夢うつつ
ーーアサギ…ーー
ーー聞こえるか?アサギーー
呼ぶ声に、虚ろな意識は起こされた。霞む視界、霧の中。ここは…何処?
両足さえ地に着いていない、むしろ地が無い空間。ただただ白く淡いばかり。唯一確信できるのはどっちの世界かということだけだった。
レオ…?
私を呼ぶ声の主を呼んだ。夕の海でも薔薇の庭園でも緑の平野でもないこの場所には誰の姿も見えない。私が一人。
不安を覚えていた。その一方で覚悟し始めていた。そのとき、現れた。霧の奥から、ゆっくりと。
レオ…!!
力の限り、私は呼んだ。会えた。会うことができた。じん、と胸の奥が染みる、そして拡大した予感に身が引き締まっていく。
レオ、アンタには、もう…
顎を突き上げ見下ろしてくる彼を前に呟いた。こんなときでも余裕をかましているのがまた憎たらしい。そういえばかつて、この鼻につく薄ら笑いを見てナルシストヴァンパイアと名付けたんだっけ。
ーー成長したな、アサギ。愛を覚えて、今では女らしい顔をしているーー
ーー少しは見直したぞーー
そんなことを言ってくる。相変わらず上から目線の彼に、悔しくなる。
別にいいよ、女らしくなくたって。私それ程変わってないじゃん。心も身体も相変わらずのつるぺた平野だよ?いつもみたいに馬鹿にすれば?いや…
…しなよ。
私ばかりこんな気持ちだなんて…馬鹿みたいじゃんか。
肌で感じるってこういうことかと思った。うつむく私にもう彼の姿は見えない。それでも声は届いた。ナルシストヴァンパイアの今までで一番、優しい声色。
ーーアンタに、返さなくちゃなーー
返す…?
何のこと?そう問おうとしたとき、霧の奥にいくつかの姿が見えた。
サキ…
ルナ…
現れてはまたけぶる、チラチラと星の瞬きみたいに。
モモ…
シン…
マミ…
遠く、遠くのみんな。顔のつくりも表情もそれぞれに違うんだけど何か共通しているような気がした。やがて気付いた。胸が詰まった。
みんな、私を見ている。そして、揃いも揃って優しい眼差しをしている、って。
アサギ。
何もかも更に遠くなりそうな気配の中、呼びかけてくれたのはレオだった。続く彼の声に耳を傾けていた。
ーー俺たちはまだ続くんだ。終わらないんだ、俺らを狙う争いも、複雑に絡み合う関係も、続いていくーー
だから…
アンタに託す。
意味不明。今までならきっとそう思ったはずなのに、何故だかわかってしまうんだ。彼が…いや、この世界が私に託そうとしているもの、求めていることが、はっきりと。
霧が濃さを増した。反してレオたちの姿は薄く霞んでいく。もうわかる。迫る、別れのとき。
もはやよく見えないけれどきっと真っ正面から向かい合っているとわかるレオの気配。そこから声がした。
ーーアンタは俺らに名を与えてくれた。今度は意味を与えてくれーー
ーーあっちの世界で、生かしてくれーー
…うん。
わかった。わかったよ、レオ。
やっと、そう返した。私は笑った。そう、こんなときこそ笑顔でいようって、精一杯。
湿っぽいのはやっぱ苦手だよ、私。
また、いつか。
…ぎ……
…浅葱……
重い頭。鈍く痺れるような耳が受け止めた、声。
「浅葱?…泣いてるの?」
「タカ…」
半開きの目が捉える視界は揺らいでいた。その中の彼もまた。
ゆっくり辺りを見渡した。壁にもたれた身体は彼のものと並んでいた。肩からかけられたウサギ柄のブランケット。小さな部屋に差し込む夕日のオレンジ。積み上がったままの段ボール。
「悪り、俺も寝ちまったみたいだ」
引っ越しって疲れるんだな、と苦笑するタカ。ああ、とやっとのように思い出した。
早朝にやってきた江戸川区内の小さなアパートの二階。ここが私たちの過ごす場所、二人の部屋。
最寄り駅はまんま『江戸川』。勤務地船橋なのにって?いや、これが案外近いんだな。
朝からずっと荷物を整理していた私はコンビニで買ってきた昼食の後、ちょっと一息と壁にもたれたままうとうとと船を漕いでいたんだ。タカがいつから隣に居たのかはわからない。
「キリのいいところまで片付けるか」
「だね」
揃って腰を上げた。私の荷物とタカの荷物、それぞれが置かれた位置に向かった。段ボールを開き、衣類やら画材やら本やらを出す中で考えていた。
私があっちの世界に居たのは案外短い間のことだったらしい。特発性過眠症は深い眠り“ノンレム睡眠”が主体だと医師から聞いた。夢を見るのは浅い眠りの“レム睡眠”。
そう、夢…
ずっと前から知っていたはずの響きに複雑な思いが芽生えた。レオもサキも本当はいない。存在しない。わかっていたはずなのに…可笑しくて可笑しくて、寂しくて。
本と画材が詰まった箱の奥にやがてひときわ広い面の一冊を見つけた。これは、アルバム?取り上げた私はそれを膝の上に置いてパラパラとめくり出す。
ふふっ…思わず笑みがこぼれた。入れた覚えのないアルバムの中には幼い頃の私がいた。さてはおかんの奴…そう気付くなり微笑みはため息混じりの苦笑に変わった。
「オイ、写真なんか見てたら終わらないだろ」
呆れた声のタカが近付いてくる。ごめん、そう返そうとしたとき。
はら、と一枚隙間から床へ。
そっと拾い上げた。私は静止していた。
罫線入りのしわしわの紙。そこで憎たらしく笑っている、彼。
「何?お前の絵?」
興味深いのだろうか、タカが覗き込んでくるのがわかった。手元を見下ろしたままの私は答えた。
「うん、中学のときの…」
捨てたと思ったのに、そしてあっちの世界でもアイツに取り上げられたはずなのに。まさかこんなところにあったなんて、と驚く私の脳裏で声が響いた。
ーーこういうとこ、行きたいんだろ?ーー
高校で倒れたあの日、母校のパンフレットを見せてくれた。ずっと気付いてた、おかん。何してんだよ、何大事に持ってんだよ。
こんな、こんな前から、私の夢を…?
また目の奥に刺激を覚えた。私はとっさに顔を上げた。もう、最近の私ときたら泣いてばかり、もう沢山、そう思ってのことだったのに…
上を見れば天井の代わりに見下ろしてくるタカの顔。じっと心配そうに見ている…って、逃げ場ないじゃん、本当にもう!
ーーここに来る前、昨日。風呂と歯磨きとパジャマへの着替えと一通りを終え、自室に向かおうとした私を呼び止めた母。
これ持って行きな!
半ば強引に押し付けられたそれがアルバムだと気付いていた。だけど私は返したんだ。苦笑いと共に。
いいよ、そんな遠くないんだからさ。
母の顔が少し寂しそうだったのを覚えている。そんな顔すんな、と思ったことも、また。
浅葱…
少しの間を挟んで母の声がした。今度は何、そう返そうとしたとき。
「アンタとみーくんは誰が見たって仲がいいから心配なんだよ」
「何が?」
「落ち着かないうちに、デキ…」
「ねーよっ!!」
私は思わず顔をそむけた、というより隠した。おばあちゃんといいおかんといい、何なんだ全く。そんな色気ないし。むしろあったら……どうしよう?いや、やっぱないよ!って何度も同じ自問を繰り返しながら。
「大体おかんがそれ言う?」
私は切り返してやった。どうだ、ほれ、何も言えないだろ。何たって早まった結果がここにいるんだから、なんて内心面白がってさえいた。
そうだね…ついに認めた母。寂しげな笑みに気付いて胸がズキってなった。さすがに言い過ぎたか、と悔い始めていた。
だけど…
だけどね、浅葱。
声が続いた。顔を上げた母の表情に息が止まった。
「アンタを若気の至りの産物だなんて思ったことはない。一度もだよ…!」
動きを止めていた私の喉は、強く引き寄せられるなり息を吹き返したみたく音を立てて空気を飲んだ。強く強く、全身を締め付けられていた。痛いくらい。
「幸せになるんだよ、浅葱…っ…」
「…嫁ぐときにでも言ってよ、おかん」
まだ早いって。そう返しながら私も母の背中に手を添えた。こんなに痩せてたっけ?って、思った。
ーー日はすっかり暮れて、もう藍色の夜。
部屋にはまだ開け切れていない段ボールが2つ。これは明日に回すことにした。ラーメン屋行かね?というタカの提案に喜々として乗った。二人でアパートを出た。
「少し歩くけど、いい?」
「うん、別に」
二人で歩いた、江戸川の河川敷。降り注ぎそうな星空に目を奪われた。ちゃんと前見ろよ、彼に腕を引かれて我に返る。でもまた見上げてしまう。また腕を引かれる。
「浅葱、お前さ、俺を心配性にさせたいの?」
ため息混じりの彼が言う。
「もう心配性じゃん」
私はしれっと返してみせる。
「お前が危なっかしいからだろ」
「そんなことないもん」
「言ったな?じゃあもう転びそうになっても手貸してやんねーぞ」
「…いいよ」
「…無理」
カンカンカンカン!!
勝者、浅葱っ!私はふざけた内心でガッツポーズを決める。ちょっと憮然とした様子のタカに向かってにんまり。
お前、あざとくなったよな…そうこぼす彼に、あざとい?何それ美味しいの?と返したくなったがさすがにもう可哀想だからやめといた。これくらいにしとこうって。
安心しなよ。私がこんな意地悪するのはアンタくらい…うん、これも黙っとこう。
…でも良かった。
ふと声がした。ちょうどいいくらいに低い、彼の声。
「浅葱、よく笑うようになったから」
そう言って振り返る。微笑む。その顔は星たちよりも眩しくって、私はうっ、と詰まってしまう。
歩調を緩めた彼を置いて私は足早に前へ進んだ。背を向けたまま言った。
「タカといると楽っていうか…自然でいられるんだよ」
色気はないけど。
おまけみたいに付け足した、最後の一言にまさか反応されるとは思わなかった。すぐに追いついたタカが、横から。
「色気、欲しいの?」
うっ…私は身を引く。真っ直ぐ見つめてくる静かな眼差しにごくり、と喉が鳴る。
「…別に、いらないし」
「あっそ」
「…少し、くらいなら」
「どっちだよ」
カンカンカンカン!!
勝者、巳隆っ!内心の私が両膝を着いて崩れた。浅葱?と言ってなおも覗き込んでくるタカ。私のは意地悪でもこっちは違う。そうだ、コイツはこういう奴なんだ、と今更のように実感して…もう、逃げたい…!!
顔を伏せながらとぼとぼと歩く私に一歩前の彼が
「行こう」
って、手を差し伸べて。
逃げたい、そんなときもある。でも私はそうしない。逃げないよ。変わっていく自分が怖いけど…
この優しさが、怖いけど。
ーー信じる力がどれ程大きいか…ーー
蘇る、いつか聞いた言葉。いつ何処で聞いたんだっけ?もう、遠い記憶。
私は歩き出した。歩調を早めた。追い付いた。信じられる、そう確信して手を取った。
再び歩き出した河川敷、星空の下。見惚れる景色の中で鳴り響いた二つの腹の虫の声に気付いて笑った。本当にムードないね、色気もないね、私たち。でも、今はこれでいいよねって思った。
一組の家族とすれ違った。私たちより歳上であろう夫婦、その間でばんざいしている幼い子の後ろ姿を振り返って見た。それからまた前を見た。こっそり頷く私は胸の内で。
うん、今はこれでいいよ。いつかあんな風に変わっていくとしても…描くから。
未来も物語もタカと一緒に、描いていくから。
そして天に向かって呼びかける。澄んだ冬の空に瞬く星々に重ね合わせて。
レオ、サキ…
モモ、シン…
ルナ、マミ……みんな。
待っていて。




