつけられないかと尋ねても、笑い飛ばすばかりだったよ」
子供がそんな心配をしなくていい。
師匠がそう笑うのに、わたしはむきになっていい返したものだ。子供でも王族です、と。
すると師匠は必ずいうのだ。 ─── でもガキだろ? と。
見張り番は、幽閉された当初は、扉の向こうに一日中立っていたけれど、ある日を境に、食事のとき以外気配がしなくなった。食事を持ってくるときと、食器を下げるときだけだ。
あとから師匠に聞いたところによれば、見張り番は皆、塔の出入り口に立っていたのだという。その方が敵襲に気づきやすいからというのが表向きの理由だったが、実際は、わたしの近くにいたくなかったらしい。わたしはその頃には、彼らに助けを求めることはやめていたのだけど、師匠いわく「何の罪もない女の子が閉じ込められていて、自分はその片棒を担いでいるって現実を見たくないんだろ」とのことだった。
わたしが「仕方のないことです」と反論すると、師匠はいつも呆れたように「お姫さんは本当にクソ頑固だな」と笑っていた。
「七日に一度、その人はわたしの見張り番だった。あの頃はいつも、彼が来てくれる日が待ち遠しかったよ。彼は色んな話をしてくれて、色んなことを教えてくれた。あぁ、何度か本を差し入れてくれたこともあったな。どこぞの貴族から、賭場での借金代わりに巻きあげたんだ、なんていっていて」
とにかく型破りな人だった。
お酒に強くて、賭け事に強くて、喧嘩も強い。
戦場で負った怪我のせいで足を引きずっているけど、剣の腕だって衰えちゃいない。
師匠がそう、冒険譚のように面白おかしく話すのを、わたしはいつも、声を潜めて笑いながら聞いていた。
わたしたちが会話していることを、誰かに気づかれてはいけないと思った。
師匠は気にするなといったけれど、わたしはいつも、彼を失うことを恐れていた。
「わたしはその人から、多くのことを学んだんだ。それで……、勝手に、師匠と呼んでいた」
師匠は「そんな偉そうなモンになった覚えはねえぞ」と憮然としていたけど、わたしにとっては、本当は、師という言葉だけではとても足りない人だった。
彼は師であり、恩人であり、わたしの命綱だった。師匠がいてくれた二年と少しの間は、牢獄の中でも幸せだった。師匠は、分厚い扉の向こうに存在する、わたしのたった一つの光だった。
師匠に直接いえたことはなかったけれど、世の中の一般的な“父親”とは、師匠のような人のことをいうのだろうかと、心の中でこっそりと思っていた。
ディゾルドは、軽い口調でいった。
「さては、あなたのアップルパイ好きは、そのお師匠が関係してますね?」
わたしはかすかに微笑んだ。
ディゾルドの冗談めかした表情は、わたしを気遣っているからだろう。
わたしの傷に触れないように、細心の注意を払っているからだろう。
ディゾルドは暗黙の内に告げている。その先を、話したくなければ、話さなくていいのだと。
彼はすでに察しているのだろう。わたしと師匠の間にあった結末を。
それも当然かもしれない。
もしもわたしが、イアスを出る前に、世話になった見張り番の兵士に礼をいいたいのだと頼めば、ディゾルドはそのくらい叶えてくれただろう。それはお互いにわかっていた。そしてわたしは、何も望まなかった。そこから導き出される結論は一つだ。
─── あの人はもう、ここにはいない。
わたしは大丈夫だといおうとして、やめた。
強がってみせても、どうせディゾルドは見抜くのだ。
わたしは答える代わりに、ディゾルドによりかかって、その肩に頭を預けた。
彼の肩や二の腕から伝わる感触が、昔よりがっしりして硬くなっていても、その温もりはディゾルドのものだ。ディーがいると安心する。安心しすぎて、眼から水滴が零れそうになってしまって、わたしは何度も強く瞬いた。泣きたくなかった。一度泣いてしまえば、今まで耐えられてきたものが、もう全部駄目になってしまいそうな気がした。
ディゾルドには、わたしの様子は手に取るようにわかっていただろう。長椅子の隣に座って、くっついているのだから、ただでさえ敏いこの男に隠しきれるはずがない。
それでも、ディーはいつも、わたしのわがままを許してくれる。
今のわたしを見ないでほしいと、泣きたくないから慰めないでほしいという、わたしの無言の訴えを、彼は受け入れてくれる。
ディゾルドは、正面を向いたままで、得意げに胸を張ってみせた。
「ふっふっふ、何でもお見通しですよ。なぜって俺のリージェ辞典には、アップルパイの文字はありませんでしたからね」
「……相変わらず、謎の辞典だな」
ぼやいた声は、かすれていた。
それでもディゾルドは、纏う雰囲気を変えなかった。軽い空気と、楽しげな笑みを浮かべ続けていた。そうやってわたしを守ろうとしてくれる。
わたしは眼を閉じた。瞼に力を入れて、一滴の雫も落とさないようにした。
─── あぁ、師匠。わたしはまだ生きています。
その上、かつてのわたしなら信じられないだろうことに、今のわたしは、幸せなのだ。
……本来なら、これ以上、望むべくもない。
だけどわたしは、わがままな人間だ。特に、隣に座る青年に対しては、昔からわがままだった。
わたしは瞼を上げて、ディゾルドを見つめた。
「ディー」
「はい」
わたしの視線に気づいて、彼がこちらを向く。
薄緑色の瞳を見つめて、わたしは、昨日からずっと考えていたことを口にした。
「わたしは、お前の血生臭い話も知りたい。どんなことでも聞きたい。お前がいいたくないというなら我慢するが、わたしに配慮して黙っているというなら、それは無用な気遣いだ」
ディゾルドが、目に見えて怯んだ。
わたしは彼が眼をそらそうとするのを許さず、かつての弟分をじいっと見つめてやる。
「お前にわたしの辞典があるなら、わたしにもディゾルド辞典があっていいだろう?」
「……ずるいですよ、リージェ」
ずるくない。
こういうのは、ひどいというのだ。
お前はわたしの沈黙を許してくれるのに、わたしはお前に話してくれとねだっている。
これはわたしのわがままだ。ずるいではなく酷いと評するべきだ。
恨めしげな顔をするディーに、わたしはくすくすと笑ってみせた。
※
俺は沈黙していた。
さきほどまでは、俺の軍時代での比較的平和な面白話を披露していたのだが、今では無言だ。
なぜなら、俺の肩にもたれかかる体温が、ひときわ熱く感じられるからだ。
俺は、肩を揺らさないように最大限注意しながら、首だけをギリギリと動かして、横を向いた。
予想通り、リージェは、俺の肩にもたれかかったまま、瞼を下ろして、すうすうと小さな寝息を立てていた。
─── だから、酒の飲み過ぎだっていったのに……!
俺は頭を抱えたくなったが、リージェを起こすわけにはいかない。俺は再びギリギリと首だけを動かして、真正面へ向き直った。
叶うものなら、リージェの寝顔をずっと見ていたい。愛しい彼女が、俺の前で無防備に眠っている姿を、朝日が差し込むまで眺めていたい。
だが、それでは、自分で自分の理性に剣を振るうも同然だ。
俺は屑になりたくないし、何よりリージェの信頼に背きたくない。
酒のせいではあるが、リージェが俺の制止も聞かずに飲み続けたのは、隣にいるのが俺だったからだろう。俺がいるから、彼女は気が緩んでいた。俺以外の人間の前では、リージェは酒に手も付けないだろう。ラピスは、まあ……、別かもしれないが。あの従姉妹は、他人に警戒心を解かせるのが異様にうまい。
しかし、ラピスが多少リージェの信頼を得ていようと、俺ほどではない。断言できる。俺はリージェから完璧な信頼を得ているのだ。なぜなら彼女の子犬歴が長かったので……今は大型犬まで育っているらしいが……。心の中で俺はそっと涙をぬぐう。俺は男ですよ、リージェ。
遠い目になりつつも、自分を叱咤して、俺はそっと身体の向きを変えた。
このまま長椅子に寝かせるわけにはいかない。彼女の身体が冷えてしまう。
リージェを起こしてしまわないように注意しながら、そうっと彼女を抱きかかえて立ち上がる。
起きてしまわないかと心配したが、幸いなことにリージェは、俺の腕の中に納まっても、瞼を下ろし続けていた。酒のおかげかもしれないと、今だけは感謝しておく。
しかし、俺はすぐに自分のミスを悟った。リージェを抱きかかえたままでは、部屋の扉を開けるのは難しい。彼女の部屋は階上にあるというのに。
俺はやむを得ず、ひそめた声で呼びかけた。
「パルマ」
数秒の後に、外側から扉が開く。
執事見習いの男は、うやうやしく礼を取った後で、俺と、俺の腕の中にいるリージェを見つけると、意気込んでいった。
「陛下、よろしければ僕がリジエラ姫をお運びしま ─── 」
最後まで言えなかったのは、俺が無言で奴を見つめたからだ。
パルマはわたわたと慌てて、無意味に両手を振った。
「ちがっ、ちがいますよっ! 僕はただ、陛下のお役に立てればと思いましてっ!」
「黙ってろ」
リージェが起きたらどうしてくれる。
俺が睨みつけると、パルマはがっくりと肩を落とした。
下心がないのはわかっている。パルマは善良な男だ。空気が読めないだけで、基本的には、人のよさそうな顔そのままの性格をしている。だからラピスにつけたのだ。こいつが俺についている亡霊と同業者だということが、俺はときどき信じられない。
しかし、下心がないのと、リージェに近づくことが許容できるかというのは、まったく別問題だ。
俺は根に持つ男なのだ。こいつがリージェに腹筋を見せたことは忘れない。俺だって腹筋くらい割れているのに。なんだって俺のリージェが初めて見る男の腹筋が、俺のものではなくコイツのものでなくてはならなかったんだ。許すまじパルマ。
階段を上がって、リージェの部屋へ向かう。
パルマはすでに、彼女の部屋の扉を開けて待っていた。
俺はリージェを寝台へ降ろし、毛布を掛ける。寝顔を見つめて、彼女の眠りが安らかであることを確認してから、安堵の息をついた。
それから、まだ扉の辺りをウロウロしているパルマの元へ戻り、部屋から締め出しながら告げた。
「お前には感謝している」
「陛下」
「お前の仕事は、本来ならラピスだけだ。わかっているんだが、リージェにつけられる者がなかなか見つからない」
優しげな顔立ちの男は、困ったように眉を下げた。
「難しいでしょうね。リジエラ姫は、とても気配に敏い方ですから。あの方に気づかれずに、となると、なかなか……」
「あぁ。それでも、お前のことは受け入れている」
「それは、僕ではなく、ラピス様のおかげだと思いますよ。お嬢様が僕を信用しているからでしょう」
俺は頷いて、頭を下げた。
「まだしばらくは、お前に二人を頼めるか、ジェマ・パルマ」
執事見習い兼護衛の男は、お任せくださいと嬉しげにいってから、廊下を去っていった。
※
俺は、足音を立てずに寝台のそばへ戻った。
少しだけだと、自分に言い訳をしながら、眠るリージェを見つめる。
自然とため息がもれた。
……本当は、このまま彼女を王宮へ連れて帰ってしまうこともできる。それはとてもたやすいことだ。
リージェを、俺という国王の妃にしてしまうのは、実のところ簡単なことなのだ。妾妃であれば今夜にでも可能で、正妃であっても三日あれば根回しできるだろう。
軍は俺が掌握している。貴族連中は宰相のイアソンが抑えている。俺とイアソンの意向が一致してしまえば、王宮で叶えられないことはない。
だからこそ俺は、イアソンのおっさんには多大な期待を寄せていたのだ。
宰相のイアソンは、かつて、オーランドの王位争いが表面化するより早く、俺のもとへやってきた男だ。
奴は『無能揃いの王子たちの中では、あなたが一番マシですから』という愉快な理由で俺についた。イアソンが真に忠誠を捧げているのはオーランドという国そのものであり、王へ対する敬意などない。俺が国にとって有害になったと判断すれば、平気で毒殺してきそうなオッサンだ。
まあ、俺としても、その点は承知の上で宰相に据えてこき使っているので構わないのだが、リージェについては別だ。
彼女に対してはお前の関与は許さないと、最初からイアソンに示していた。
だからだろう。イアソンはずっと、リージェのことを、俺の最大の欠点だと考えていた。俺のリージェへの執着を苦々しい目で見ていた。しかし、リージェに手出しをすれば俺は必ず報復する。彼女を失えば、俺はもはや、王として適切な駒でもなくなる。それは奴にもわかっていたから、俺の最大の欠点とやらを排除に動くこともできなかった。イアソンにできたのはせいぜい、俺に見目麗しい美女たちをあてがって、俺がほかの女に目移りしてくれますようにと祈ることくらいだったろう。それさえも、すぐに無意味だと悟ってやめていたが。
それでも、イアソンは、最後の一線を守るかのように、リージェを後宮へ入れることだけは頑として反対していた。
「10年も幽閉されていた姫君に妃の椅子は重いでしょう。姫君には政治とは無縁な場所で、穏やかに過ごしていただくべきです」
そう厳しい顔でいう宰相を、俺は愉快な気分で眺めていた。
助け出したら結婚するなんて、俺は一度でもいったことがあったかね? と内心で思いながら。
しかし、俺は助かってはいたのだ。イアソンが反対してくれるおかげで、俺は俺の理性だけに頼らずにすんだ。俺の欲望はいつだってリージェを手に入れてしまいたい、彼女を手の中に囲い込んでしまいたいと訴えていたから、宰相の反対という障害は、リージェを守る大事な盾だった。
過去形である。残念すぎることに。
リージェについて、俺の逆鱗に触れない範囲で嗅ぎ回っていたオッサンは、今日になって突然、俺にこういった。
「イアスの併合を容易にするには、イアスの姫君を正妃に迎えることが効果的でしょうね」
俺は思った。
─── こいつ、方針変更しやがったな!? と。
リージェの情報を得た腹黒いオッサンは、彼女を無害だと判断したのだろう。
俺のそばに置いても、国益を損なう事態にはならないと。
ならば、排除するよりも、後宮に入れてしまったほうがいい。たとえ正妃としての公務が務まらなくても構わない。彼女を後宮という鳥籠にしまい込むことができるなら、有能な王妃という駒は得られなくてもいい。その不利益を補って余りある利益がある。奴はそう判断したんだろう。
なぜなら、リージェに何かあれば俺は狂うからだ。
歯車が壊れて二度と戻らなくなるからだ。
宰相はずっと、その危うさを疎んじていた。俺の執着こそ最大の欠点だと正面切っていったこともある。
俺のそばに『10年間も幽閉されていた(それゆえ精神的に非常に不安定だろう)姫君』を置くことで、ますます俺が歪むのではないかと、あの男は恐れていた。俺は、リージェがどんな精神状態であろうとも、生涯を共にすると決めていたが、その決意がなおのこと宰相の警戒を煽っていたことは知っていた。
しかし、実際にイアスを攻め落とし、リージェと再会し、そして連れて帰ってきてラピスに預けて……という俺とリージェの一連の行動を、あの腹黒宰相殿は、王宮から注視していたにちがいなく、その結果、彼女は無害だと判断したのだろう。
そして無害なら、さっさと捕獲して鎖でつないだ方がいい。正妃にしてしまえば姫君は逃げられない。そして最愛の姫君がそばにいる限り、王は有能な施政者であり続ける。……というあの腹黒いオッサンの真っ黒な考えが読めて、俺はとてもうんざりする。リージェは俺というケダモノへの生贄か?
イアソンが俺の期待を裏切ったせいで、俺はもはや俺の理性だけで頑張るしかない。
リージェは駄目だ。本当に駄目。
この人、国のためといったら速攻で了承するからな、結婚。
だいたい再会したときから俺の愛妾になろうとしていた。もちろん、俺にほのかな恋心があるだとか、実は俺が初恋の人だったとか、そんな夢のように素晴らしい理由ではない。『王族としてそうすべきだと思ったから』だ。思い出すだけで泣けてくる。色んな意味で。
10年間も幽閉されていたのに、どうして恨み言の一つもいわないのか。あなたがイアスを見捨てたって責められる人間はいない。あなたが復讐を望むなら、俺はいくらでも力になるつもりでいたんだ。……なのに、あなたときたら、信じられないくらい変わっていない。あなたは昔から頑固だ。
だけど、ねぇ、リージェ。
この状況であなたを抱いてしまったら、俺は犬以下でしょうが……。
うちの宰相には絶対に会わせられない。
あの腹黒いオッサンに、国政のためを説かれたら、リージェはコロッといってしまうだろう。躊躇なく、俺と結婚する気になってしまうだろう。もちろん、王族の義務ゆえだ。俺を愛しているからではまったくない。
つらい。これほど理性が死にそうになる状況は、なかなかないだろう。
リージェを愛している。本当はいつだって彼女が欲しい。だけど義務はいやだ。義務で結婚を了承されてたまるものか。あぁでも、俺がぐずぐずしている間に、ほかの男が彼女の心を奪ってしまうかもしれない。結婚で縛りつけてしまえば、あの責任感の強いリージェは、決して俺以外を見つめることはないだろう。……なぁ、それの何がいけないんだ? 俺はリージェを愛している。彼女に跪き、永遠の愛を誓い、あらゆるものから彼女を守ってみせる。俺にはそれだけの力がある。俺こそがリージェの夫にふさわしい。誰だってそういうだろう? 今、彼女を奪ってしまうことの、いったい何がいけないんだ?
……くそったれ。
本当に最悪な誘惑の果実だ。俺はいつだって、リージェを抱きしめてしまいたいと思っている。婚姻という名の契約を結び、彼女の夫となって、この滑らかな肌に触れる権利を得たいと望んでいる。渇望しているといってもいいほどに。
だけど俺は、リージェの身体だけが欲しいわけじゃない。夫という立場だけを求めているわけじゃない。
俺がなによりも欲しいのは、彼女からの愛だ。
リージェに俺を選んでほしい。義務ではなく、彼女の心で俺を望んでほしい。
弟同然の存在ではなく、一人の男として俺を見てほしい。
俺だけを見つめて、俺だけを愛しているといって欲しい。
……その日を迎えるためなら、時間はいくらでもかけよう。リージェの傍で、俺はいつまででも待てる。
愛らしい寝顔を見つめた。
彼女がここにいてくれるだけで、俺はひどく満たされている。
愛していますよ、リージェ。
だからこそ、あなたを奪う真似はしない。
あなたが俺を選んでくれる日を、俺はいつまでも待っている。
俺は小さく囁いた。
「おやすみなさい、リージェ。よい夢を」
完結です。ここまでお付き合いくださってありがとうございました。
時間が取れれば、またいつか番外編など書いてみたいと思っていますが、ひとまずはここで区切りとさせていただきます。




